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年次大会
大会報告:第56回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会B)


テーマ部会B 「社会学における歴史的資料の意味と方法」  6/22 14:30〜17:30 [1号館2階210教室]

司会者:小林 多寿子(日本女子大学)、野上 元(筑波大学)
討論者:佐藤 健二(東京大学)、佐藤 卓己(京都大学)

部会趣旨 野上 元(筑波大学)
1. 自治体史誌の社会学─―作る・書く・読む・見る人たち 高田 知和(東京国際大学)
2. 社会調査データと計量歴史社会学 佐藤 香(東京大学)
3. 初期テレビCMのデータベース化――戦後メディア資料の可能性と問題 高野 光平(茨城大学)

報告概要 野上 元(担当理事・筑波大学)
部会趣旨

部会担当: 野上 元(筑波大学)

 これまでにもお伝えしているように、「社会学における歴史的資料の意味と方法」部会は、あえて「歴史社会学」を厳密に定義することをせず、社会学において歴史を/によって考えることの意義は何か?ということをテーマにしながら、それを特に「歴史的なデータ」をどのように扱うかという切り口によって考えてゆこうというものである。

 社会学が社会に対する豊かな想像力の集積である限り、「歴史的なデータ」にもまた、様々なアプローチがありうるだろう。多様なアイディアが互いに刺激し合うことで、更なる発展を産みだす可能性がある。

 本年3月に開催された研究例会では、「歴史的なデータ」の言語的あるいはメディア的な存在の態様と、それらに直面することで編制される研究者の社会学的想像力との相互作用の豊かな実例をみることができて興味深かった(詳しくは、学会ニュース本号の「例会報告」をごらんいただきたい)。社会学者は「データ」から自由ではないし(あたりまえのことだが)、それでいて「データ」の存在条件を社会学者が完全に制御することはできないということなのだろう。

 研究例会での議論を踏まえ、今大会のテーマ部会では、「歴史」に対してそれぞれ異なった立場から社会学的にアプローチしているお三方に登壇していただく。まず、昭和初期の農村青年の日記の丁寧な読み込みなどの研究がある高田知和氏(東京国際大学)に、近年取り組んでおられる「自治体史誌編纂の社会学」について、また佐藤香氏(東京大学)には、『社会移動の歴史社会学−生業/職業/学校』(東洋館出版社)を著された延長で取り組まれている「計量歴史社会学」の可能性について、さらに高野光平氏(茨城大学)には、社会学そして文化資源学の見地から、1950〜60年代の初期テレビCM(京都精華大学表現研究機構所蔵)のデータベース化作業に携わった経験やその「歴史的データ」としての利用可能性について、それぞれ報告いただく予定である。いずれの報告でも、「歴史的データ」の利用(/利用可能性)と向かい合ったときに出てくる方法的な意識とその可能性が具体的に示されるのではないかと思う。

 また、議論の立体化・多角化のために、コメンテーターとして佐藤健二氏(東京大学)および佐藤卓己氏(京都大学)の両氏に登壇いただくことになっている。フロアも含めての活発な議論を期待したい。

第1報告

自治体史誌の社会学―─作る・書く・読む・見る人たち

高田知和(東京国際大学)

 本報告では、社会学でもよく用いる資料である自治体史誌という刊行物を取り上げて、そこで歴史がどのように作られ、書かれているのか、と同時にどう読まれ、見られているのかを検討していく。ここでいう自治体史誌とはかつては一般に市町村史と言われていたものであり、要は一つの自治体の範域を単位として自治体の予算でつくられるその自治体の歴史書のことである。
 もともと自治体史誌は、近代日本においては明治中期の『大阪市史』以来、明治末期の地方改良運動、大正後期の郡制廃止、昭和初期の郷土教育運動、戦後は昭和三〇年頃のいわゆる昭和の大合併や昭和四〇年代の明治百年事業、そして昭和五〇年代以降の「地方の時代」のトレンドなどの下であまた編纂されてきた。したがってそれは現在のほとんどの自治体で一度はつくられてきたし、また二度・三度と出しているところもある。編纂期間は二、三年で作ってしまうものから半ば恒久的に行なっているところまでさまざまであるが、作られる契機は市制施行何十周年というような記念事業のことが多い。実際に執筆するのは郷土史家から大学教授や大学院生、さらにはフリーのライターといろいろだが、近年では市民参加の市史編纂を企図するところもある。加えて県史では何十冊に及ぶのが普通で、市史でも通史編だけでなく最近はむしろ幾冊もの史料編が重視される傾向にあり、また民俗編その他の巻も出して人口十万程度の市史でも十冊以上に及ぶこともある。ただいずれにしても、自治体の仕事なのだから小なりとはいえ一種の公共事業に他ならない。したがってその点からも社会学で今少し自治体史誌のあり方に注目して良いと思われる。
 近年は歴史学でも自治体史誌の書き方や史料保存についてだけでなく住民との関係性について徐々に議論されるようになってきた。当日は、歴史学でのそうした議論の現状も紹介しつつ、自治体史誌の具体的な事例を取り上げての報告を試みたい。

第2報告

社会調査データと計量歴史社会学

佐藤 香(東京大学)

 歴史研究を志向する研究者にとって、どのような資料やデータと出会うかは、どのような研究が可能になるかをほぼ決定する重要な問題である。
 狭義の歴史学や経済史、また社会史においては、テキストデータ/計量的データのいずれであっても、一次的資料が最も重視される。こうした一次資料重視の志向によって、これらの研究領域では、膨大な一次的資料が蓄積されてきた。それでは、社会学における歴史研究においては、どのような資料・データが重視されているのだろうか。
 この問いに対する回答は、社会学における歴史研究の多様性と関連して、きわめて多様なものとなるだろう。この多様性は社会学における歴史研究を豊かなものにしている反面、その輪郭を曖昧なものにもしている。そのため「社会学」であることの必然性さえも曖昧になる危険が生じている。
 こうしたなかで、社会学が独自に蓄積してきた一次的資料、すなわち社会調査データに着目したい。社会調査データは調査時点での社会についての一次的資料であるが、調査から50年以上が経過したデータを分析する場合には、歴史的研究にならざるをえない。他方では、歴史研究の資料としては、ほとんど手がつけられていない未開拓の領域でもある。
社会調査データは、一般には、計量的データとみなされているが、実は、テキストと数量の中間的な性質をもつ。一方、調査票や調査設計そのものが、調査時点ではあまりに当たり前だった社会情勢などを反映していることから、歴史的資料としてみる場合、一次的資料と二次的資料の中間的な資料とみなす必要が生じる場合もある。
 報告では、社会調査データをもちいた計量歴史社会学の特徴と方法について論じ、将来的な可能性にもふれることにしたい。

第3報告

初期テレビCMのデータベース化――戦後メディア資料の可能性と問題

高野光平(茨城大学)

 発表者は2004年から2007年にかけて、ある老舗プロダクションが制作・保管していた1950〜60年代のテレビCMフィルム・約9,000本のデジタル・データベースを構築するチームの責任者だった。本発表ではその経験をもとに、戦後メディア資料としての初期テレビCMの可能性と、それをデータベース化することがはらむ問題点について論じる。
 発表の前半では、収録CMの基本的なデータとともにいくつかの映像を示しながら、高度経済成長期における人々の欲望のあり方や商品文化の理想像が、映像の中でどのようにプロトタイプ化/ステレオタイプ化されているかを論じ、資料としての特質・価値を提案していく。「工場の生産ライン自慢」や「外国人の賞賛」といった当時に特徴的な表現手法を分析したり、家族像と家電製品との関係を考察したりする予定である。
 発表の後半では、一方で初期テレビCMは現在のように数十秒の短編映像に一本化されているわけではなく、その形式も内容も多様であったことを指摘する。例えば長さは5秒から180秒まであるし、番組映像とミックスして出す手法(スーパー、ワイプ)もあるし、また当時主流だった一社提供を反映して、番組のオープニングと合体したり、番組の出演者や場面設定がそのまま流入したものなども多い。データベースという均質で分類学的な構造にテレビCMを閉じ込めるとき、このような「生態の多様性」がいかなる問題を引き起こすかを整理していきたい。
 以上の議論から、初期テレビCMが戦後メディア資料としてどのように位置づけられ、どんな資料価値を発揮しうるのか、またそれを発揮させるにはどうすればよいのかなどをまとめたい。

報告概要

野上 元(担当理事・筑波大学)

 この部会は、社会学の歴史的な研究における「方法」や「資料」について検討しようという企図から編成された。ときに「名人芸」とされてしまうことすらもある資料利用の試みを披露し合い、アイディアの共有や批判から新たに生まれる刺激によって、その可能性をさらに広げてゆく場を作ることができないかと考えたのである。

 たださらにその一方で、「方法や資料について考えること」は、記述自体と切り離された単なる「方法論」や「資料論」であるだけでなく、資料の「生態」や、そこから生まれる社会認識・歴史認識自体を社会学の反省的な考察対象とするきっかけにもなっているはずである。認識の方法がそれ自体繰り返し分析の対象へと回帰してゆくのが社会学というものだろう。

 高田知和氏(東京国際大学)、佐藤香氏(東京大学)、高野光平氏(茨城大学)の三報告は、これらの主旨を見事に表現してくれるものだった。まず高田氏の第一報告「自治体史誌の社会学――作る・書く・読む・見る人たち」は、ある特定の歴史的事実を明らかにするのではなく、歴史の生産や編集・流通を社会学的な考察の対象にしようというものである。歴史的な資料があり、専門家がいれば自動的に歴史記述ができあがるというわけではなく、様々なアクターやファクターの組み合わせが、ある社会性(この場合は自治体)を背景にした歴史の「場」を作り上げているということである。また佐藤香氏の第二報告「社会調査データと計量歴史社会学」は、社会学における歴史的資料の利用が陥りがちな想像力の閉塞の存在を指摘してくれたと思う。氏が採っている立場は計量歴史社会学という方法だが、データ利用における一次性/二次性の問題や、調査データに孕まれている非計量的な本質をめぐる問題は、社会学的な資料と論証の関係や妥当性一般の問題に関わっている一方で、ある記録資料と分析者の時間的な隔たりの問題とも微妙に結びついていて、つまりは「歴史的」資料の利用の問題とも複雑に絡まり合っているのである。さらに高野氏の第三報告「初期テレビCMのデータベース化 〜戦後メディア資料の可能性と問題」は、初期テレビCMフィルムというアーカイブが、どのような原理で編成され、資料としての利用可能性に対して開いて/閉じているかということについて論じてくれた。メディア史的な資料は複製技術によるものであるがゆえに、一次性/二次性の問題が調査票や他の様々な歴史的な資料ほど強く出ることがないのかもしれないが、それゆえにこそ、データベースの存在そのものに対する社会学的な洞察の必要が主張されていたのである。

 報告はどれも興味深いものであったが、討論者である佐藤卓己氏(京都大学)、佐藤健二氏(東京大学)の両氏はそれぞれ議論の構成をさらに立体的にしてくれたと思う。佐藤卓己氏は、自らの歴史家としての経験や実感を引きながら、今ここで論じられているのはかつて社会史でもさんざん議論されたことだと喝破し、では歴史社会学に何ができるかを問うていた。佐藤健二氏は、データについての議論が平板になったり自律化したりしやすい傾向の存在を指摘し、むしろ問題意識の緩やかなネットワークのなかでデータの共有の形式を考えてゆくためには如何なる工夫が必要なのかということを問うていた。

 当日は雨天にもかかわらず、大勢の参加者があったが、不慣れな司会者の不手際もあり、会場も交えての十分な討議時間がとれなかった。ただ当日、会場から「歴史を用いた社会学は、このようなテーマ部会となると、度々、通史的視座を欠いたものややけに狭い領域を扱ったものになる傾向が強いと思われるのですが、なぜでしょうか」と書かれた質問をいただいたことを紹介しておきたい。この質問が本部会の主旨を念頭において書かれた批判(?)であるとしても、ここでいうような意味での「広い/狭い」「通史的/時代史的(あるいは個別史的)」という区別を、実はあまり問題にはしていなかった。けれども一方で、このような指摘が示唆している、社会学において歴史的研究にかけられている独特の負荷についてはやはり深く考え込まざるをえなかった。歴史を分析する研究者たちや歴史を生きる人々は、そのリアリティにおいて、こうした区分をどのような方法で調停させているのだろうかということが気になったのである。

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