HOME > 年次大会 > 第46回大会(報告要旨・報告概要) > 自由報告 第6部会
年次大会
大会報告:第46回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第6部会)

 第6部会  6/14 9:45〜12:45 [3号館316教室]

司会:米村 千代 (千葉大学)
1. 下層社会への<まなざし>
――明治20-30年代の下層社会記録からの考察――
加藤 裕治 (千葉大学)
2. 関東大震災と狭域情報 中森 広道 (日本大学)
3. 昭和期日本ナショナリズムの一試論
――「超国家主義」の再検討をとおして――
船戸 修一 (東京大学)
4. 「移民」をめぐる言説
――大正年間の地方改良運動との関連から――
武田 尚子 (東京都立大学)
5. 「近現代史」の社会学
――歴史性と社会性のはざまで――
野上 元 (東京大学)

報告概要 米村 千代 (千葉大学)
第1報告

下層社会への<まなざし>
――明治20-30年代の下層社会記録からの考察――

加藤 裕治 (千葉大学)

 明治20年代から30年代にかけて、無名のジャーナリスト、あるいは桜田文吾、松原岩五郎、横山源之助といった人々によって、数多くの下層社会生活記録が報告されるようになる。このように下層社会を記録することは、「記録者達の住む社会とは異なった異質な社会(中川清)」を捉えていこうとする傾向を持っていたと説明される。また文学・歴史学・社会学の視点からも、都市の異質な他者を可視化していく傾向をもった試みとして、こうした記録への意味づけがなされてきた。しかし、これらの探求では主に「下層社会そのもの」に関心が向いており、その記録を行う「観察者(観察主体)」や「記録方法」の問題に関しては必ずしも十分に考察されてきたとはいえないだろう。

 本報告では、こうした「観察者」や「記録方法」の問題を考察の対象とする。そのためにまず、松原岩五郎の下層社会記録の変遷を事例として取り上げる。松原は下層社会に関する新聞連載の記事を『最暗黒之東京』として単行本化する際、いくつかの記事を単行本に収録することを拒んでいるのだが、そのとき彼は対象への「記述の方法」に対する関心に基づいて、その排除する記事を選択している。このとき、その「記述の方法」に対する関心が含む問題を、対象の「何を描き出し」「何を描き出さないか」という、観察主体の認識(<まなざし>)の変容に関する歴史的な問題、ジャンル(ルポルタージュというジャンルの発生)に関する問題、あるいは (社会)現象を「記録すること」に関する方法的な反省の問題を含意しているものとして取り上げることを試みる。

第2報告

関東大震災と狭域情報

中森 広道 (日本大学)

 一九二三(大正一二)年に発災した「関東大震災」の被災地・神奈川県足柄下郡土肥村(現在の湯河原町)において、震災当時、村民の有志により村民向けの広報紙『村の新聞』が発行されていた。関東大震災は、南関東から中部地方の広い範囲にわたって被害が生じたものであるが、東京における人的被害とその原因となった火災被害に注目が集まる一方、東京以外の地域の被害や火災以外の被害については、あまり知られないまま今日に至っている。近年の災害でも、多様な被害が生じ被災地が広範囲にわたりながら、特定の地域や特定の被害に注目が集まる傾向が見られ、また、被災地内においても情報に格差が生じたり情報ニーズが満たされないといった状況が生じている。

 本報告は、『村の新聞』を、災害時の被災地における狭域情報(市町村以下の比較的狭い地域の情報)の役割という観点から検証し、「阪神・淡路大震災」など近年の災害時において生じた情報の問題などと対比させながら考究するものである。

第3報告

昭和期日本ナショナリズムの一試論
――「超国家主義」の再検討をとおして――

船戸 修一 (東京大学)

 「超国家主義」と称されるような思想と運動が、1920年代から昭和戦前期までの日本の急進的ナショナリズムとしてみなされ、かつそれが近代日本の社会的病理として分析されてきたことはいまさら説明するまでもない。そもそも「ウルトラ・ナショナリズム(Ultra‐Nationalism)」の訳語としての「超‐国家主義」は連合国(西洋)が戦時期日本の現況を特異化するために付与した語であるがゆえに、おのずとその分析視座は「ウルトラ(Ultra)=超」に値するほどの社会的病理を抽出することになり、またそれは忌避すべき戦争の記憶として戦前・戦時社会と戦後社会との歴史的断絶を強調することでもあった。

 ところが「超国家主義」と称されるような思想や運動内容を吟味すると、天皇を絶対的な『見る』主体から『見られる』形象に置き換えることにより想像体としての国民を担保にする部分が見いだされる。ここに象徴天皇制としての戦後社会との共通性を指摘することが可能となる。

 本報告では、(1)理論的前提として、代表的な先行研究―丸山真男とその批判としての橋川文三―の分析視座の検討をつうじこれまで議論されてこなかった論点を整理したうえで、(2)具体的事例として、 1920年代から昭和戦前期にかけて起こった斬奸事件や政治的クーデターに関与した人物の心性分析をとおして、(3)当該期における日本ナショナリズムの軌跡と戦後社会との共通性を仮説的に提示する。

第4報告

「移民」をめぐる言説
――大正年間の地方改良運動との関連から――

武田 尚子 (東京都立大学)

 戦前、広島県沼隈郡田島村(現・沼隈郡内海町)からフィリピン・マニラへ多くの漁業移民が渡った。移民送出から10年余り経過した大正年間から、母村には移民に関連する空間的・文化的シンボルなどが登場し、「移民」という現象が人々によってどのような社会的文脈を準拠枠として、どのように解釈されていたかを知ることができる。

 この母村では、「移民」をめぐる解釈は大きく二つの社会的文脈に準拠していたと考えられる。一つは明治末から大正にかけて政府主導のもとに全国的に展開された地方改良運動の枠組みであり、もう一つは母村に伝統的に培われてきた習慣や母村にある空間・時間・文化的秩序に沿う枠組みである。

 本報告は、二つの枠組みが登場する背景やそれぞれの枠組みを用いた層、またこの二つの社会的文脈の相違が意味するものについて検討する予定である。この相違は、政府の地方政策や海外移住政策、地域の実情をめぐる問題にも関連し、最終的には明治政府の行った殖産興業政策や近代日本の在り方の一面を照射することにもつながっている。

第5報告

「近現代史」の社会学
――歴史性と社会性のはざまで――

野上 元 (東京大学)

 「歴史」をめぐる、ある種の政治的な立場からすれば、「すべての歴史は政治的だ。政治的でない歴史があるだろうか」「現在のわたしたちが、現在にとって意味のある過去をどうやって構成し、それを共有の記憶とし、かつそれを伝達していくかという課題こそが重要である」(上野[1997])という言い方も可能ではあろう。歴史は「過去」という「他者」を表象するものであり、その表象の仕方には多分に政治性がはらまれているというわけだ。

 こうした立場は、昨今でいえば「カルチュラルスタディーズ」や「構築主義」として分類されている。歴史記述に対しては、その単純なる「実証」や「客観主義」を批判しようとしたところに意義があったといえよう。だが一方で、「総ては創造・構築されたものだ」といったところで、それは「歴史性」について何かを語ったことになるのだろうか?

 そうした「構築」を許す認識の物理的条件(資料の存在可能性など)、言説の作動条件(「歴史家と当事者性」など)こそ、明らかにしなければならないことなのではないだろうか?

 ここで私は、とりわけ「近現代史」を題材としながら、これを「当事者性」や「歴史資料と歴史記述」といった問題と関わる言説の運動としてとらえることのできる、社会学的な現象として考えることにしようと思う。(参考:拙論「言説としての『近現代史』」(『東京大学社会情報研究所紀要』第54号、1997年)

報告概要

米村 千代 (千葉大学)

 第6部会では、(1)加藤裕治:下層社会ルポルタージュの「まなざし」−松原岩五郎の下層社会ルポルタージュとジャーナリズムの「想像力」、(2)中森広道:関東大震災と狭域情報、(3)船戸修一:昭和期日本ナショナリズムの一試論−戦前と戦後の「共通性」、 (4)武田尚子:「移民」をめぐる言説−大正年間の地方改良運動との関連から−、(5)野上元:「近現代史」の社会学、の5報告があった。第一報告は、明治20年代に現れる下層社会のルポルタージュの表現形式、言説において、「事実」を記述する際に「文学」の記述形式が混在していることをふまえ、ジャーナリズムの「情報」がそもそも「物語」化の力を媒介にしなければ成立しなかったことを指摘する。第二報告は、神奈川県足柄下郡土肥村(現:湯河原町)で震災後約一ヶ月間発行された『村の新聞』の分析から、災害時における狭域情報の機能、役割、広域情報メディアとの情報格差を分析したもので、記事内容の丁寧な分類、整理をふまえた上で、狭域情報が今日の災害時にも持つであろう重要性が示唆された。第三報告は、これまで戦前のナショナリズムが「超国家主義」と位置づけられ、「戦後民主主義の正当性」との対比でのみとらえられてきたことを批判的にふまえ、「国民主義としてのナショナリズム」の視点から戦後との共通性を指摘するものである。続く第四報告は、明治後期より戦前にかけての広島県沼隈郡田島村 (現:内海町)の漁民を対象として、マニラへの移民送出に際しての準拠枠の二重性(国家側からの働きかけとしての地方改良運動と地元の歴史的、伝統的意味づけ)があったこと、さらに人々にとっては後者、つまり地域としてのアイデンティティの独自性が重要な意味を持っていたことを指摘するものであった。先の4人の報告が、具体的な事例−とくに言説−を分析する報告であったのに対し、最終報告は、近現代という時代を考察するための方法を検討するものであり、「近現代史」を「社会学する」と同時に、近現代を「社会学」的に考察する困難さと可能性についても示唆された。

 本部会での5報告は、方法の検討、特定の地域、領域などの個別性は持っていたが、明治期以降の日本における全体と地方の接続と断絶、メディアの形成過程、「語り」を分析する(言説分析の)可能性、戦後社会への連続性、現代社会の問題への照射といった共通する関心もうかがえた。質疑の内容は、地域の特性、データの代表性、主張と史料との整合性等、歴史社会学の可能性をめぐる刺激的なものであった。今後も、歴史社会学的な研究が史料や言説の披露のみにとどまることなく、なおかつ、方法論の提示のみにとどまることもなく展開していくために、厳格でありながらも刺激的な議論が重ねられていく必要性を痛感する。本部会がそのような発展のきっかけの一つとなったことを願ってやまない。

▲このページのトップへ