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年次大会
大会報告:第51回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会C)

テーマ部会C 「ケアの社会学」  6/15 14:00〜17:15 [3号館2階324教室]

司会者:出口 泰靖 (山梨県立女子短期大学)  池岡 義孝 (早稲田大学)
討論者:三井 さよ (日本学術振興会)  岡村 清子 (東京女子大学)

部会趣旨 池岡 義孝 (早稲田大学)
第1報告: 家族であることを支援する−ケアの社会化と家族であることの危機− 木戸 功 (日本学術振興会)
第2報告: 精神障害者のケアと生活支援 藤井 達也 (大阪府立大学)
第3報告: 小児がんの子どもと家族のケア―病名告知を中心に― 駒松 仁子 (国立看護大学校)

報告概要 池岡 義孝 (早稲田大学)
部会趣旨

部会担当: 池岡 義孝 (早稲田大学)

 「ケア」をめぐる諸問題が、社会学の内部で領域横断的に、あるいは社会学と他の学問領域との間で学際的に、研究の新たな協力体制とそれにもとづく成果を生み出してきている。本部会は、こうした研究の動向をふまえて、その現状を確認し、将来に向けての可能性を検討するという目的で設定された。これまで、昨年の大会の部会と2回の研究例会を行ってきたが、それらを通じて確認されたのは、「ケア」ということに焦点化した研究が、さまざまなケアの対象と研究テーマに対して、多様な理論枠組と方法論によって行われているという事実であった。部会には「ケアの社会学」という名称を掲げたが、それはあくまでもこの多様性をもつ新たな研究領域に分け入るためのシンボリックな旗印にすぎず、現時点で「ケアの社会学」に何らかの具体的な像を与えるのは未だ早計という感を深くした。

 今回の大会の部会は、2年間にわたる研究活動の締めくくりとなるものである。しかし、上で述べたような理由から、今回も個々の研究者による個別の研究の営みを紹介してもらい、それにもとづく議論を行うことを部会の目的とした。各報告におけるケアの対象は精神障害者、高齢者、患者(子ども)とそれぞれ異なるが、報告者の方には政策や制度的なマクロな問題と、現場での具体的なケアの実践の営為との相互の連関にふれてほしいとお願いしてある。活発な議論が展開され、本部会の活動の先に、「ケアの社会学」が本格的に構想されることを期待している。

第1報告

家族であることを支援する
−ケアの社会化と家族であることの危機−

木戸 功 (日本学術振興会)

 少子高齢化や女性の社会進出等の現実的な進行との関わりにおいて,家族がもともと担っていたケアに関わる機能の脆弱化が指摘されるようになって久しい。こうした問題化は,いわゆる「ケアの社会化」を進めていくうえでの基本的認識となっているようだ。しかしながら,家族という人間関係の構成原理について,いま一度考えてみるならば,より円滑にケアの社会化を進めていくためにも,無視しえない問題が浮上してきているように思われる。

 ケアの社会化は,高齢者の介護等の過酷な労働を図らずも囲い込んできた家族や,排他的に子どもの養育を担うことで消耗してきた母親らにとっては確かに吉報である。しかしながら,他方で,福祉サービスを利用することへの抵抗感や,利用していることについての罪悪感に関する家族の言明をしばしば耳にするのはなぜか.こうした問題を検討していくうえで,報告者は次のような作業仮説をもっている。

 ケアの社会化は,家族の側からみるならば,ケアという活動の喪失を意味する。そしてこのケア活動の喪失は,家族が家族であることの危機を含意している(「ケア活動の喪失に伴う家族の秩序化の危機」)。というのも,ケアに関わる活動は,望むと望まざるとに関わらす,家族としての責任を表示する重要な活動の一つであると考えられるからだ。それゆえに,ケアの社会化,ケアの外部委託は,当の家族の側からすれば領域侵犯であり,また,それを受け入れることは,自らが家族として(親として,子として...)十分でないことを認めることにもなりかねない。このような状況の中で,それでもケアを社会化し,家族を社会的に支援するということについて考えてみたい。

 フィールドワークを通じて遭遇した,「障害を持つ成人子と高齢の母親」というケースに携わる支援者側の対応のあり方をヒントに,家族が家族であることと社会的な支援を行うことについて考えていきたい。

第2報告

精神障害者のケアと生活支援

藤井 達也 (大阪府立大学)

 精神障害者のケアは、シュヴィングの『精神病者の魂への道』において示されたように、精神障害者の回復を支える重要な営みとして高く評価されたこともある。しかしもう一方で、精神障害者のケアは、精神障害者の地域で生きる力を奪うインスティテューショナリズムの問題や、再発を恐れての抑圧や拘束に転化する問題を抱えてきた。ケアする者は、ケア以外の要素を付加されて、多くの批判にさらされてきた。

 アメリカにおける脱施設化の推進は、「絶望の光景」をストリートに生み出したと批判されたが、地域ケアの試行錯誤の試みから、ケース・マネージメント実践と地域サポートシステムを作り出し、精神科リハビリテーションを確立しつつある。そして、精神障害者自身が、ケース・マネージメント実践や地域サポートシステムの形成に参画し、精神障害者のケアやサポートの改革に取り組んでいる。

 日本では、脱施設化が進展せず、精神科病院におけるケアの改革も部分的にしか進んでいない。しかしながら、地域におけるケアは、問題を孕みつつも、少しずつ前進してきている。

 本報告では、報告者が1983年からかかわってきた地域の一民間団体における精神障害者のケアの変遷と生活支援活動の開発に至る歴史的経過を分析し、精神障害者から学びつつケア実践を改革してきた特徴を明らかにし、地域におけるケア実践が新しい制度・政策を生み出す可能性を検討したい。また、制度・政策による実践モデルとしての利用が、最初の実践の意図とは異なる結果をもたらす問題についても検討したい。そして最後に、現在の精神障害者のケアと生活支援の諸課題を検討し、社会学がケア実践とケア政策に関与する意義を問い直したい。

第3報告

小児がんの子どもと家族のケア―病名告知を中心に―

駒松 仁子 (国立看護大学校)

 わが国では小児がんの子どもに対して、一般的には病名を告げない。特に白血病の場合は、家族が子どもに病名を告げることを反対する傾向が強い。それは‘白血病=死’という社会的意味付与が今なお根強く存在することが一因でもある。しかし、白血病の子どもの長期生存さらには治癒が可能になった現在、子どもに対する告知が積極的に検討されるようになった。小児がんの子どもと家族は‘病’をどのように受け止めて暮らしているのだろうか。

 ‘臨床’という世界は生き生きとした相互交流の世界であり、刻々と変化する出来事に満たされている「生きられる時間・空間」である。臨床における出来事、それは病む子どもの身体症状の変化であり、その変化に一喜一憂する子どもの気持ちの変化でもある。また病む子どもにかかわる医師や看護師との相互作用の結果生じる変化などである。病む子どもの変化を‘あるがまま’に受け止めることが重要である。病む子どもと家族の心に添える看護とはどのようなことなのかを、臨床看護体験と調査結果を通して考えてみたい。

 小児がんの子どもの看護において大切なことは、子どもが病態や治療など自己の状況を十分に理解して、病気を正面から受け止めることが可能になるようなケアである。すなわち医師・看護師が、家族とともに病む子どもにとって何がベストであるかを、常に検討してかかわる必要がる。本当の病名を告げられていない子どもは、思春期になると自己の病名に関心を示すようになる。さらに治癒後も長期の経過観察が必要なため、健康であるにもかかわらず外来受診が必要なことに疑問をもつようになる。そこで病気に対する受け止め方として、病名告知が重要な課題となる。その場合に問題となるのは告知の是非ではなく、告知後のケアが問われるのである。すなわち病名告知はケアという営み全体のなかで位置付けられることが重要である。

報告概要

池岡 義孝 (早稲田大学)

 2年間にわたって継続してきた「ケアの社会学」の一応の締めくくりとなる、今回の部会の概要を紹介する。

 木戸報告は、障害をもつ成人子とその養育と介護を担ってきたものの高齢に至り自らも社会的な援助が必要となった母親という複数のケアの対象者が含まれるケースへの福祉的援助の参与観察にもとづくものであった。ケアを社会化し家族を社会的に支援することの意味が、母親が担ってきた子どもへの介護を軸とした家族の秩序化の危機という観点から掘り下げて分析された。藤井報告は、精神障害者の自立生活支援を行ってきた民間団体における報告者の長年にわたる実践活動をふまえたものであった。そこでの取り組みとケアの変遷が、治療から福祉的援助、さらには地域生活の実現を目指す生活支援活動の開発へと推移したことが報告され、その展開が生み出した精神障害者の福祉的援助および地域生活支援事業の制度化と、福祉的援助者の専門職化等の制度・政策形成の問題点があわせて指摘された。専門職のケアをテーマとした駒松報告も、報告者のかつての小児病棟での臨床看護体験を出発点とし、その後に治癒後の子どもとその家族への調査を実施した、息の長い取り組みにもとづくものであった。小児がんの子どもおよびその家族に対する病名告知の問題が、病院側の対応の変化と個々の患者の具体的な事例から説明され、病名告知が告知後のケアを含むケアの営み全体のなかに位置づけられる必要があることが指摘された。

 このように各報告はケアの対象者を異にするものだったが、コメンテータの指摘は、それらに通底する問題をふまえたものだった。ケアの受け手は個人ではなくその人にとっての重要な他者や家族、地域社会へと広がるネットワークをもった個人である(三井)、従来のケアは非標準的な出来事として病院や施設の中で体験されるものだととらえられてきたが、ノーマライゼーションの流れとも呼応し、地域や家族の中で普通に行われるものへと認識が変化した(岡村)という指摘がそれである。これらは、ケアをめぐる問題は、きわめて社会学的な問題であるということと同義であり、さらに制度化や政策形成といった領域を含めて、「ケアの社会学」の今後の可能性と課題の一端が確認されたものと考えている。

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