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年次大会
大会報告:第43回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会 II)

 テーマ部会 II 「生命の再生産」 リプロダクションの社会学
 6/10 14:00〜17:15 [1号館301教室]

司会者:有末 賢 (慶応義塾大学)  市野川 容孝 (明治学院大学)
討論者:江原 由美子 (東京都立大学)  立岩 真也 (信州大学)

部会趣旨 市野川 容孝 (明治学院大学)
第1報告: 不妊治療における女性の「選択」
−事例研究から
柘植 あづみ (北海道医療大学)
第2報告: 出産への医療介入に対する適応と反発 大出 春江 (東京文化短期大学)
第3報告: 生殖技術とジェンダー 加藤 秀一 (明治学院大学)

報告概要 有末 賢 (慶応義塾大学)
部会趣旨

市野川 容孝 (明治学院大学)

 生まれること、そして、死ぬこと―――言うまでもなく、これら二つの事象は人間の生を基礎づける要素である。しかし、かつてメルロ−ポンティが述べたように、これら二つの経験は個人にとって最も重要なものでありながらも、同時に、個人的主体の経験領野を超えたところに位置している。言い換えるならば、人は生まれること、そして死ぬことにおいて、不可避的に社会過程に取り込まれざるをえないのである。にもかかわらず、これまで社会学が、この二つのすぐれて〈社会的〉な経験そのものを研究の主題とすることは少なかったように思われる。本テーマ部会では、昨年度の「死の社会学――医療・宗教・家族の視点から――」を継承しつつ、生まれること/産むことに焦点をあてながら、人間の生のあり方の今日的様相を明らかにしてゆきたいと考えている。

 その際、差し当たって、以下の三つの視座を設定することができよう。

(1)医療技術と生命……高度化した医療技術は、今日、従来以上に様々な形で人間の生のあり方に大きな影響を与えている。「出産」という領域もまた例外ではない。柘植あづみ氏の報告は、技術の問題に焦点をあてながら、新しい「生殖技術」が出産という経験に及ぼしている影響について論じる。
(2)(戦後)日本の社会と文化……「出産」という経験は、また、各々の社会・文化のあり方やその変容を映し出す「鏡」でもある。「医療化」の産物である病院内出産は、比較的、最近になって顕著になった現象である。助産婦の方々のライフ・ヒストリーに取り組んでこられた大出春江氏の報告は、独自の視点から、日本社会における「産む文化」とその変容に光をあてる。
(3)ジェンダー……死と異なり、「生まれること(=be born)」は同時に「産む (=bear)」という経験とその担い手の問題に不可分な形で結びついている以上、出生=出産という経験は、ジェンダーの問題と最も強く結びついている。加藤秀一氏の報告は、ジェンダー論の立場から、今日における生命の再生産について論じる。 以上の方々の他に、江原由美子氏と立岩真也氏にはコメンテーターとして発言をお願いしている。

第1報告

不妊治療における女性の「選択」
−事例研究から

柘植 あづみ (北海道医療大学)

 新しい「生殖技術」が文化・社会に及ぼす影響については、生命倫理や法学、フェミニズムなどの領域で論じられてきたが、技術が受容もしくは拒否される過程とその理由に関する実証的研究はほとんど行なわれていない。そこで不妊治療の「患者」ヘの継続的な聞き取り調査によって、技術の受容理由と拒否理由、さらに感情の揺れや意識の変化についての事例研究を行なった。

 不妊治療を受けている女性「患者」11名を対象にして自由会話方式の聞き取り調査を行なった。調査では1)不妊治療の体験、2)治療方法に対する考え、3)不妊と子どもをもつことに対する考え、4)不妊であることによって生じる家族関係における変化、5)「なぜ子どもが欲しいのか」と関連するライフ・ストーリーなどに関して聞き取った。一回目の調査後に妊娠・出産した人、治療を止めた人も含めて、医療に対する不満や何度治療を受けても妊娠できないことへの苛立ちや焦り、あきらめきれない気持ちを語っていた。不妊治療が心身両面の苦痛を伴い、また時間的にも経済的にも負担の大きいものであるにもかかわらずそれを受ける理由を自由に語ってもらった結果、子どもは「いるのが当然である」とする意識はが強いこと、しかし「患者」は従来指摘されてきた「イエ」からの圧力によってよりも、自主的に不妊治療を「選択」していることがわかった。結論として、調査者は、不妊治療を受容していく要因を「科学技術に対する評価」と「女性の人生観」にあると考える。すなわち新しい方法を受け入れるのは急速に発達していく技術を目のあたりにしているからであり、失敗を繰り返してもあきらめきれないのは「努力しても報われなかった経験がない」ためであり、自分自身への「挑戦」とする傾向が指摘できる。

第2報告

出産への医療介入に対する適応と反発

大出 春江 (東京文化短期大学)

 日本における出産のかたちは、1950年代後半から1960年代前半を境に大きく変わった。すなわち出産の場が家庭から施設に移行し、開業助産婦にかわって医師が正常産をとりあげる担い手となった。

 産む側からすると出産は病院で医師立ち合いのもとで行われるのが当り前になった。これにともない、病院出産にはさまざまな医療介入が行われるようになった(たとえば、会陰切開、浣腸、剃毛、さらに実施率は低くなるが陣痛促進剤の使用)。

 国内では1970年代後半から、出産に対するこうした医療介入への疑問の声があがるようになり、病院の内外で新たな出産への取り組みが行われるようになった。ところが、こうした動きの一方で、医師主導の病院出産は相変わらず主流を占めている。

 本報告はこうした病院出産の場で医療介入が依然として正常分娩に導入され受容され続けているのはなぜか、という関心に答えることを目的としている。

 そのために採用した方法は、出産経験のある女性(ぐるーぷ・きりんによる1993年調査の対象者493名)のアンケートに寄せられた自由回答から分析し、出産への医療介入−−具体的には会陰切開と陣痛促進剤使用−−に対する適応と反発を構成する要因を析出しその関連をみることであった。

 分析の結果を要約すれば、母子の生命の安全が医療介入の基本的合理化目標であることを基盤として、産む側の医学的根拠の内面化、活字メディアや同世代者から形成された<常識>が医療介入の合理化認識を直接に形成すること。また医療介入の受容は医療者との相互作用、医療介入による痛みや苦痛の経験の有無とその認識のしかたに影響される、ということである。また医療者との双方向的ではない関係に基づく医療介入の決定は、その種類にかかわらず共通する性格である。

第3報告

生殖技術とジェンダー

加藤 秀一 (明治学院大学)

 「死」と「誕生」はともに、技術の「発展」が強いる現在的状況の中で、社会的そして人間的経験としての質的変容を被りつつある。一方にはさまざまな延命措置が引き起こす諸問題があり、その極点に「脳死・臓器移植」がある。他方には周産期医療の諸実践があり、その到達点には「体外授精=胚移植」が、さらには狭義の(「治療」としての)医療からはすでに逸脱としかみえない各種の生殖技術がある(たとえば、中絶された女子胎児の卵細胞を体外授精の素材として用いる、など)。

 これらが、医療による人間の管理・統制という意味で、同一の社会的変容に根ざすものであることは疑いえない。だが同時に「死」と「誕生」とは本源的に異質な二種類の経験(あるいは経験の臨界)でもあることを忘れてはならないだろう。すなわち、「死」においては死にゆく者とそれを見送る者とが決定的に隔てられていて、そのことが否応なく確認されてしまうところに特質があるのに対し、「誕生」の経験において生まれる者と産む者とを隔てる条件はそれとは全く異なるものである。たとえば、全く孤独に死んでゆくことは可能だが、生まれる者は孤独ではあり得ない。それは必ず「産む者」の身体的現前と緊密に結びついている。また、「誕生」は「死」とは違って、あらかじめ隔てられていることが再認される場ではない。それは文字どおり、かつて一人であった者から次第にもう一人別の存在者が生み出され・分け隔てられてくるという出来事である。

 いうまでもなく、そのような出来事が生じる身体こそが、まず認知的に、かつ規範的に「女性」と呼ばれてきたものに他ならない。「女性」と「男性」との絶対的な非対称性がここに現れる。「死」が死ぬ者・残される者という二者関係で語られるとすれば、「誕生」は生まれる者・産む者=女性・男性という相互に還元不可能な三者関係を要求する。だが女性=母という存在は、つねに他の二項によって引き裂かれてきた。子と母の一体性が強調される一方で、子は母ではなく父の名をまとい、また中絶禁止論にみられるように、母の身体から切り離され、父権制的な医療と法と神の名の下に奪われてきた。こうした両義性に対し、「産む者」固有の位相をいかに確保することができるのか――産むことの放棄ではなく、しかし「母性主義」の罠に陥るのでもなく。これがフェミニズムの問い続けてきた課題であり、本報告はこの原理的な問題認識をあくまで引き継ぎながら、いっそう複雑化する今日的状況の中でフェミニズム的視点から「生命の再生産」について何を言いうるかを考えてみたい。

報告概要

有末 賢 (慶応義塾大学)

 昨年の「死の社会学─医療・宗教・家族の視点から─」に引き続いて、〈身体性〉部会では「生命の再生産─リプロダクションの社会学─」と題して検討してきた。生まれること/産むことに焦点をあてながら、医療技術が人間の生のあり方とどのように関係してきているのか、そして、産む側/生まれる側のジェンダー問題なども視野に入れながら考察した。

 まず第1報告者の柘植あづみ氏(北海道医療大学)は、「不妊治療における女性の「選択」─事例研究から」と題して、不妊治療の「患者」への継続的聞き取り調査による報告がなされた。最初に「不妊」治療の概念や類型が説明され、女性が自主的に不妊治療を「選択」している事例について報告があった。第2報告者の大出春江氏(東京文化短期大学)からは「出産への医療介入に対する適応と反発」として、1960年代に進行した病院出産によって、産む側にとっては母子の生命の安全性確保という要請がある反面、会陰切開、陣痛促進剤使用など出産の現場で行われている医療介入の実態と情報認識や態度が検討された。その際に医療者と産む側の両者の関係の〈双方向的関係〉の確立が重要であるとされた。第3報告者の加藤秀一氏(明治学院大学)は「不妊技術とジェンダー」によって、第1報告者の柘植あづみ氏の報告と関連させながら「技術の不十分さ」が女性の身体を傷つけるという観点を再検討し、さらに進んだ「技術の十分さ」が人間に対して与える影響の方を問題にしていた。その際の「主体的に選択されている時」こそ、技術が存在することそのものの「選択肢の狭隘化」を問題にして検討された。

 討論者の江原由美子氏(東京都立大学)からは、女性の自己決定権という主題にとって「不妊治療」という場面の方が「普通の出産」よりも主体的になるという指摘がなされた。さらに、立岩真也氏(信州大学)からは、医療介入の一つとしての「出生前診断」の問題点についても話があった。もう一人の司会の市野川容孝氏(明治学院大学)からも「医療」そのものを「知の体系の一つ」として相対化してみていく必要が指摘された。

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