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年次大会
大会報告:第59回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第3部会)


第3部会:福祉

司会:武川 正吾(東京大学)
1. 福祉のまちづくりから考える多様性――岐阜県高山市を事例に 猪熊 ひろか(東京大学)
2. 知的障害者の情報アクセス環境に関する障害学的考察――知的障害当事者へのインタビュー調査から[PP] 打浪(古賀) 文子
(国立障害者リハビリテーションセンター研究所)
3. 社会福祉運動における構成員の意味構築 富井 久義(筑波大学)
4. 東京帝国大学セツルメント医療部にみる戦前の社会事業 後藤 美緒(筑波大学)
第1報告

福祉のまちづくりから考える多様性――岐阜県高山市を事例に

猪熊 ひろか(東京大学)

福祉のまちづくりは、建築物等の福祉環境整備(バリアフリー)を当初の目的として、1970年前後から障害者運動に触発されるような形で広がりを見せた。この種の物理的な要素を主眼においた福祉のまちづくりは、比較的早い段階から要綱化・条令化・法令化という道を辿った。また、高齢者や障害者、幼児等へのケアの制度面での不足に地域活動として取り組むような種類の、福祉的/社会的な要素を主眼においた福祉のまちづくりが現れ、こちらは行政によりスローガン的に用いられることもある。現在、福祉のまちづくりが対象とするのは、これら二つの面への対応である。福祉のまちづくりは直面した人々による個別具体的な問題意識とそれに基づく実践によりなされてきた営為であるが、それぞれのまちづくり運動/活動が掲げるそれぞれの目的を主張すれば、目的が制度体の側へ取り込まれると同時に同じ目的を持たない人々に対して排他的になる可能性をもつ。例えば,点字ブロックの敷設により視覚障害者は通行の助けを得られるが、車いす使用者や肢体不自由者にとって点字ブロックの段差はマイナスに捉えられ、雨天時には滑る恐れもあるとされる。そこで、制度化ということと多少の距離をおくような考え方をもつ人々の振る舞い方に着目する意味を見いだすことができるだろう。本報告では、行政主導でバリアフリーのまちづくりを進めてきた岐阜県高山市の、岐阜県視覚障害者福祉協会高山支部へのヒアリングから、上述のような制度化との距離の置き方について、差異という分析基軸から多様性という考え方を用いて考える。

第2報告

知的障害者の情報アクセス環境に関する障害学的考察――知的障害当事者へのインタビュー調査から

打浪(古賀) 文子(国立障害者リハビリテーションセンター研究所)

 情報通信技術の進化とともに、障害者の情報アクセスをいかに保障するかは重要な課題となりつつあるが、情報に"直接"アクセスすることがほとんど想定されていない知的障害者は、ITの発展とともにさらなる情報格差に取り残されつつある。しかし知的障害者には「わかりやすい」情報提供へのニーズがあることが明らかにされており、例えば読書を例として言えば、「その人たち(知的障害者等)に合った本や読書環境のないことが問題であるということに視点を置くべき」であることが指摘されている(藤澤・服部2009)。このことを障害学的観点、すなわち「障害の社会モデル」からいえば、情報アクセスへの適切な環境が無いことそのものが知的障害者のdisabilityと考えられる。

 そこで本発表では、知的障害者の社会参加において能動的かつ主体的でありうるような情報提供のあり方に資するため、知的障害者が日常生活を送る上で情報の受発信においてどのような具体的困難に直面しているのかを明らかにする。平成22年6〜10月に実施した軽〜中度の知的障害者17名への半構造化面接法による聞き取り調査の結果から、知的障害者の情報アクセス環境における現状と課題を障害学的観点から考察することを本発表の目的とする。

参考文献 藤澤和子・服部敦司 2009 『LLブックを届ける ――やさしく読める本を知的障害・自閉症のある読者へ』読書工房

第3報告

社会福祉運動における構成員の意味構築

富井 久義(筑波大学)

本報告は、社会福祉運動のひとつであるあしなが育英会が展開する「あしなが運動」において、その主要な担い手である大学奨学生を事例とする。そして、運動の理念や取り扱う問題を外在的なものとしてとらえたままに、「自発的に」運動に参加するという運動の構成員の姿を、行為論的アプローチから検討するものである。

「あしなが運動」は、運動を組みこんだかたちでの寄付―奨学金システムとして、民間団体による富の再分配システムを形成してきた社会福祉運動として評価される。

この寄付―奨学金システムは、そのしくみのもつ性質上、つねに運動の展開を必要としている。しかし運動は、「恩返し」の思想による運動の展開を困難なものとしつつある。

こうしたなか、大学奨学生は遺児であることによって、運動の担い手とされる。しかしかれらは、運動の理念に共鳴するわけではないし、運動が扱う遺児問題を外在的なものとしてとらえている。

それでも、全国で街頭募金活動を展開し、寄付―奨学金システムを支える運動を象徴する機能を有するほどの規模で、大学奨学生は運動の担い手となっている。

報告者は、大学奨学生がこの運動に参加するようすを、運動の掲げる理念とは異なる意義を自ら見いだす戦術としてとらえる。かれらは、運動をする集まりにおける相互作用の円滑さの問題にその取り組みを回収することで、「自発的に」継続的に運動に取り組むことを可能にするのである。

第4報告

東京帝国大学セツルメント医療部にみる戦前の社会事業

後藤 美緒(筑波大学)

本報告は、戦前における「社会的なもの」の布置を、戦前に東京帝大の学生らによって担われたセツルメント事業〔1924-1938、以下帝大セツル〕、殊に、医療部において表された「社会医学」に着目し、担い手たちの意味づけを明らかにすることで考察するものである。

 法律相談や医療活動、労働学校を運営した帝大セツルは、戦前の社会福祉史、社会事業史において先駆的な活動としてとりあげられる。医療部は振興工業地域に住む下層労働者を対象に実費診療や社会調査などを行い、そして設立当初、東京帝大医局の協力のもと展開した、事業の主柱であった。同時に、この時期は内務省社会局が独立した時期であった。いわば、国家、大学(学知)、民間の諸アクターが国家とは異なる領域に対し、関心を寄せ始めた時期であり、その発露である事業の住み分けは明確ではなかった。

 だが、後に医療部への医局の援助は打ち切られ、さらにセツルメント事業自体が国家から停止を求められる。活動を継続させながら医療部参加者らは自らの活動を「社会衛生学ではなく社会医学」であったと論ずる。そこで貫かれたのは、関東大震災を契機に現れた、経済的条件によって医療から取りこぼされる人々への着目であった。

 とりわけ本報告では、データとして帝大セツルによる年報や調査報告書、さらに参加者の対談、回想録を用いる。この試みからは、帝大セツルを社会事業の一事業とする理解を超えて、近代日本における学の成立と国家のせめぎ合いの場であったことが、明らかになるだろう。