HOME > 年次大会 > 第51回大会(報告要旨・報告概要) > テーマ部会B
年次大会
大会報告:第51回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会B)

テーマ部会B 「文化の社会学の可能性」  6/15 14:00〜17:15 [3号館2階323教室]

司会者:伊奈 正人 (東京女子大学)  奥村 隆 (立教大学)
討論者:奥井 智之 (亜細亜大学)  北田 暁大 (東京大学)  中筋 直哉 (法政大学)

部会趣旨 奥村 隆 (立教大学)
第1報告: 文化の社会学という困難 長谷 正人 (早稲田大学)
第2報告: 文化の政治学とアメリカニズム 吉見 俊哉 (東京大学)

報告概要 奥村 隆(立教大学)
部会趣旨

部会担当: 奥村 隆 (立教大学)

 「文化」という対象を研究する社会学、「文化」というパースペクティブをとる社会学に、いま、どのような可能性と課題があるのか。この問いから出発したこの部会も、2年目の大会シンポジウムを迎えます。

 カルチュラル・スタディーズに焦点をあてた1年目は、研究例会で瓜生吉則さんと本山謙二さんにマンガと島唄をめぐる研究について、大会で毛利嘉孝さんに北九州での「RE/MAP」という文化を作る実践、伊藤守さんに「プロジェクトX」などのテレビ番組の分析を中心に、報告いただきました。これらの報告と討論は、具体的な研究の「手つき」とともに、文化を研究することが社会や文化に囲まれた「実践」であること、その「外部」との境界での摩擦や政治性を浮かび上がらせました。2年目の研究例会では、北田暁大さんと中筋直哉さんに、広告や都市・地域という「外部」(と見えるもの)から「文化の社会学」がどうとらえ直されるか、を論じていただきました。

 こうした、いわば「外部」との境界・関係をめぐる議論を経て、今大会では、「文化の社会学」の最前線からその方向性と課題を指し示していただける方として、長谷正人さんと吉見俊哉さんに報告をお願いしました。論文「文化のパースペクティブと日本社会学のポストモダン的変容」(『文化と社会』第3号)で社会学の視点の変容を論じた長谷さん、90年代以降『カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店)ほかの多くの作品でカルチュラル・スタディーズを日本に精力的に導入してきた吉見さんが、いまの時点で「文化」をめぐる研究や「文化」のパースペクティブにどんな可能性と困難があると考えておられるのか。例会報告者の北田さんと中筋さん、および奥井智之さんとの討論で、「文化の社会学」の可能性と困難さをめぐる見解の共通点と相違点が浮かび上がり、議論の新しい方向性が見えてくれば、と考えています。

 多くの方のご参加を、お待ちしています。

第1報告

文化の社会学という困難

長谷 正人 (早稲田大学)

 「文化」をめぐる社会学に「可能性」などそもそもない。可能性がないところにのみ存立するのが、「文化」の社会学である。むろん、そんなことは誰もが知っている。この社会が社会として存立するために必要なのは、経済であり、政治であり、司法であり、福祉であって、それらが「文化」や「芸術」などよりも優先的に検討すべき社会学的課題であることは言うまでもないことだからだ。「文化」を社会学的に論じることは、それらの重要課題を他の人々が考えていてくれるのだということを前提にした、「残余」としてしか許されないことだろう。

 にもかかわらず、「文化」の社会学が、社会学の中心的課題となりうるかのような錯覚が、ある時代に日本では成立した。むろんそれは、1980年代から90年代の初めにかけて流行した、「ポストモダン」的と呼べるような社会学のことである。そんな社会学がなぜ成立したのか。おそらくこの社会全体が、記号を消費するような快楽に溺れ、イメージやスペクタクルを社会秩序の根幹に据えるような社会を形成しようとしていたからである。だからそこでは「文化」を分析することが、社会学の中心的課題であるような倒錯的な事態が成立したのだ。

 しかしそのような「文化」の社会学の隆盛は、パブルの崩壊、経済不況、大地震、テロなどといった「文化」以前の「経済」や「政治」や「宗教」などに関わる社会的問題が、社会の中心に露出するや否や、見事に吹き飛んでしまった。しかしそうやっていま「文化」の社会学は、不可能性の渦中にあるからこそ、私たちはその可能性について問えるのかもしれない。「残余」でしかないはずの「文化」の社会学が、しかし「残余」であるが故に、社会学にとって決定的に重要な問題でもあるという事実に、いま私たちは向き合っているのかもしれない・・・。

第2報告

文化の政治学とアメリカニズム

吉見 俊哉 (東京大学)

 私はこれまで主に次の3つの課題を探究してきた。第1は、人々の集う集合的な場に焦点を合わせながら大衆的欲望の近代を問うもので、盛り場、博覧会、運動会、天皇巡幸などからディズニーランドまでの空間分析がこれにあたる。第2は、同じ問題意識を背景としつつ、メディアを諸々の社会的欲望や実践の中で捉えていくもので、電話、広告、テレビといったメディアのテクストとテクノロジー、オーディエンスの関係についてこの問題を考えてきた。第3は理論的探究で、文化研究とメディア研究、空間研究の3者を歴史的射程の中でつなぎ、近現代の権力と意味、テクストと身体のパフォーマティヴな関係を捉える方法的地平を開こうとしてきた。この方向での探究は、記号論批判としての上演論的視座から出発し、海外の文化研究と対話しながら視界を拡大させる過程であった。

 理論的視座としては、このほど出版した『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』(人文書院、2003年)が、ここ数年間の私の仕事を要約している。今回のパネルでは、同書への質問やコメントも受けたいが、すでに終えた作業を反芻するのは気が進まないので、むしろ私が現在取り組んでいる作業、すなわち戦後日本の日常意識の中での「アメリカ」という問題について話したい。米軍基地と占領の記憶、メディア天皇制とテレビのナラティヴ、家電消費とテクノ・ナショナリズム、東京ディズニーランド、東アジアにおけるアメリカ化と日本化の節合といった問題を、文化の政治学の連続的な地平において捉えたい。とりわけ、軍事や暴力と区別された閉じられた領域として文化があるのではなく、文化の中に政治があり、暴力の記憶もあること。戦後日本のアメリカ化を、東アジアの地政学的な広がり、つまり戦前・戦中までの日本の植民地主義から戦後のアメリカのヘゲモニーへの連続性のなかで、記憶の政治学とも繋げて考える必要があることを提起したい。

報告概要

奥村 隆(立教大学)

 「文化」を研究する社会学は、いま、どんな困難さや課題をかかえ、どのような可能性を見出しうるのか。この問いから出発した本部会の2年目の大会テーマ部会では、長谷正人氏(早稲田大学)、吉見俊哉氏(東京大学)を報告者に、北田暁大氏(東京大学)、中筋直哉氏(法政大学)、奥井智之氏(亜細亜大学)を討論者に迎えて、議論がなされた。

 長谷氏の報告「文化の社会学の窮状/可能性」は、現在の「文化」と「文化の社会学」の危機を「身も蓋もない資本主義」のもとのアイロニカルな主体による「さみしさ」と把握し、1980年代の消費資本主義下の「楽しい」文化の社会学でも、「正義」としてのカルチュラル・スタディーズでもない方向性を模索する。それは、現在の「文化」の危機を、偶有的な歴史の積み重ねの結果として把握する態度ではないか、と長谷氏は問題提起する。

 吉見氏は、報告「文化の政治学とアメリカニズム」の冒頭で、長谷報告でのカルチュラル・スタディーズの性格づけに対し、カルチュラル・スタディーズは経験の瞬間や身体性に照準することを課題とし、それを文脈に置き直す「コンテクスチュアルな知」である、と応答する。上演論からカルチュラル・スタディーズへと展開した自身の研究史を踏まえたうえで、戦後日本・戦後アジアにおける「文化としてのアメリカ」をいかなる文脈に置き直すかという課題について、吉見氏は本報告でいくつかの構想を提示する。

 この報告に対して、両者の80年代との距離の取り方の相違、文脈としての「社会的なもの」と「政治的なもの」の相違(北田氏)、文化の社会学と文化政策の関係、社会学自体のアメリカニゼーション(中筋氏)、文化の社会学が「若者文化」を対象とすることの問題性や「遊び」との関係(奥井氏)、などがコメントされた。議論のなかで、文化を置き直す「文脈」のイメージが具体的に探られたことは大きな収穫であり、同時にそれを特定するという課題は今後の議論になお開かれている、といえるだろう。参加者は、約150名であった。

▲このページのトップへ