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年次大会
大会報告:第48回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第7部会)

第7部会:理論・研究法  6/11 10:00〜12:30 [1210教室]

司会:菅野 博史 (帝京大学)
1. アミタイ・エツィオーニと新しいコミュニタリアリズム 畑本 裕介 (慶應義塾大学)
2. Habermasにおける批判理論の理念
――Rawlsとの対話から見えてくるもの
伊藤 賢一 (学習院大学)
3. 結果開示から過程開示へ
――共同研究報という実験
伊達 康博・廣瀬 拓人
藤山 新・本郷 健
(東洋大学)

報告概要 菅野 博史 (帝京大学)
第1報告

アミタイ・エツィオーニと新しいコミュニタリアリズム

畑本 裕介 (慶應義塾大学)

 かつての主体か構造か,行為者かシステムかの二者択一に拘らなくなった社会学は、その両者の成果を踏まえた論考を数多く生み出している。例えば、アンソニー・ギデンズの社会学などには明らかなことであろう。

 しかしながら、二者択一を乗り越えたとはいえ、比重がどちらかにある議論であるという事情は変わっていない。ギデンズの場合には、明らかにシステム、ひいては社会の安定を軽視する傾向がある。誤解を恐れずにいえば、主体的行為(agency)の能力に期待するあまり、社会の変革には目が向くが、もう一つの重要な価値である社会の安定には目が向いていない。つまり、ある場合には重要となってくる選択肢を放棄してしまっているのである。

 よって、新たにこれを補う理論を求める必要がある。主体的行為に代表される行為者の自律性とバランスを取るために、社会秩序の安定についても同時に考察していかなければならない。

 もちろんこれは、権威主義へと向かうのではない。むしろ、社会秩序の重視はすなわち権威主義であるという図式を乗り越え、自律性と秩序の相克を明確にし、かえって両者をそれぞれの状況に応じて選択する選択肢とすることが可能なように議論を整えていく作業である。

 本報告では、こうした目的に添うような形で、アミタイ・エツィオーニの「新しいコミュニタリアニズム」を取り上げ、検討・考察してみたいと考えている。

第2報告

Habermasにおける批判理論の理念
――Rawlsとの対話から見えてくるもの

伊藤 賢一 (学習院大学)

 1995年にJournal of Philosophy誌上で交わされたHabermasとRawlsの対話は、多くの対話や論争と同じくいくつかの誤解やすれ違いを含んだものであったが、政治哲学の意味と役割・政治哲学における自由の根源性・正義と正統性の概念的関係と、論点も多岐にわたっていただけでなく、お互いの立場の相違が明確になった点で意義深いものであった。この対話はRawlsの『政治的リベラリズム』(1993)についてHabermasが批判した論文に対して、Rawlsが応え、さらにHabermasが再批判するという経過をとったので、「重なり合う合意」「原初状態」「理性的(reasonable)」という概念などといった、Rawlsに由来する主題が中心になっているが、そこに開陳されたHabermasの「読み」とRawlsの「意図」は微妙にずれていて、われわれはこのずれにこそ両者の理論的スタンスの違いを垣間見ることができる。

 本報告ではこの対話において、特に「手続的正義の概念」をめぐる相違点に即して明らかにされているHabermas理論の基本的立場と自己理解を明らかにしたい。ここに示されているのは「言語論的転回」を経て、Horkheimer, Adorno, Marcuseらいわゆる「フランクフルト学派」第一世代の掲げた批判理論の理念とは一線を画しているHabermasの理念である。

第3報告

結果開示から過程開示へ
――共同研究報という実験

伊達 康博・廣瀬 拓人・藤山 新・本郷 健
(東洋大学)

 我々共同研究グループは、試行錯誤の中から新しい社会学の研究・考察方法を模索する為に、1999年5月に東洋大学大学院社会学研究科博士前期課程に所属する学生有志で結成したグループです。

 社会を読み解く方法に関して、従来の理論研究だけでなく、柔軟で、変幻自在な発想力を持つこと、情報社会に対応した表現力を向上させること、そして学問情報の徹底した開示による社会還元などを目標にしています。

 今回の報告題目「結果開示から過程開示へ〜共同研究報という実験〜」は、このような新しい試みと、その実例として行なっている「共同研究・大阪」の紹介です。自らの研究過程を公にする「共同研究報」も2000年3月で7号を数えました。寄稿者も、学問の場とは関係のないような人たちにまで広がりをみせ、我々のねらいの一端が芽を吹きつつあります。また、実例として行なっている「共同研究・大阪」は、世紀末の混沌の中で異彩を放っている「大阪」という都市を「複雑系」の社会と捉え、さまざまな角度から考察を加えようとするものです。

 今回の報告では、「できる限り興味を抱いて頂けるような情報開示」という我々の基本理念をお目にかけたいと思っています。

報告概要

菅野 博史 (帝京大学)

 理論・研究法と銘打たれた自由報告の第7部会では、以下の三報告が行われた。

 まず第一報告は、畑本祐介氏(慶應義塾大学)による「アミタイ・エツィオーニと新しいコミュニタリアニズム」と題された発表であった。このなかで畑本氏は、ギデンズの行為主体(agent)概念が自律的個人を全面に押し出すことで、社会の安定的秩序の側面を等閑視する傾向があることを指摘した上で、エツィオーニによる新しいコミュニタリアニズムがこのような自律的個人と社会的秩序(コミュニティー)とのバランスを強調するものであり、徳の再生を媒介にして個人主義と社会的保守の対立を超える第三の社会哲学になりえていることを述べた。これに対してフロアーからは、ギデンズは社会秩序の側面を十分に配慮して理論構築を行っているのではないのかという疑問や、エツィオーニによる個人と社会のバランスの実際についての具体的な質問が出された。報告者には、エツィオーニ理論の理念的内容をどう現実と結びつけるのか、また徳の再生をもちだすことの意味などが今後問われることになるように思われる。

 次の第二報告は、伊藤賢一氏(学習院大学)による「Habermasにおける批判理論の理念――Rawlsとの対話から見えてくるもの」であった。伊藤氏は、1995年に交わされたHabermasとRawlsとの対話の内容を双方の視点から詳細に紹介するとともに、その内実を批判的に検討することで Habermasの批判理論の理念を浮き上がらせようと試みた。それによれば、 Rawlsが具体的な正義の原理を提案しているのに対してHabermasはそうした正義の妥当性を問うディスクルスによる手続きの側面のみを提示しているにとどまっているだけでなく、Rawlsが「政治的なるもの」の領域に自らの議論を限定するのに対してHabermasは政治的領域ばかりでなく道徳的・規範的領域をも批判の俎上にのせられる「形而上学的なるもの」を目指しているのだとされた。また伊藤氏は質疑応答のなかで、Habermasは批判理論を手続きとしてではなく独自の理念として示せないことで、自己の立場を積極的に提示できないコミュニケーション理論の自己矛盾に陥っている可能性があることを示唆した。今後は形式的であるがゆえに批判性を確保できるディスクルス倫理の問題点やHabermasが暗黙の内に規範的理念を抱いていないかなどといったことも検討に値するように思われる。

 最後に第三報告は、伊達康博氏、廣瀬拓人氏、藤山新氏、本郷健氏の四氏(ともに東洋大学。なお四氏は自らを哲学堂本舗と自称している)による「結果開示から過程開示へ――共同研究報という実験――」というタイトルの発表であった。報告のやり方自体も、発表者が扇子をもって落語家(落研?)風に喋るという斬新なものであり、世界のタワー・アンブレラ、社会学双六、フェミニズム丸かじり双六などの新奇な創作アイテムの紹介などに見られるように、自由な雰囲気と奇抜な着想に溢れたものであった。そのなかで四氏は、おもしろ真面目な学問の重要性、おしゃべりや現場を見ることが社会学的研究にとって不可欠であることなどを述べるとともに、共同研究報という形でまとめられた哲学堂本舗の研究実践である大阪の共同研究についての説明を行った。フロアーからは、発表中流されていたビデオに映っていた人たち、特に路上生活者のプライバシーに問題はないのかといった疑問や、こうした発表をこうした場所で行うこと自体に対する嫌疑の念が述べられた。今後の検討課題として、研究の手の内をすべて明らかにするとともに、普通の言葉で社会学を語るという実践が重要な意味をもつことは論を俟たないけれども、学会発表の場で社会学者を相手に敢えてこうした試みを行うときには、それなりの社会学的な芸もまた必要ではないのかという意見に対して、どう対処するかも考えておく必要があるように思える。

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