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年次大会
大会報告:第55回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第1部会)


第1部会:理論  6/16 14:00〜16:30 〔1B棟・2階 1B202講義室〕

司会:奥井 智之(亜細亜大学)
1. 歴史の中のフーコー(1)――フーコーにおける「越境可能性」の再考 堀内 進之介(首都大学東京)
2. 歴史の中のルーマン(2)――ルーマンにおける『社会の教育システム』の再考 鈴木 弘輝(首都大学東京)
3. 『再生産について』再考――アルチュセール・イデオロギー論の再考と可能性 今野 晃(専修大学・東京女子大学)
4. ハンナ・アーレントにおける共通感覚論をめぐって 橋本 摂子(東京工業大学)

報告概要 奥井 智之(亜細亜大学)
第1報告

歴史の中のフーコー(1)――フーコーにおける「越境可能性」の再考

堀内 進之介 (首都大学東京)

 フーコー特有の系譜学的考察によって示された「現在の歴史」は、いまでは多くの分野で参照されている。とりわけ、権力論や統治論にフーコーが与えた影響は計り知れない。20世紀を代表する学者のひとりであるフーコーの仕事に関する研究は枚挙に暇がないが、その多くは彼の歴史記述のみならず、研究手法にも関心を寄せている。それに対して、本発表では、彼の歴史記述や研究手法に光を当てるのではなく、むしろ彼の関心(研究動機)を第二次世界大戦後の歴史的文脈の中に見出し、かつ位置づけることを試みる。

 フーコーがカントの『啓蒙とは何か?』の読解を通じて、カントの歴史的な役割を論じたのと同様に、フーコーの読解を解きほぐすことで、今度はフーコーの歴史的な役割についても考えてみたい。その際、批判的社会理論は重要な参照点になるのではないかと考えている。批判理論とフーコーの仕事とは、フーコー自身の説明にしたがって、連続性よりも相違点に注意が払われてきた。けれども、どちらもその歴史的背景に注目するならば、重要な共通点を見出せるように思われる。歴史の中のフーコーの役割を検討することで、批判的実践の現在のあり様や意義を改めて確かめられるのではないかと考えている。

第2報告

歴史の中のルーマン(2)――ルーマンにおける『社会の教育システム』の再考

鈴木 弘輝 (首都大学東京)

 N・ルーマンが生涯を通じて構築した「社会システム理論」は、今も様々な研究成果が発表されている。そして、それらは専ら「理論内在的」な観点からのものであり、「社会システム理論をいかにして精緻化するか」といった問題意識から行われているように見受けられる。それに対して、本発表は、「第二次世界大戦後の(西)ドイツ社会」といった歴史的文脈に照らし合わせるかたちで、ルーマンの議論を検討していきたい。その手がかりとなると考えられるのが、『社会の教育システム』という著作である。

 ルーマンには、『社会の〜』と名づけられた一連の著作群がある。しかし、その中で最晩年に刊行された『社会の教育システム』にだけは、「システム」という言葉がつけられている。もちろん、ルーマン自身が他界してしまった以上、その真意は分からずじまいである。また、単なる編集上の過程で、何の気なしにつけられてしまっただけかもしれない。しかし、本発表ではそのタイトルの変化に、あえて「歴史的変化の影響」を読み取りたい。それはすなわち、ハーバーマスが「東西冷戦の終焉」を踏まえて自らの議論を変容させたように、ルーマンも現代社会の新しい局面の登場に触発されて、意図的に「システム」をタイトルにつけたのではないかと考えてみるということである。

 そして、本発表では、そのような観点から1980年代に書かれた過去の著作を振り返ることも予定している。このような試みは、すでにクリス・ソーンヒルの『現代ドイツの政治思想家たち』(2000=2004、岩波書店)で行われている。本発表は、このような先行研究を前提としながら、また別の角度からルーマンの諸著作を論じていきたい。

第3報告

『再生産について』再考――アルチュセール・イデオロギー論の再考と可能性

今野 晃(専修大学・東京女子大学)

 本発表の目的は、仏の理論家、ルイ・アルチュセールのイデオロギー論を現代的な視点より再考し、その可能性を探ることにある。彼のイデオロギー論は、国家のイデオロギー装置という概念を提起することで、それ以前のマルクス主義的国家観に新しいconceptionを与えた。それによって、国家の問題を新たに日常の側から捉えなおす契機をもたらした。他方、この概念は人間の服従性しか見ておらず、その主体性を省みないと批判された。

 しかし、1995年に仏で公刊され、2005年にその邦訳が刊行されたイデオロギー論の草稿(『再生産について』平凡社)を考慮するとき、彼のイデオロギー論が上のような論点に限定されず、より広い射程を持つことが明確になる。本発表ではまずこの点を明確にする。

 彼の草稿は400ページにもおよび、そこで扱われる主題は多岐に渡るが、例えば19世紀の仏における経済市場の形成(国家主導による)を背景として「自立した個人=主体」のイデオロギーが生まれたことを分析しつつ、そのイデオロギーがnationの形成に如何に貢献し、またそれが階級関係の中でどのような帰結をもたらしたのかを検討している。あるいは、草稿の編集者であるジャック・ビデも指摘するように、この論稿における法をめぐる議論は、デリダの議論にもつながりうるものである。

 このような論点・視点から彼の草稿を検討するならば、一見すると既視感にあふれた彼のイデオロギー論にも、現代的意義があることがわかる。本発表ではこの点を明確にする。

第4報告

ハンナ・アーレントにおける共通感覚論をめぐって

橋本 摂子(東京工業大学)

 古来から共通感覚(sensus communis)は、二つの位相において語られてきた。一つには五感に共通し、五感を統合する見えない内的な感覚(=第六感)として、二つには人々に共通し、人々が共有する外的な感覚(=常識)としてである。周知のように、カントは共通感覚を美的判断の根拠として規定した。本来、美の判定は個々人の趣味にもとづく。にもかかわらず、美とは単なる主観の域を超えて人々に共有される社会的な現象である。カントは、趣味判断に他者からの同意を求められるのは、あらゆる主観に共有される美についての感覚、つまり共通感覚が存在するためだと考えた。

 アーレントは、カントによる美的判断が正不正の判断に拡張できると考えた。それはしばしばアーレントをアリストテレス主義に結びつけてきたが、彼女はたとえばフロネーシスのような共同体感覚によって正不正が規定されると考えたのではない。というのも、彼女は共通感覚を単に正不正の規準としたのではなく、美しさや正しさよりもはるかに根源的な、世界の実在性(リアリティ)についての感覚だとみなしているためである。

 アーレントにおいて共通感覚の存在根拠は、人間の認識能力の同一性ではなく、われわれが複数の人々と同じ世界を共有しているという世界の同一性に見出される。人間の「複数性」と呼ばれるその事実は、いっさいの伝統から断絶した現在において、公的世界を築いていくための唯一所与の真理として、アーレント政治思想の中心に位置している。

報告概要

奥井 智之(亜細亜大学)

 堀内報告は、カントの『啓蒙とは何か』に関するフーコーの読解を再読解することを通じて、さらには同じくフーコーのカント読解を再読解したハーバーマスのフーコー解釈の不当性を指摘することを通じて、フーコーが「越境可能性」をもつ闘技的実践として自身の学問的営為を位置づけていたことを再確認、再評価しようとした。鈴木報告は、ルーマンの社会理論の変遷を、1960年代後半以降の(西)ドイツにおける社会的文脈の変化のなかに位置づけようとする試みで、具体的には、教育システム論のメディアが「子ども」から「ライフコース」に変更されたこと、政治システム論における「新しい社会運動」の評価に変化が見られることなどが取り上げられた。今野報告は、アルチュセールの有名な論文『イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』の草稿(『再生産について』)が、現在の社会的文脈のなかで再読されるべき固有の意義をもつことを主張し、具体的には、そこでの見解は、今日の「市場主義」あるいは「能力主義」イデオロギーの批判にも適用可能であることが指摘された。橋本報告は、従来の共通感覚論の系譜をたどった上で、アーレントの共通感覚論がまったく独自の性格をもつことを強調するもので、具体的には、ホロコースト以降の、いっさいの道徳的判断の無効化する状況のなかで、人々に世界の実在性を保証する要因として、アーレントが共通感覚を位置づけようとしていることが指摘された。

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