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年次大会
大会報告:第44回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第2部会)

 第2部会  6/9 10:00〜12:30 [N棟N202教室]

司会:佐藤 健二 (東京大学)
1. テレビ視聴という経験の質の検討
――受容過程論から「解釈過程論」への視座転換のための一試論――
浅岡 隆裕 (立教大学)
2. 「民衆娯楽」の展開とその変容
――権田保之助の娯楽研究の軌跡をとおして――
渡辺 暁雄 (明治学院大学)
3. 宗教の「利用」と現代中国の宗教政策 中島 祝 (慶應義塾大学)

報告概要 佐藤 健二 (東京大学)
第1報告

テレビ視聴という経験の質の検討
――受容過程論から「解釈過程論」への視座転換のための一試論――

浅岡 隆裕 (立教大学)

 文化と呼ばれるものの構成要素のうち、現代社会においてはメディア・コミュニケーション(とりわけマス・コミュニケーションという形態)によって得られているものの割合が非常に大きな位置を占めている。このような基本的認識によって、コミュニケーション研究が展開されてきているわけであるが、それは一枚岩的な研究過程ではない。例えば、マス・コミュニケーションでは不可避な《送り手−受け手》という役割固定の図式に従って、一方の極にいる受け手観の違いを軸に、様々な論争が行われてきた。

 ところでメディア・コミュニケーションにおける「能動性」とは読解レベルのみのそれを指すのではない。実際解釈過程には読解そのものとそれに続く一連のプロセスが存在する。その後の対人関係における評価・討論によって、その受容内容が変化していくが、そのような営みの動因こそがコミュニケーション主体の能動性ということができよう。

 メディア・コミュニケーションの一連のプロセスの展開を保証する一貫した態度として「批判的態度」が挙げられる。このような態度・志向こそがメディアの受容の方向性を最終的に確定すると考えられるのである。

 本報告では受動的経験と考えられがちなテレビ視聴という経験で、視聴行動の能動性の一つの根拠になりうる「批判的視聴態度」が、広範に散見される新聞投書の事例を検討する。その上で、受容という受動的側面が強い受容過程論に代わり、人々の内的な反応過程や社会的言説空間での相互作用を視野に入れた「解釈過程論」というパースペクティブを提案していく。

第2報告

「民衆娯楽」の展開とその変容
――権田保之助の娯楽研究の軌跡をとおして――

渡辺 暁雄 (明治学院大学)

 娯楽・余暇研究家,権田保之助(1887〜1951) は、大正デモクラシー期から軍国主義が台頭、日本中を席巻した太平洋戦争期にわたって、常に第一線で活躍していた。

 大正末期のデモクラシー的風潮により、多くの「民衆娯楽」論が輩出したが、その多くは娯楽統制や民衆教化といった国民の「管理・啓蒙」を由とするものや、娯楽による労働力の再創造という「生産性増進」を目的とするものであった。その中で権田は「人間生活創造の為めの娯楽」を提唱し、体制に組み込まれようとする「民衆」に対し、娯楽・余暇活動を通しての自らの手による「生活の創造」の方向性を示唆した。

 しかし1937年に日中戦争が勃発する頃から、「全体の存在目的の為めに個体の娯楽生活を統制し始動せん」というように、彼の「民衆娯楽」論は、戦争遂行のイデオロギーである「国民娯楽」論へと大きく変容することとなる。

 従来の研究では、この変容を、所謂「転向」として「民衆娯楽」論から切断し、「国民娯楽」期の研究、あるいはそれに至る過程の研究は、殆どなされていない。だがその変容過程に対する諸疑問は、当時の知識人たちに対する共通の疑問でもあり、さらには日本「近代」における普遍性を帯びた疑問でもある。今回の報告では、権田を「変容」に至らしめた数々の要因について検討し、「転向」の一言では切り捨て得ない彼の思想が内包する多様性や限界を明らかにし、そこから「近代」日本を照射する糸口を探りたい。

第3報告

宗教の「利用」と現代中国の宗教政策

中島 祝 (慶應義塾大学)

 ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などの著作において、理念型という方法によって宗教社会学の考察を行なっている。沼尻正之の指摘にしたがってウェーバーの理念型を「一般的理念型」と「個別的理念型」に区分して考えると、一般的理念型として「現世内的禁欲」「現世逃避的禁欲」「現世内的神秘論」「現世逃避的瞑想」「現世拒否的禁欲」の五類型が挙げられる(芹川博通の指摘による)。

 ウェーバーの業績は、理念型という分析方法を構築し、さらにそれを比較の視点と密接に結び付けて論じた点において、また、宗教を外面的で観察可能な側面から研究した点において、大いに学ぶべきものがある。しかし、ウェーバー諸説の諸類型は西欧地域を研究するために立てられたものであり、中国や華人の社会を研究するためにはあらためて類型を考える必要がある。

 そこで報告者は、まず宗教は人々に「利用」されるものであると考え、その上で、<修養的利用><メディア的利用><財的利用>の三類型からなる一般的理念型を呈示している。このような視点から、今日の中国の宗教について、特に政策面に着目して論じる。

報告概要

佐藤 健二 (東京大学)

 第2部会では、三つの報告があった。第一報告は、浅岡隆裕(立教大学)さんの「テレビ視聴という経験の質の検討」であった。マスコミ研究を支配してきた、送り手/受け手のいささか固定的な図式に対するこれまでの批判的な検討をふまえ、受け手の批判性・能動性に焦点をあてるパースペクティブへの転換を模索したもの、それを発表者は「解釈過程」の問題としてとらえる。理論的な主題の動向としては興味ぶかいが、討論時に言及のあった先行業績の利用可能な基礎資料の再分析をふくめ、具体的な現実へのとりくみが欲しいとの感想をもった。第二報告は、渡辺暁雄(明治学院大学)さんの「「民衆娯楽」の展開とその変容」であった。権田保之助の民衆娯楽論をとりあげて、とりわけ「転向」として切りすてられることの多い、民衆娯楽から国民娯楽への変容を、むしろ権田の思想に内包された限界の問題として論じなおそうとした。権田を再評価した鶴見俊輔の思想そのものにまで批判をおよぼそうとする意欲には、大いに期待する。しかし、歴史となってしまった過去の実践を批判するとき、たとえば階級の視点の不徹底など、結果からの裁断に必要以上の力をあたえてしまわず、その時代からのものの見えかたを復元しつつ、複眼的にみていくことが重要ではないかとの印象をつけくわえておきたい。第三報告は、中島祝(慶應義塾大学)さんの「宗教の「利用」と現代中国の宗教政策」と題された報告で、ウェーバーの類型論や理念型についてふれたあと、宗教の修養的利用・メディア的利用・財的利用といった類型を設定して分析していく構想を発表した。全体として、分析以前の観念的な枠組みづくりにとどまっていて、これが中国の複雑な宗教の現実に対して、どのていど切り口として通用するのかを不安に思った。発表者によれば、留学を通じて今後、宗教政策の現実に直面するとのことで、そうした経験をへての成果を待ちたい。発表を熱心に聞いた一人としてのコメントに傾いた点はご容赦願い、論文としてまとめるとき、想定される批判の防御線の張りかたに生かしていただければ幸いである。

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