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年次大会
大会報告:第44回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会4)

 テーマ部会4 「広域と局域」 交錯するグローバルとローカル──太平洋世界と脱国家的アイデンティティ──
 6/9 14:00〜17:15 [新3号館西347教室]

司会者:吉瀬 雄一 (関東学院大学)  町村 敬志 (一橋大学)
討論者:有末 賢 (慶應義塾大学)  小井土 彰宏 (上智大学)

部会趣旨 町村 敬志 (一橋大学)
第1報告: 「局所」と「全域」、「広域」と「局域」
──社会空間のリアリティの位相と構造――
若林 幹夫 (筑波大学)
第2報告: 世界のウチナーンチュ・ネットワーク構想
──脱国家的オキナワ・アイデンティティ構築の可能性──
新垣 誠 (筑波大学)
第3報告: ハワイ先住民と日本人観光客
──ツーリズムと地域主義の葛藤──
山中 速人 (東京経済大学)

報告概要 吉瀬 雄一 (関東学院大学)
部会趣旨

町村 敬志 (一橋大学)

 現代社会において<グローバル−ローカル>の交錯をいかにとらえるか。このことは、ポストコロニアル論、ディアスポラ論など多様な思想的動きとも連動しながら、社会理論のさまざまな領域で大きな議論を呼んでいる。空虚なグローバル化論を排する一方で、ローカルな世界の一方的な賞賛にも陥らないためには、いったいどのような戦略をとればよいのであろうか。ここで求められるのは、たとえば「グローカル」といったあいまいな中間領域を設定することではないだろう。そうではなくて、資本や情報のような絶えずグローバル化していくシステムの領域と、他方でサブカルチュアや親密圏を通じてローカルな領域へと内向していく生活世界の領域の間に発生する不断の緊張関係の中で、両者の関係をダイナミックにとらえていく視点が、おそらく求められている。ローカルな世界はどのような形でグローバルな領域の影響にさらされているのか。またグローバルな社会関係が力を増すにつれて、なぜ逆にローカルな領域の存在がむしろあぶり出されてくるのか。

 この部会では、<グローバル−ローカル>の交錯状況におけるアイデンティティとリアリティの変容というテーマを、とくに太平洋世界という広がりのなかで具体的に考えてみたい。戦前の「南進」論や大東亜共栄圏構想から近年のAPECに至るまで、広大な太平洋世界はたびたび一体性の政治的神話を構築するための舞台を提供してきた。しかしこうした統治者の視点とは別に、太平洋世界を移動してきた膨大な移民や出稼ぎ労働者、そして観光客たちの存在は、人為的に引かれた国境とは独立の形で、太平洋世界のあちこちに多様なアイデンティティの形を創出してきた。そこでは、どのような時間的系譜性と空間的領域性が新しいアイデンティティ形成の基盤となっているのか。沖縄やハワイの事例を素材としながら、<グローバル−ローカル>関係の現代的揺らぎの様子を、理論的側面と実証的側面の双方から浮かび上がらせてみたい。なお、今回のテーマ設定は新しい研究領域を切り開くための冒険的な試みという意味合いを持っている。それだけに、報告者、討論者、そしてフロアそれぞれからの発言を交えながら、創造的な形で議論を深めていきたい。

第1報告

「局所」と「全域」、「広域」と「局域」
──社会空間のリアリティの位相と構造――

若林 幹夫 (筑波大学)

 人間の社会経験や社会了解には、自らの身体の近傍の広がりとして「局所」的に捉えられる位相と、ちょうど地図を介して了解される空間の広がりのように、そうした近傍を越えて、複数の「局所」をその内部に含む広がりとして想像的に了解される「全域」的な位相とが存在している。人びとは局所的な経験のみを直接的な経験として生きながら、それを全域的な社会像の中に位置づけることによって、社会的世界を生きる。この時、人びとが自らを位置づける社会の全域的な広がりは、近隣共同体のように直接経験される局所的なリアリティの積分に近い場合もあれば、国民共同体や太平洋世界のように、局所的なリアリティの積分を遥かに越えた想像的なものである場合もある。また、系譜関係や歴史的過去の集積のなかで自らの存在を位置づけるように、社会の全域的な広がりには時間的なモメントも内包されている。人びとが了解する「社会」とは、自らの近傍に広がる「局所」がその内部に位置づけられる全域的な時空構造であると、さしあたり言うことができるだろう。この全域的な時空の広がり(=社会)は、均質で単一な広がりとして存在しているのではない。人びとはある親族関係の全域の内部に自らを位置づけると同時に、地域的な共同体の内部に自らを見出し、かつまた国民共同体や文明圏、資本主義化された世界などの、多層的で異なる時空構造をもった全域を重層的に生きる。この時、社会空間の全域的な広がりは、その内部に様々な広がりの度合いと構造、位相をもったものとして現れる。こうした事態を意味する言葉として、先の「局所」「全域」と区別して「局域」「広域」という概念を用いることができるだろう。これら四つの概念の交錯する場所に、社会了解と社会経験のリアリティをめぐる問題を理論的に把握する可能性を求めること。それを大会での報告の課題としたい。

第2報告

世界のウチナーンチュ・ネットワーク構想
──脱国家的オキナワ・アイデンティティ構築の可能性──

新垣 誠 (筑波大学)

 近代と日本という国家の枠組みのなか、沖縄のアイデンティティはゆらぎ続けてきた。琉球王国という統一国家の歴史を持つ沖縄は、1879年の「琉球処分」によって日本国家の一部に組み込まれるが、その後、国民国家という政治的単位形成と「日本人」という規格化された国民を造り上げる近代化へのプロセスのなか、「沖縄人」は「未開」な他者として「近代的な日本人」との位階序列の関係のなかに設定され、労働、教育などの場=装置を通して様々な政策のもと「日本人化」していった。1945年以降、沖縄は米軍統治化で“Ryukyu”となるが、1972年の「日本復帰」で再び日本の一部となり現在に至る。

 しかし、復帰後も深刻な米軍基地問題で日常生活を脅かされ続ける沖縄の住民への日本政府の今日の対応は、地理的にも精神的にも遠い「日本本土」に対する不信感を人々の間につのらせる結果を招き、国家の周縁にあって副次的な沖縄の存在を再認識させたといえる。このようななか、これからの沖縄のアイデンティティを日本本土との対比にでなく、かつての「海洋民族」としての独自の歴史と、「移民県」であったが故に広がった国際的ネットワークをもとに再定義・構築していこうという動きが見られる。それはグローバライゼイションが進む国際社会のなかで自らを「日本人」というよりはむしろ「ウチナーンチュ(沖縄人)」として意識し、その新しい意識のなかにより肯定的な主体性を見い出そうとするトランスナショナルな試みである。

 このような動きと同時に見られる若い世代の沖縄文化への回帰現象、最近メディアに再び姿を現した「沖縄自立・独立論」と、今日、沖縄はゆらぎ続ける。多国籍化したヴァナキュラー文化を通して更に雑種性を増していく沖縄のアイデンティティ、沖縄系二世・三世をも含む脱中心化された新しい「ウチナーンチュ」の定義は、遠隔地ナショナリズム、ディアスポラ共同体などの概念をも彷彿させる。果たして脱国家的オキナワ・アイデンティティの構築は可能か。

第3報告

ハワイ先住民と日本人観光客
──ツーリズムと地域主義の葛藤──

山中 速人 (東京経済大学)

 本報告は、1980年代以来行っているハワイ先住民居住地区でのフィールドワークによって得られた知見に基づきながら、ハワイにおける日本人観光客と現地社会とりわけポリネシア系先住民の両者を比較しながら、それぞれの広域・局域の諸相を明らかにしたい。

 観光は、今日、国際間の人的移動の重要な一角を形成する。余り知られていないが、産業としての観光が想定する世界像においては、世界中のいかなる地点もフライト時間と往復運賃および滞在費の関数として表現される。一方、個々の観光客が体験する局域としての地域のイメージは、リゾート空間の建築デザイン的構成に従属するきわめてミクロな環境の中に閉ざされている。ハワイ観光は、そのような形態のひとつの究極の姿を示している。1930年代のハリウッド製南洋ミュージカルが描いた観がワイキキの空間を造形させた。

 他方、ポリネシア先住民は、70年代以降隆盛をしめした民族意識復興運動であるハワイアン・ルネッサンスを経験し、ポリネシア世界との一体感を増大させると同時に、伝統的共同体としてのアフプアア的生活世界への回帰という地域主義をうんだ。

 先住民運動は、水や土地をめぐって各地で観光開発事業ときびしい葛藤を生じさせているが、このような葛藤は、とりわけ1980年代後半のバブル経済下に起こった日本観光資本による観光開発をめぐる紛争に象徴的に現れた。日本人観光客にとっての国際観光地ハワイ、ハワイ先住民にとってのアイナ(土地=育むもの)としてのハワイを対比しながら、両者の広域と局域のずれと葛藤を考察したい。そして、その中間にある媒介項としてのハワイ日系人にも触れてみたい。

報告概要

吉瀬 雄一 (関東学院大学)

 本テーマ部会においては、ヴァナキュラーな日本文化を通して、脱国家的なアイデンティティはいかにして言説化・可視化しうるか、という問題提起にもとづいて、若林幹夫氏(筑波大学)「「局所」と「全域」、「広域」と「局域」」、山中速人氏(東京経済大学)「ハワイ先住民と日本人観光客」、および新垣誠氏(筑波大学大学院)「世界のウチナーンチュ・ネットワーク構想」の3報告がなされた。

 第一報告の若林氏は、グローバル(=広域)とローカル(=局域)という概念系とは分析的に区別すべき重要な概念系として、局所と全域が存在することを強調する。 近代におけるグローバルな空間の出現とともに成立した広域と局域という、社会システムに関わる概念系は、それらを了解しそれらへ関わるための局所と全域という、行為システムに関わる概念系に対して、時空認識の再編を迫る。

 「ローカル=グローバル問題は、単に社会システムの地理的な空間上の範域的な展開の問題としてではなく、人びとや集団が社会図式(個人および集団が、自らの帰属する社会の全域的な広がりを了解する図式)を通じて、世界を世界=時間および世界=空間として了解し、その内部に自らを位置づける社会的状況性の問題として思考されうる」という。 それでは、そうした社会的時空のひとつとしての太平洋世界は、いかなるかたちで像を切り結ぶのであろうか。

 第三報告の山中氏は、太平洋世界をめぐるリアリティが、日本人観光客、ハワイ先住民族、および日系ハワイ人のそれぞれにおいて全く異なったものとして現出していることに着目する。

 すなわち、日本人観光客にとって広域としての太平洋世界(全域)とは、スケルトン料金によって一元化された均質空間であり、そこで体験される局域としての太平洋世界(局所)は、ジャルパックの広告に代表されるような、演じられた空間であるという。そしてそれは、1930年代のハリウッドが想定した、閉鎖的な世界としてのリゾート、ハイパーリアリティとしてのワイキキであった。

 これに対して、ハワイ先住民にとっての広域としての太平洋世界(全域)は、古代の民を包括する幻想的共同体としてのポリネシアであり、局域としての太平洋世界(局所)は、アフプアア的生活世界、つまりは山々に囲まれ、サトウキビではなくタロイモを栽培する、砂浜ではなく、磯浜なのである。

 ここにおいてわれわれは、全域と局所をめぐるリアリティが先住民とツーリストにおいて大きく異なることを再認識させられることになる。

 さて、このような2つの社会的世界の間でマージナルな立場におかれることになるのは日系人である。

 第二報告の新垣氏は、沖縄および沖縄人の脱国家的アイデンティティ形成の契機を1990年に開催されたウチナーンチュ大会に求め、そこにおいては、従来のヤマトーンチュ対ウチナーンチュという、いわば国家的な枠組みに囚われたアイデンティティを超えた、一般的・包括的なアイデンティティが醸成されたとみる。しかし、そのアイデンティティも、政府の国際交流のディスクールによって外部から、またそれ自体の多様化によって内部から揺るがされているという。

 氏は、そうした現状認識をふまえ、グローバルとローカル、およびパブリックとプライベートという2つの軸が交錯するところに、ヴァナキュラーな文化を超えたコモナリティが成立するとし、その契機を音楽や舞踊の世界に求めた。

 以上のような議論に対して、討論者の有末賢氏(慶應義塾大学)は、ワールドカップの日韓共同開催に言及しながら、ディスクールとしての共同体のもつ意味を三氏に問い、もう一人の討論者の小井土彰宏氏(上智大学)は、共同体形成におけるマージナリティの重要性を指摘しつつ、そこに向けられる内からのまなざしと外からのまなざしの交錯のありようを三氏に質した。その後、フロアからの質疑応答も含め、グローバルとローカルをめぐってきわめて活発な議論が展開された。

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