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年次大会
大会報告:第55回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第3部会)


第3部会:人種・国家  6/16 14:00〜16:30 〔1B棟・2階 1B203講義室〕

司会:庄司 興吉(清泉女子大学)
1. 指紋法による身体の管理――日本における指紋法の需要と目的をめぐって
高野 麻子(一橋大学)
2. ネーションとステートの亡霊的関係
新倉 貴仁(東京大学)
3. 世界的リスク、世界的連帯、コスモポリタン・デモクラシー
本田 量久(立教大学)
4. ネイションの平等的価値と保護主義への移行
――19世紀末フランスにおける外国人問題から
宮崎 友子(立教大学)
5. 移民企業家のトランスナショナルなネットワーク形成 福田 友子(東京都立大学)

報告概要 庄司 興吉(清泉女子大学)
第1報告

指紋法による身体の管理
――日本における指紋法の需要と目的をめぐって

高野 麻子(一橋大学)

 本報告では、日本における指紋法による身体の管理の歴史に焦点を当て、この個人識別法が誰を対象に何を目的として需要され、使用されてきたのかについて考察を行う。指紋とは、唯一無二の個人の身体的特徴であり、それゆえ指紋によって人間を識別する指紋法は、個々人が自己を語ることなく、個人を「確実に」識別、登録、さらには分類することを可能にした。

 これまで日本における指紋法の利用については、犯罪者管理や戦後の主に在日朝鮮・韓国人を対象とした外国人登録法にかんする議論が中心的であった。しかし、1908年の導入以来、満州における労働者管理や国民手帳法での使用、さらに戦後、外国人登録法の制定とほぼ同時期に、全国民指紋登録を目指すべく、国民指紋法が実現に向けて国会で議論されていたのである。さらに任意ではあるものの、愛知県をはじめ、いくつかの県では県民指紋制度が機能していた。

 このように日本への指紋法の導入から約1世紀のあいだに、さまざまな場面で、使用が計画され、実行されてきたのである。こうした事実は、日本における指紋法をたんに排除と差別の手段としてのみ語ることを困難にすると同時に、指紋法が日本の戦前、戦中、戦後といった20世紀の大きな三つの局面とぴったりと重なり合うなかで、需要され、使用されてきたことを示している。

 こうした事実を踏まえたうえで、20世紀の植民地統治と国民国家形成・維持における身体の管理が、指紋法という共通の技術のもとで、それぞれ対象と目的を変えながら行われた経緯と、指紋法による身体の管理をたんに排除と差別の手段として捉える視点を批判的に考察することを本報告の目的とする。

第2報告

ネーションとステートの亡霊的関係

新倉 貴仁(東京大学)

 本報告は国民国家を構成する「ネーション(国民)」と「ステート(国家)」という二つの概念の関係についての理論的検討を通じ、ナショナリズム論の新たな視座を獲得することを目的とする。

 ネーションとステートを混同する問題点については、多くの論者によって指摘されてきた。しかし、その混同自体が起りえることの意味は十分に論じられてきていない。異なるものが同一のものとして語られるということは、ネーションとステートを別の関係性において捉え必要性を示唆しているのではないだろうか。

 従来の国民国家論では、ネーションの創設主体としてステートを措定することによって、両者を接合させてきた。ゆえに、ネーションとステートは同一視され、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」というフレーズは、国家を虚構とみなすものであると誤読される。だが、アンダーソン自身の議論は、ネーションとステートの両者を峻別し、制度としてのステートに対して、ネーションをその外部に置くものである。このような対抗的関係は、アンダーソンが自らの議論の支えの一つとするプラムディヤ・アナンタ・トゥールのナショナリズムの語りにも共通する。しかし、この対抗的関係が、誤読に晒され、現実において裏切られ続けるとき、別の関係性が浮上する。本報告では、ジャック・デリダの「憑在論hauntology」を援用するフェン・チャーの議論の検討を通じて、この関係性の可能性を探っていく。

第3報告

世界的リスク、世界的連帯、コスモポリタン・デモクラシー

本田 量久(立教大学)

 K・フォルクスは、政治社会学を「国家権力と市民社会の間の相互権力関係の学」と定義している。これに従えば、R・ダールの研究は、第一に、構造的制約の下にありながらも、排除構造の変革を試みる被抑圧集団の能動的実践と、第二に、安定的な秩序を図るという統治戦略から、民意に対して敏感に反応することが要請される国家権力の介入政策についてそれぞれ論じ、国家システムと社会の双方向的な関係性に着目しながら、民主化の動態を明らかにしたという点で重要な政治社会学的業績であると評価できる。

 しかし、K.・ナッシュが「国民国家のレベルでの政治に焦点を合わしてきた」と「従来の政治社会学」を批判するように、ダールの政治理論は、グローバル化した現代政治のあり方を理解するうえで困難が伴う。実際、今日の政治的争点となっているいくつかの深刻な問題は国境を超えた問題となっており、その解決には、グローバルな危機認識と連帯意識を媒介とした、国家の介入政策や国家間協調を欠くことはできない。

 本報告では、国境を超えた社会運動、国家の統治戦略、国際的諸制度の間に働く動的な関係性に着目し、世界的な危機状況の乗り越えの可能性を示すコスモポリタン・デモクラシー理論が単なる理想論ではなく、現代民主主義の動態を理解するうえで有効かつ現実的な視点であることを明らかにする。

第4報告

ネイションの平等的価値と保護主義への移行
――19世紀末フランスにおける外国人問題から

宮崎 友子(立教大学)

 自己統治を基礎にした一民族(ネイション)・一国家制度を体現する国民国家(ネイション=ステイト)という制度は、すでに多方面からその虚構性と暴力性が明らかにされ、批判に曝されてきた。それにもかかわらず、現実の国家はやはり優越的な文化を持つ集団(マジョリティ)に支配され、マイノリティの周辺化は取り残されている。

 スミスやゲルナーはなぜこれほどにネイションという概念が顕在化し、持続的な力を持ちうるのかを歴史的視座にたって説明したが、前者は生まれによって獲得する地域的・民族的文化の歴史的正当性に対するつよい愛着を、後者は近代化によってメリトクラシーが普及するなかで、支配集団のもつ高文化獲得が各個人の社会的地位上昇と安定を担保するという機能を強調した。いずれの論者にとっても、ネイションが文化集団であり、国民国家とはこうしたひとつの文化集団が国家の地位を獲得した状態を指すことは明らかである。

 しかし、18世紀フランスの文脈ではネイションは権利を持たない大衆を意味したこともあり、その意味で王政打倒から国民国家としての第三共和政へいたる100年は、大衆の政治的解放と平等を獲得する過程であった。この文脈ではネイションは特権を排して平等を獲得した市民であり,国民国家は市民の平等を確保する手段となる。本報告では,ネイションを文化と民族から切り離した解放の政治的価値としても定義できることを確認し,その平等的価値のために人々に深く浸透し支持を得たことと,平等的価値のために既得権層が保守化したことを論じる。

第5報告

移民企業家のトランスナショナルなネットワーク形成

福田 友子(東京都立大学)

 滞日パキスタン人は、他の移民集団に比べて、自営業者や会社経営者といった企業家の占める割合が高い。そして滞日パキスタン人企業家の多くは、中古車輸出業に携わっており、中古車輸出業はパキスタン人業者のニッチとなっている。パキスタン人業者は、薄利多売のビジネス・スタイルを特徴としており、日本の中古車業界において一定の存在感を示している。

 このような中古車輸出業を支えているのは、パキスタン人企業家によって形成されたトランスナショナルなネットワークである。その主な拠点は、日本、パキスタン、アラブ首長国連邦である。まず日本とパキスタンの間で、1960年代から少しずつ中古車貿易の土台が形成され、1980年代後半のニューカマーの来日とバブル経済崩壊を経て、滞日パキスタン人の中古車輸出業者が急増した。さらに1990年代前半に、パキスタン向けの輸出が規制されると、アラブ首長国連邦が中古車中継貿易の重要な拠点となり、パキスタン人業者が移転、集積し始めた。そして2000年代前半、パキスタン向けの規制が緩和されると、この3カ国をつなぐトランスナショナルなネットワークの意義がさらに増した。またこの3カ国を中心として、他のアジア、オセアニア、アフリカ、ラテンアメリカといった世界各地の中古車市場を結ぶネットワークが、パキスタン人業者によって形成されている。

 このような移民企業家のトランスナショナルなネットワーク形成を可能にした要素はどこにあるのだろうか。パキスタン人の中古車輸出業の事例から、考察を試みる。

報告概要

庄司 興吉(清泉女子大学)

 第3部会は「人種・国家」と題されていたが、「民族・国家」が正しい。5つの報告があり、それぞれの報告のあと簡単なやりとりが行われ、最後に30分ほど総括討論を行った。

 5つの報告のうち3つは、いわばナショナリズムの歴史的展開に関わるものである。宮崎友子の第4報告「ネイションの平等的価値と保護主義への移行:19世紀末フランスにおける外国人問題から」は、19世紀末フランスの外国人問題を取り上げ、革命の歴史をつうじて平等と参加の内包を獲得したNationの概念が、外国人労働者の出現に直面して排除的保守的な意味を帯びていく過程を追っている。新倉貴仁の第2報告「ネーションとステートとの亡霊的関係」は、ネーションとステートとの(相互)包摂的な関係が、近代史の展開とともに対抗的関係に転じ、やがて互いにとってそれぞれが「亡霊」となるような関係になってきたことを論ずる。ネーションがステートを憑依し、ステートがネーションを憑依するような関係性は、「国民国家の構築性」を暴き出してきたばかりでなく、新たな「他者性」を浮かび上がらせてきた。本田量久の第3報告「世界的リスク、世界的連帯、コスモポリタン・デモクラシー」は、考えようによっては、この他者性を「世界的リスク」と受け止め、それに対処する「世界的連帯」を獲得するために、「コスモポリタン・デモクラシー」を模索しているものとも取れる。高野麻子の第1報告「指紋法による身体の管理:日本における指紋法の需要と目的をめぐって」が指摘する「自発的認証」による個人の国家からの解放も、福田友子の第5報告「移民企業家のトランスナショナルなネットワーク形成」が伝える「エスニック・ビジネス」の生々しさも、民族と国家をめぐり、それらを越えて、何か世界的地球的なものに向かっている現代史の、したたるような軌跡を示しているのではないか?

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