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年次大会
:第58回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会B)


テーマ部会B 「『行為−秩序』関係の再検討」  6/20 14:30〜17:30 〔3号館 3552〕

司会者:馬場 靖雄(大東文化大学)、宇都宮 京子(東洋大学)
討論者:左古 輝人(首都大学東京)、木村 正人(高千穂大学)

部会趣旨 宇都宮 京子
1. 相互行為のなかの行為と知覚--エスノメソドロジー的相互行為分析の視点 西阪 仰(明治学院大学)
2. ヴェーバーにおける「行為−秩序」問題??支配の「正当性-諒解」論を手がかりとして 松井 克浩(新潟大学)
3. 「社会性」の体験選択 高橋 由典(京都大学)

報告概要 宇都宮京子
部会趣旨

部会担当: 宇都宮 京子

 すでに前回のニュースにおいてもお伝えしましたように、テーマ部会B「『行為−秩序』関係の再検討」は、(相互)行為論の視点から社会秩序を問うという社会学理論の伝統を、今あらためて問い直し、社会学理論の現在的位置を見定めようという趣旨で設けられた部会です。「いかにして秩序は可能か」という社会学の問題を、マックス・ヴェーバーは個人の行為やその意味に関連づけつつ解こうとしましたが、その研究態度は、その後長い間多少かたちは変えながらも、社会学的思考の立脚点として機能してきました。

 しかしながら20世紀末の社会理論の百花繚乱とも呼ばれる状況のなかで、行為は、規範性、合理性、システム等との関係を問われ続け、自我も大きな物語も解体されてきました。特に「行為−秩序」関係に注目すれば、理論的または哲学的に吟味された行為概念を通じて実際に生きられている秩序を見通すというコンセプトそのものが抱える限界、行為概念を社会学の経験的な分析ツールとして転用する際の諸課題、さらにはとりわけ1950年代以降、分析哲学が牽引してきた行為哲学によってもたらされた知見との乖離など、秩序問題への行為論的アプローチにはさまざまな難問が存在しています。

 このような背景のもと、昨今、上記のような難問に果敢に真正面から取り組む意欲的な研究書が次々と公刊されていることは幸いです。それゆえ本テーマ部会では、現在をまさに社会秩序と行為との関係を問い直してみる好機と考えて、このテーマを取り上げました。また2010年度後半以降は、今年3月の研究例会や本テーマ部会の検討の成果を踏まえて、秩序問題に公共性という観点から迫りたいと考えています。

 2010年6月の学会大会テーマ部会においては、「相互行為分析」は「概念分析」として行われなければならないと論じ、合理性についても現代的視点で問い直している西阪仰氏(明治学院大学)、ヴェーバー理解において忘れられがちな、慣習を形成し支える「諒解」概念に注目し、ヴェーバーにおける行為概念と秩序概念との関係を問い直している松井克浩氏(新潟大学)、生の哲学や贈与論を再検討しながら、熟慮的選択に先立つ「体験選択」を顧慮する事で、社会学的行為論や自己論を刷新する可能性について論じている高橋由典氏(京都大学)の3人をお招きし、ご報告・ご議論頂きます。

 また、討論者としては、左古輝人氏(首都大学東京)にご登壇頂き、研究委員の木村正人氏(高千穂大学)とともに、議論を盛り上げて頂く予定です。奮ってご参加下さい。
第1報告

相互行為のなかの行為と知覚--エスノメソドロジー的相互行為分析の視点

西阪 仰(明治学院大学)

 この報告は、行為と知覚の記述の1つのデモンストレーションである。行為の記述は、行為者および、その行為の向けられている相手、すなわち「当事者たち」自身のその行為の把握(概念)との「一致」がなければならない。行為の記述の最初の課題は,行為者の把握と一致した行為の特定を確保することである。次の課題は、その行為の(当事者による)把握が、あるいは、そのように把握できる行為が、その当事者自身によりどのような手続きを通して産出されているのかを、明らかにすることである。もちろん、この2つの課題は、必ずしも,順番に遂行されるわけではない。つまり,当事者の用いる手続きの記述を通して、当事者の把握との一致が確保されることもある。

 この2つの(行為記述の)課題は、知覚(とくに視覚)についても、あてはまる。知覚の記述は、(行為の記述と同様)当事者の把握(概念)との「一致」が必要である。また、知覚の記述の課題には、何を(例えば)見ているかを特定することだけではなく、そのように特定可能な知覚がどのような手続きによって産出されるかを、明らかにすることも、含まれる。

この報告では、妊婦健診における相互行為の録画(の書き起こし)を素材にして、(妊婦による)「問題提示」という行為および「胎児」の知覚について、いま述べた2つの課題(特定と手続きの解明)の遂行を試みる。それにより、(1) 行為と知覚が、ともに複数の身体の連関のなかにある現象であること、言いかえれば、行為と知覚は「身体間の構造」として記述可能であること、(2) 行為と知覚は、すぐれて「社会的な」秩序(時間的・空間的に明確に境界付けられた、身体間の秩序)のうちにあること、(3) そして、その秩序の産出の手続きが記述可能であり、しかも、この手続きは、十分一般的なものであると同時に、そのつどコンテキストに特有な秩序産出を可能にすること、以上を示してみたい。

第2報告

ヴェーバーにおける「行為−秩序」問題--支配の「正当性-諒解」論を手がかりとして

松井 克浩(新潟大学)

 晩年に執筆された「基礎概念」に準拠すると、ヴェーバーの社会理論は(やや平板な)行為論的見地から展開されているように思える。しかし、1910年代前半に書かれた「理解社会学のカテゴリー」および『経済と社会』旧稿の論理をたどると、行為と秩序、主観的意味と客観的意味のダイナミックな関係が読み取れるのではないか。

 報告者は、「カテゴリー」論文の中心概念でありながら「基礎概念」では消失している「諒解 Einverstandnis」という概念に注目することによって、ヴェーバーの社会理論がもつ潜勢力をくみ出そうとしてきた。「諒解」とは、何かはっきりとした取り決め(制定規則)がなくても、他者はこのように行為するだろうと立てた予想が、それなりの確率で当たることを意味している。なぜ当たるかといえば、他者がこの予想を「妥当なもの」として扱う(あるいは扱った「かのように」行為する)ことが十分考えられる(その蓋然性が客観的に存在している)からである。ここで一つのポイントとなるのは、「かのように」行為した後で、遂行的・事後的に秩序の存立を知ることができるということである。「諒解」は、秩序の成り立ちをいわば仮定法的に、時間性・擬制性において捉えることを意図した概念といえる。

 本報告では、とくに「支配の正当性」をめぐるヴェーバーの論述を素材として取り上げ、それが単なる「正当性」ではなく、上記の意味での「諒解」と結びついた「正当性-諒解」である点を強調する。ヴェーバーの支配論は、「支配の法=権利根拠」を意味する「正当性」と仮定法的で曖昧さを含み込んだ「諒解」との重層的関係を基軸として構成されている。この点に注目しつつ、秩序の存立と変動のダイナミズムをつかむ視点をそなえた議論として、ヴェーバーの社会理論を読み直してみたい。

第3報告

「社会性」の体験選択

高橋 由典(京都大学)

 社会的行為の動機を理念・利害・感情の三分法で考えることについては、大方の同意が得られていると思う。そのことを出発点にして話を進めたい。上記三項のうち理念と利害の問題については、古くから社会学者たちの関心を引いてきた。これに対し感情についてはこれまで十分な研究蓄積がない。感情を理念・利害と真に対立する第三項として措定しようとする際に留意すべき点とは何か。一つは、理念・利害を経由する感情経験に依拠しないこと、もう一つは感情を生成の過程においてとらえることである。体験選択は、こうした問題関心に支えられて設定された概念である。

 体験選択のイメージをはっきりさせるためには、魅了という言葉で一括される経験に注目するのがよい。日常語で「心奪われる」「もっていかれる」「恋に落ちる」などと表現される経験である。魅了は、当人の思惑とは無関係に(すなわちまったく受動的に)生じるにもかかわらず、自身の生がきわめて濃密に実感される経験であり、それゆえ自分自身への帰属がこの上なく確かなものと感じられる経験である。魅了を事後的に振り返ると、自分を魅了した特定の事物と自分自身との間に特別なつながりが成立していると感じられる。このつながりは、生の賦活というその人に固有の経験的事実に根拠をもつ点で、その人の選択といいうる。魅了という体験の成立が選択の主内容となるような選択である。この類の選択のことを体験選択とよぶ。この選択の指標は生の賦活である。そして生の賦活は、主体を構成する諸条件が蒸発するときに出来する。体験選択は主体の蒸発という出来事をその内容とする選択なのである。

 魅了の場合には事物と主体の関係が焦点となるが、主体相互の関係が焦点となる場合、「社会性」の体験選択が出現する。そこでは現在実効的な主体相互の関係が一瞬蒸発し、それとはまったく質の異なる関係定義がリアルなものとして浮上してくる。新たな「社会」が選択されたのである。この種の体験選択は、芸術や宗教の領域において広く観察することができる。ベルクソンが「開いた社会」とよぶ事態は、この意味の体験選択に根拠をもつといってよい。

報告概要

宇都宮京子

 テーマ部会B「『行為−秩序』関係の再検討」は、行為と秩序の関係を、新しい視点から今あらためて問い直し、社会学理論の現在的位置を見定めようという趣旨で設けられた。以下の3つの報告は、それぞれ独自の視点をもっているが、これらの報告を聞くと改めて、主観−客観関係、行為と意識の関係、社会的秩序産出の可能性などに興味が湧いてくる。

 西阪仰氏(明治学院大学)による第1報告「相互行為のなかの行為と知覚--エスノメソドロジー的相互行為分析の視点」では、妊婦健診において妊婦と産婦人科医との間で遂行される相互行為場面の画像(絵)が提示され、それに基づいて報告が行われた。医師と妊婦はともに超音波診断装置のモニターを見ており、医師はプローブを妊婦のおなかの上で動かしながら「ここ」という指示語を使ってモニター上の状況を説明している。また妊婦もモニターの画像とプローブの位置が連動していることを知っており、医師の言葉の意味は妊婦には十分に伝わっている。即ち、モニター上の「ここ」は、妊婦のおなかの中として両人に知覚されている。この会話を可能にする「社会的な」秩序との関係で、医師と妊婦は自分たちが何を行い、何を見ているかということについての知覚を、すなわち社会秩序を共に産出している。このような西阪氏の報告は、行為や知覚の記述の可能性についての新しい見解の提示を試みていると言えよう。

 第2報告は、松井克浩氏(新潟大学)による「ヴェーバーにおける「行為−秩序」問題--支配の「正当性-諒解」論を手がかりとして」であった。松井氏は、「理解社会学のカテゴリー」および『経済と社会』旧稿の論理をたどると、行為と秩序、主観的意味と客観的意味のダイナミックな関係が読み取れるのではないかと問題提起を行い、ヴェーバーの「諒解」概念に注目している。「諒解」とは、何かはっきりとした取り決め(制定規則)がなくても、他者はこのように行為するだろうと立てた予想が、それなりの確率で当たることを意味している。それは、他者がこの予想を「妥当なもの」として扱う(あるいは扱った「かのように」行為する)蓋然性が客観的に存在しているからである。ところで「支配」は、時間の経過の中で主観性・意識性と構造的規定性の両者を織り込みながら成立し、変移していくのであり、ヴェーバーの論述における「支配の正当性」とは、単なる「正当性」ではなく、「諒解」と結びついた「正当性-諒解」なのである。

 松井報告は、ヴェーバー社会学における「諒解」概念と支配の正当性概念との関連性を明らかにすることによって、支配関係における秩序のゆらぎ、変動の可能性の説明を試みている。

 第3報告は、高橋由典氏(京都大学)による「『社会性』の体験選択」であった。高橋氏は、理念・利害という概念に対して感情という概念の独立性は弱いと考えている。しかし「魅了」という体験は、自分の生が濃密に実感され、自分自身への帰属がこの上なく確かなものと感じられる経験であるという。何かに魅了されるとは、意思決定や判断の主体がどこかに行ってしまう(主体の蒸発)という経験だが、魅了を事後的すなわち主体の帰還後に振り返ってみると、自分を魅了した特定の対象と自分自身との間に特別なつながりが成立していると感じられるのであり、このつながりが「選択」と呼ばれる。そして主体の蒸発(=生の賦活)という体験の成立が選択の主内容となるような選択は体験選択とよばれる。ところで体験選択においては主体と事物とのつながりが問題であるに対して「社会性」の体験選択においては、主体相互の関係が問題となり、ふだんの生活において成立している主体相互の関係が一気に蒸発し、まったく新しい主体相互の関係が立ち上がってくる。この「社会性」の体験選択において出現する社会は、ベルクソンが「開いた社会」と呼んだものに等しいという。ここでは、「主体の蒸発」がむしろ、自己の生の実感や新しい主体の誕生に結びつくというパラドックスが見られる。このような場合、客観的事実とは何なのだろうか。主観−客観図式が根底から問い直される視点を本報告は含んでいる。

 以上の3つの報告に対して、コメンテーターの木村正人氏(高千穂大学)からは現象学やパーソンズの見地などを視野に入れて、また、左古輝人氏(法政大学)からは学説史や、やはりパーソンズ理論などを視野に入れて、貴重な質問やコメントが寄せられた。また、フロアーからも興味深い質問が次々と寄せられ、全体討論の時間が足りないと感じられた。 これらの貴重な質問やコメントをすべて記すことはできないが、西阪報告には、合理的に語ることができないものは残らないのか、松井報告には、諒解と意識性との関係はどのようになっているのか、高橋報告には、体験選択概念の外延は不確定なのではないのかなどの質問やコメントが寄せられたことは記しておきたい。

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