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年次大会
:第59回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会B)


テーマ部会A 「社会学における公共性の諸相」  〔リバティタワー3階 1032教室〕

司会者:馬場 靖雄(大東文化大学)、宇都宮 京子(東洋大学)
討論者:鈴木 弘輝(首都大学東京)、瀧川 裕貴(総合研究大学院大学)

部会趣旨 準備中
1. 公共哲学、公共世界、そして社会学への問い 山脇 直司(東京大学)
2. 「公共性」論の位置――デュルケム、バウマン、アレント 中島 道男(奈良女子大学)
3. 他なるものへの想像力――アーレント的公共性の再導入に向けて 橋本 摂子(福島大学)

報告概要 準備中
部会趣旨

 準備中

第1報告

「新しい公共」の臨界と311――社会的排除への抗いの構図と変容

仁平 典宏(法政大学)

 公共哲学は、ある特定のイデオロギーではなく、アリストテレスの実践学(倫理学、政治学、レトリケー)に由来する「善き公正な社会」を追求する学問として、理解できよう。また公共性という名詞は、「公開性」「共有性」「公益性」「公正性」などから成る複合概念として理解されうるが、それは、アーレントやハーバーマスが述べたように、どこまでも「コミュニケーション的活動」によって創出・承認されると考えられなければならない。

 報告者自身は、アーレントにならって、しばしば「公共世界」というコンセプトを多用しているが、これはシュッツの「生活世界」よりも狭く、「何らかの価値理念(公正、福祉、平和、和解、安全、その他の公共善と公共悪etc)を媒介として、身内以外の他者とのコミュニケーションによって成り立つ世界」を意味し、空間的次元のみならず、時間的次元も有する。(したがって「公共的記憶」や「公共的未来」も公共哲学のテーマとなる)。さらに報告者は、「個人の人権」と「公共の福祉」の両立を可能にする理念型として、「滅私奉公」や「滅公奉私」に代わる「活私(個)開公」や、応答的・多次元的・生成的な「自己―他者―公共世界」理解を規範的パラダイムとしており、これは、関係主義的な人間論、相互作用論的な社会論と呼びうるであろう。

 以上をふまえて報告者は、社会学研究者の方々に対して、次のような質問を投げかけてみたい。社会学者が「社会秩序はいかにして可能か」という問いを立てるとき、引き合いにされる「パーソンズにおけるホッブズ問題」という表現は、明らかに偏っている。何故ならば、ホッブズにとっての社会秩序は、「自己保存(生存)権」のためだけに必要なのであり、「善き公正な社会秩序」はテーマとなっていないからである。したがって、これからの(規範的な)社会学は、「善き公正な社会秩序はいかにして可能か」という問いを立て、それを「社会学におけるアリストテレス問題」とでも呼ぶべきではないだろうか?

第2報告

「公共性」論の位置――デュルケム、バウマン、アレント

中島 道男(奈良女子大学)

 デュルケムは、近代化を個人化ととらえ、個人の解放というこの趨勢を評価しながらも個人化の独り歩きは病理をもたらすとみた。そして、社会理想によって歯止めをかけようとした。デュルケムが対処しようとした個人化を個人化Tと呼ぼう。個人化Tへの対抗策として、デュルケムは道徳的個人主義という社会理想を考えた。これが、有機的連帯の基礎づける(ある種の)集合意識の重要性の主張である。

 現代でも個人化がキーワードになっているが、これは個人化Tではなく、個人化Uである。個人化Tへの対抗策として立てられた連帯が崩壊したのである。この個人化Uに対抗するには、デュルケム的(あるいは古典社会学的)戦略は有効ではない。社会理想を持ち出すのではなく、個人、個人の自由を基軸に据えなければならないのではないか。

 バウマンのデュルケム批判はこうした文脈でとらえられよう。デュルケムは、社会的=道徳的ととらえ、道徳化する力としての社会を主張したが、バウマンはまさにここを批判する。そして、個人の道徳性を眠らせる力としての社会という考えを対置する。彼が依拠したのはレヴィナスである。これは、個人化を社会=社会理想によって歯止めをかけるというデュルケムの戦略への批判である。デュルケムとバウマンの社会学はともに〈公共哲学としての社会科学〉と呼びうるが、両者のスタンスは根本的に異なっている。デュルケムが注目したのは前近代社会/近代社会の落差であり、バウマンは近代社会/現代社会の落差をとらえようとしたのである。両者の違いを明らかにするには、[共同性/公共性]あるいは[同一性/複数性]という軸が有効だろう。

 さらにアレントを加えるとどうなるか。アレントのキーワードは、複数性、政治、自由、他者、共通世界などである。他者の存在はアレントの生命線だと言ってもよい。そして、異質な人びとが共通の世界を生きていくという意味での公共性を問うたのである。その意味では、デュルケムではなくバウマンに近い。では、バウマンとアレントはどう違うのか。この点をとらえるには、新たに[親密圏/公共圏]という軸を導入する必要がある。

 本報告は、以上のように、デュルケム、バウマン、アレントをとおして公共性について考える。そして、この報告が遠望するのは、現代社会学あるいは現代社会理論の種差性であり、(アレント論を踏まえたうえでの)他者と共同体、あるいは他者から成る共同体という問題である。

第3報告

他なるものへの想像力――アーレント的公共性の再導入に向けて

橋本 摂子(福島大学)

 近年「公共性」が市民社会論のキータームとなった背景には、普遍主義の失効が挙げられるだろう。あらゆる人間に一律に妥当するような普遍的価値体系を前提とする近代的普遍主義が破綻して以降、「公共性」はいわば普遍性の代替概念として、人びとの新たな共通基盤(の在り方)をあらわすようになった。そこで求められているのは、一言でいえば、多様な人びとが多様性をもったまま一つの世界を共有するための、必要最低限の共通ルール(社会秩序)の制定、あるいはその根拠の提示である。人びとが社会を共に営むうえでの基本的な協約事項を、普遍的価値に依拠することなく、いかにして構築するか。言い換えれば、人間にかかわる事象の善悪、正不正の最終根拠をどこに求めるか、という問題である。ゆえに、公共性とは何かを問うことは、公共的な事柄に判断を下す際の、終局的な拠り所を考えることでもある。

 本報告では、こうした理解にもとづき、ハンナ・アーレントの判断論、特にカント美的判断をめぐるアーレントの読解を通じて公共性のありかたを捉え直す。アーレントはカントの「美的判断」に、必然性で覆われた全体主義から自由を実現しうる複数的世界への移行を見出したが、その主要な理由は、カントが美を単独の普遍的真理ではなく、他者との間に生じる公共的な事象とみなしたところにある。美を判定する者は、各人の想像力によって無私性と不偏性を獲得しなければならない。アーレントはそこから、正解に至ることを目的とせず、判断過程そのものにおいて公共性が創出されうる独自の判断論を構築した。

 したがって、アーレントにおいて、公共性は善や正義などの高次の価値の実現手段ではなく、それ自体を目的とみなされねばならない。それは、今いる場所の「外」に対する感覚、他なるものすべてへの想像力を核心とする点において、「普遍」から「公共」への移行を迫られるわれわれに今なお大きな示唆を与える。

報告概要

準備中

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