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年次大会
大会報告:第42回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第4部会)

 第4部会:コミュニケーション関係  6/12 10:00〜12:30 [3号館3311教室]

司会:吉瀬 雄一 (関東学院大学)
1. マス・コミュニケーション研究における新しい「送り手論」構築の可能性とその地平
−「送り手の劣位性」論議を中心に−
前田 益尚 (成城大学)
2. 政治過程におけるメディアの役割 井上 善友 (成城大学)
3. イデオロギー装置としての「英米語」
−その準拠集団・論理・権力−
ましこ・ひでのり (和光大学)
4. エスノメソドロジー的思考の源泉
−試論−
水川 喜文 (日本学術振興会)

報告概要 吉瀬 雄一 (関東学院大学)
第1報告

マス・コミュニケーション研究における新しい「送り手論」構築の可能性とその地平
−「送り手の劣位性」論議を中心に−

前田 益尚 (成城大学)

 従来、現行上意下達のマス・コミュニケーション・プロセスにおいては、一義的に「送り手の優位性」(sup-eriority of communicater)を謳う伝統的マス・コミュニケーション論「効果と影響研究」(effects and in-fluences research)が、相応の有効性を認められてきた。対して、昨今の「利用と満足研究」(uses and grati-fications research)は、多義的ながら「受け手の優位性」(superiority of mass audience)の端緒を示唆してきた。しかし、これら経験主義的(empirical)実証研究の相克をめぐる限界点も、今日の 「カルチュラル・スタディズ」(cultulal studies)諸説等によって、指摘されつつある。 さて、現代の「送り手」とは、その定義も含めて、「受け手」に対し一義的な「優位性」を予見できるのであろうか。

 例えば、公共放送局に「原子化された個人」たる「受け手」から数十人単位の苦情電話があれば番組は中止されると言う。又、出版業界では週刊誌一週1%の返本で何百万単位の損失とされており、リスク軽減の処方として、「送り手」は「読者アンケート」等に神経症的(neurotic)マーケティングを敷いている。

 上記、「視聴率」、「購買数」および世論として抽象化(加藤秀俊 1957)された「受け手」の「民主理性」(Certeau,M,D.,1980.)の発露は、少なくとも、こと現行「マス・コミュニケーション・システム」に関してはオプティミスティックな古典的「民主主義」理論の再評価の可能性(藤竹暁 1990)を含意していよう。

 本報告においては、従来「優位性」を与件とされてきた 意識産業 ('Bewustsein-Indusstrie';Enzensberger,H.M.,1962)たる「送り手」概念の再検討、ならびに「主体性」(subjectivity)の行方をめぐる理論研究の成果を提出する。

第2報告

政治過程におけるメディアの役割

井上 善友 (成城大学)

 1993年の政権交代劇に際してテレビが大きな役割を果たした、と言われている。こうしたテレビと政治の関わりをたどってみると、まず、1988年に発覚したリクルート事件と、同じ頃に巻き起こった消費税騒動をワイドショー、その他の番組がこれらのことを大きく取り上げるようになり、視聴者が政治に関心をもつようになった。そして政治家が出演する番組が飛躍的に増え、その延長上に今回の政権交代劇とテレビの関係がある。さらに、細川政権は、政治改革法案の成立、米の部分解放、税制改革を含む景気対策等の大きな政治課題に取り組んできた。そして、その都度テレビ局は世論調査を頻繁に行うようになった。そして、こうした調査の結果が政治家にも大きな影響を与えていることが示唆される。

 例えば、細川首相の唐突な国民福祉税の発表は、政治改革法案成立直後の世論調査において、内閣支持率が非常に高かったことが一因だともいわれている。 以上のようにテレビが政治過程に大きな影響力を持つようになって来たが、アメリカでは1950年代から政治家のテレビ利用が始まったとされていて、日本よりもテレビと政治の関係は歴史が長い。

 そこで、今回は、日本におけるテレビを中心としたメディアと政治の関係、また適宜アメリカにおけるテレビと政治の関係についての報告を行いたいと思う。

第3報告

イデオロギー装置としての「英米語」
−その準拠集団・論理・権力−

ましこ・ひでのり (和光大学)

 いわゆる「英米語」が「不偏不党の国際語である」といった、おめでたい議論は、かなりまえからエスペランティストたちの、きびしい批判をあびてきたし、近年では、言語学/コミュニケーション理論からも、さまざまな問題性を指摘されてきている。しかしあいかわらず英会話ブームは、かげりをみせていないし、学校教育/アカデミズムでの、「英米語」の優位性は、ゆらぐどころか、むしろ、冷戦構造のおわり=合衆国の突出化によって、「英米語」の「国際語」化は、ますます、「既定」事項に、なりつつさえある。こうした「英米語」の権力性、英会話ブームの病理などについては、ともに1990年くれにでた[「英語」イデオロギーを問う](大石俊一)、[英語支配の構造](津田幸雄)に、ほぼ論点がつくされているとおもわれる。しかし、英米文学/会話教育にたずさわる研究者による、内部告発であるこの2冊は、英米至上主義の差別/権力性、バイリンガル志向のアイデンティティ不安など、日本人がまきこまれている、状況の不当性や、日本人の神経症的状態を、指弾することにのみ、終始していることは、いなめない。いわば、「日本人」論=外国語コンプレクス論のバリエーションのひとつなのだ。

 本発表では、両氏がとりあげなかった、一見マイナーな素材をいくつかあげることで「日本人」論ではない、教育知識社会学的分析をこころみる。

第4報告

エスノメソドロジー的思考の源泉
−試論−

水川 喜文 (日本学術振興会)

 これまで、エスノメソドロジーは、(間)主観的な意味付けやリアリティ構成を扱うものであり、現象学派(意識の哲学)に入るものとされてきた。一方、最近では、エスノメソドロジーと会話分析を、相互行為場面における会話のパターンをミクロ社会学的に扱う、一種の「行動主義」として理解されることもある。

 しかし、1960年代後半におけるH.Garfinkelの「転回」(1993日本社会学会報告)と、その後の展開をみると、エスノメソドロジーの革新的な部分は、これらとは別なところにあるように思える。それは、社会秩序を自然言語の使用という面から批判的に考察するという方針である。エスノメソドロジーは、現前の会話という言語行為を分析すること(会話分析)により飛躍的に分析能力を高めた。これは、いわゆる分析哲学が、戦略的に「方法論的唯名論」(R.Rorty)をとった際に、言語の論理学的分析から開始したことを想起させる。この文脈から考えると、会話分析は、日常会話の構造を経験的に発見する行動主義でも、それにより主体のリアリティを再構築(意識の哲学)するための技術でもなく、言語批判を準備するための日常生活の論理学として理解できるだろう。H.Garfinkelの「ネオ・プラクシオロジー」は、ここから展開を始めるのである。

報告概要

吉瀬 雄一 (関東学院大学)

 本部会では、コミュニケーションに関わる報告が行われた。

 まず、井上善友氏「政治過程におけるメディアの存在」は、テレポリティクス時代における、テレビを中心としたメディアの機能を、昨年の総選挙を題材に、多様なかたちで浮き彫りにしてみせた。

 氏によれば、メディアの影響力は増大しつつあるが、テレビ出演は議員にとって必ずしも有利な結果をもたらすとはかぎらず、クラッパーの「補強効果理論」の有効性が確認されたという。

 フロアからも指摘があったが、氏の知見を裏付ける経験的データの提示が望まれるところである。

 次に、ましこ・ひでのり氏「イデオロギー装置としての「英米語」」は、今日、外来語をめぐって進行しつつある危機的状況をつくりだした要因のひとつに、英米語の圧倒的な優位性をあげ、それが中等以降の教育における英米語教育と専門職における英米語の再生産との間に見られる「マタイ効果」によってもたらされるとした。氏は、こうした状況を批判的に検討するためには、ナショナリスティックな立場からではなく、知識社会学的・教育社会学的な立場からのアプローチが必要だという。

 素材が身近にありながら、問題提起が本質に及んだため、活発な質疑応答はなかったが、発表者独自のパースペクティヴに関する説明も含めた、より明確なかたちでの展開を期待したい。

 さらに水川喜文氏「エスノメソドロジーの源泉――試論――」は、一方で現象学派の流れに位置づけられながら、他方で行動主義の一貫とみなされることもあるエスノメソドロジーのあたらしさは、じつは両者にではなく、社会秩序の論理学への志向に求めることができるという。氏は、ガーフィンケルの「ネオ・プラクシオロジー」への転回もそこに源があるとした。

 本報告も難解な内容を含んでいたため、フロアからの反応は少なかったが、部会終了直前に展開された井上、ましこ、水川三氏による質疑応答は聞きごたえのあるものであった。

 奈緒、残念ながら、前田氏が心臓疾患のため出席不能となったため、報告は都合3本となった。この場を借りて、氏のご健康をお祈りしたい。

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