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年次大会
大会報告:第52回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会A)

テーマ部会A 「社会学することと理論」  6/20 14:15〜17:30 [8号館1階812教室]

司会者:山田 真茂留 (早稲田大学)  井出 裕久 (大正大学)
討論者:矢野 善郎 (中央大学)  井腰 圭介 (帝京科学大学)

部会趣旨 山田 真茂留 (早稲田大学)
第1報告: ストレンジャー製造装置としての理論 芳賀 学 (上智大学)
第2報告: ‘理論的なもの’とどう向き合うか
―ターゲット現象の把握との関連における‘理論的なもの’の位置―
水野 節夫 (法政大学)

報告概要 井出 裕久 (大正大学)
部会趣旨

部会担当: 山田 真茂留 (早稲田大学)

社会学の世界では、理論をある種神聖なものと見る時代はとうに過ぎ去ってしまった観があります。理論へのスタンスとしては、(1)その重要性を自明視する、(2)かつてほどに理論を崇めはしないものの、その大切さについてはそれなりの理解を示す、(3)それに全く見向きもせず、ひたすら個別事象の記述・解釈に没頭する、などのヴァリエーションがあり得るわけですが、このうち後の方の比重が高まりつつあるというのが時代の流れとなっているのかもしれません。

 けれども、自身で理論研究を主としていない場合でも、社会学の営みに携わっている以上、理論的なものを意識している人は少なくありません。また、またそうした意識があればこそ、その探究はsocial studies(社会科!)ではなくsociologyであり続けていると言うことができるでしょう。その意味で理論を構築したり検討したりすること、またそれについて思いを巡らすことの意義は、けっして減衰しきってしまったわけではないのです。

 そこで当部会では、私たちが「社会学すること」において「理論」がどのような位置を占めているかについて、あらためて深く考えてみることにしましょう。報告者には水野節夫氏(法政大学)、芳賀学氏(上智大学)をお招きします。また討論者は井腰圭介氏(帝京科学大学)、矢野善郎氏(中央大学)にお願いしました。進行にあたっては、先般開催の研究例会のときと同様、特定の理論潮流の検討ではなく、社会学における理論の意味について一般的に考えられるよう工夫したいと思っています。理論や学説を研究課題としている方々だけでなく、幅広く多数のご参加をお待ちしています。

第1報告

ストレンジャー製造装置としての理論

芳賀 学 (上智大学)

当初P.バーガーの理論からはじめ、徐々に新宗教や精神文化といったフィールドへと研究の中心を移してきた私にとっても、「近年理論への関心が薄くなってきており、それがもたらす弊害は無視しがたい」というこのテーマ部会設立の背後にある危機感は十分に理解できる。そこで、「社会学にたずさわる人間にとって理論(説明の体系・モデル・仮説・視角などを含む)とは何か」という問題を改めて考えてみるとき、しっくりするひとつのイメージは、それを、われわれが自らを研究に必要不可欠な「ストレンジャー(=異人)」の立場に置くことを可能にするものと考えることである。もちろん、社会学理論を採用すれば、価値中立的(=「客観的」)な立場が取れるなどというつもりは全くないが、われわれがなんらかの意味で自らの文化を持ち独自の解釈を行うフィールドを対象とする以上、研究とはその社会(集団)の見方(=「常識」)とある種の「距離」を取らなくては成立しない。そして、その立場の特権性を認めないとすれば、研究とは、「異文化としての社会学」に所属するわれわれがその見方(=理論)を内面化したままフィールドに接近するところに生まれる営為(相互作用)ということになる。冒頭にあげた危機感は、動機(=問題関心)や視覚を提供し成果を評価するなどの形で、研究を意味づけてきた社会学文化やその信憑構造としての社会学界の構造変動の帰結であるのだろうか、それとも常態的な問題か、はたまた「もはや若くない」世代の研究者の抱く感慨か・・・、確定することは私の手に余るが、例を引きながら基礎的な認識に立ち戻っていくつか意見を述べたい。

第2報告

‘理論的なもの’とどう向き合うか ―ターゲット現象の把握との関連における‘理論的なもの’の位置―

水野 節夫 (法政大学)

ここで検討してみたいのは、‘Theory and Research(理論と調査研究)’論の系譜に属するさまざまな議論をも念頭に置きながら、研究者が研究課題としてその解明に取り組もうとしている現象(それをここでは‘ターゲット現象’と名づけている)の把握との関連で、‘理論的なもの’をどう位置づけたらいいのか、という点に絡まる主題群である。

 まず初めに検討の俎上にのせるのは、‘理論的なもの’とは何か、という点である。ここでは、概念/理論/仮説/モデルなどを含めて‘理論的なもの’についての暫定的イメージを提示した後、これを、概念化(の作用)/概念化の装置/概念化の理屈/概念化の所産といった〈概念化とその所産〉に関連したもの、と位置づけることになるだろう。

 こうした位置づけを前提にした上で、次に、ターゲット現象の把握にあたっての2つの回路――素材群/事例群の分析検討を通じての〈事例媒介的アプローチの回路〉と、理論的なものとの‘つきあい’を通じての〈‘理論的なもの’の批判的検討の回路〉――に言及する。その後、この回路との関連で3重の分析/検討作業(〈作業1:素材群/事例群とのつきあい〉;〈作業2:自前でのモデル構築がらみでの分析/検討作業〉;〈作業3:先行業績の批判的分析検討作業〉の3つ)の簡単な紹介とその必要性に触れる。

 さらに、〈概念化のプロセスとその節目〉に焦点を合わせながら、‘理論的なもの’の活用の仕方という観点から見た時に示唆的な議論を例示的にいくつか紹介しながら、‘理論的なもの’と向き合っていく際の留意点について私見を披露することにしたい。

報告概要

井出 裕久 (大正大学)

 本部会は、社会学の世界において理論の位置の低下が進行しているのではないかという現状認識と、理論的なものへの意識こそが、私たちの探究を社会学にしつづけているはずであるという前提的認識から出発した。例会と同様に、個々の研究者の探究の営みにおいて「理論」がどのように意識され、使用/運用されているかに関する報告にもとづいて「社会学することと理論」について検討・議論することをめざした。

 こうした部会の趣旨を十分にふまえて、自らの研究活動を振り返りながら芳賀学氏・水野節夫氏が報告くださった。それぞれの報告において理論がどのように捉えられていたかに注目すると、芳賀氏は、理論の果たす第1の機能として「私をストレンジャーにしてくれること」を指摘した。「ストレンジャー」とは、「フィールドの人々とも、出身社会のマジョリティーとも、異なる立場と視点を持つ」者、「現実を共同構築し、現実に影響を与える」「数ある立場」の1つであり、それは「翻訳者」でも「境界人」でもあるとした。水野氏は、研究者が「研究の焦点と考えている」「ターゲット現象」把握との関連における「理論的なものの位置」をつまびらかにした。そこでは、「理論的なもの」の中心的アイディアとして「〈概念化とその所産〉に関連したもの」―概念化(の作用)、概念化の装置、概念化の理屈、概念(群)やそのネットワーク・概念的メカニズムモデル群などの概念化の所産―が設定され、「概念化としての‘理論的なもの’」「モデルとしての‘理論的なもの’」「パースペクティヴとしての‘理論的なもの’」の3つに分節化された。

 討論者の矢野善郎氏からは、2報告における「理論」は実践との関連を欠いた狭いものになっていないかという疑問やストレンジャー製造装置としての理論が学者コミュニティに壁をつくる可能性が指摘され、井腰圭介氏からは概念化のメリットと理論のもつ体系性をどのように考えるかについて質問があった。また、参加者からは、報告者の研究において現象を理論によって説明した例あるいは何らかの理論命題を使ったことの有無や、論文を執筆する際に読者として想定するのはだれかといった質問をはじめいくつもの質問があった。

 こうした報告や質問からも伺えるように、本部会に会同した登壇者、60人を超える参加者の理論観が一致していたわけでも、部会での検討を通じて収斂の方向性が見出されたわけでもない。しかし、探究の具体的な営みにおける理論の重要性や理論について検討していくことの大切さが改めて確認されるとともに、限られた時間であったが、異なる理論観をもつ登壇者・参加者とのあいだでの対話も実現されたことと思う。

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