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年次大会
大会報告:第46回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第8部会)

 第8部会  6/14 9:45〜12:45 [3号館318教室]

司会:吉瀬 雄一 (関東学院大学)
1. コメ、国家、グローバリゼーション 細川 甚孝 (上智大学)
2. 多国籍企業ネットワークとテクノロジーの相互構築
――遺伝子組み替え作物を事例として――
大塚 善樹 (筑波大学)
3. 「境界」確定の過程
──アメリカ施政下における沖縄の「日本化」──
猿谷 弘江 (上智大学)
4. 日本(人)論としての公民科:高等学校「現代社会」を中心に ましこ ひでのり (法政大学)
5. 自然の時間とグローバルな時間
――A.ギデンズの時間〜空間論的再考――
小川 葉子 (慶應義塾大学)

報告概要 吉瀬 雄一 (関東学院大学)
第1報告

コメ、国家、グローバリゼーション

細川 甚孝 (上智大学)

 世界史的な視点から、1990年代での「日本」におけるコメと多国籍企業とそれらを取り巻く環境との関係を明らかにする。

 動機として、食糧の流れを中心とした社会構造の変化を、私は把握したい。世界的な社会構造の中で、食料は二つの特別な意味を持っている、といわれている。 (1) 資本主義的生産様式の中で、賃金労働者化と食料/食糧の商品化は密接結びついている。(2) 諸国民国家での国民の生存と人々の間での交換に、食糧/食料市場の拡大は大きな影響を及ぼした。

 それゆえ、19世紀以降の世界的な資本蓄積の動きの中で、第二次世界大戦後の国際食糧秩序の構築は特別な流れを占めた。資本主義的工業化の流れの本質的な役割を、世界的な食糧供給の商業関係の拡大は果たした。このような流れの中で、コメは余り研究されていていない領域である。そこで、方法として、世界的な社会構造の中で、1990年代のコメを取り巻く環境を把握するために、 生産・流通・消費といった商品化の流れの中で、どのような諸集団が影響を及ぼしているかを、時系列的に調べていく。

 結論として、より、コメに関して、多国籍企業が 商品化の流れのそれぞれの過程において影響を強めている。そして、それを取り巻く制度への影響を強めているといえる。また、これらの関係が、第三次世界食糧体制(Food Regime)でのコメの特徴を形成しているといえる。

第2報告

多国籍企業ネットワークとテクノロジーの相互構築
――遺伝子組み替え作物を事例として――

大塚 善樹 (筑波大学)

 テクノロジーは社会的構築物である。と同時に、テクノロジーは、自然物や人工物に関する道具的な知識として現われる物的事象のネットワークでもある。安定化した物的事象は、テクノロジーを構築する社会関係の再構築に影響を与え得る。現代の「情報資本主義」社会では、この相互的な過程は知識の商品化によって媒介される場合がますます多くなってきている、と報告者は考える。すなわち、技術革新はそれまで関連のなかった物的事象を結び付けることによって起こるが、それは物的事象の生成に関与する諸主体を結び付ける過程でもある。そして、これらの結合は、物をめぐって諸主体が生産する道具的知識が、商品として交換可能になることによって活発化する。この前提の下で、知的所有権とその流通システムは、技術革新と研究開発ネットワークを増大させることを期待されて制度化されてきた。本報告では、近年その知的所有権が確立された遺伝子組み替え作物を事例として、そのテクノロジーにおける物的事象と主要な研究開発者である多国籍企業間および内部のネットワークの形成との関係について検討する。そして、現在の遺伝子組み替え作物の特徴やそのテクノロジーの多国籍企業による実質的な独占において、遺伝子や生物体などの物的事象の構成や知的所有権システムがどのような役割をはたしているかについて論じる。

第3報告

「境界」確定の過程
──アメリカ施政下における沖縄の「日本化」──

猿谷 弘江 (上智大学)

 戦後に焦点て、沖縄が「日本化」した経緯を探るこれまでの研究は数少ない。本報告は、アメリカ施政下における、日本復帰運動の主力であった沖縄の教師たちの指導実践を検討し、その背景について考察することによって、これまで指摘されてこなかった沖縄が日本に「同化」した文脈を明らかにすることを目的とする。

 アメリカ施政下において、アメリカ側は、沖縄に「琉球人」としての教育を推進することを試みる。しかし、沖縄の教師たちは、アメリカ側の「琉球人」としての教育、あるいは「対米協調」を意図する教育カリキュラムや教育関連法案に反対し、具体的には「標準語励行」や「国民教育」などを通じて、「日本人としての教育」を実践していく。こうした沖縄の教師たちの「日本志向」の背景には、アメリカ施政下にあって、自分たちが「日本人かどうか分からない」児童・生徒たちに対する危機感を見取ることができる。

 本報告では、当時の実践指導が掲載されている資料を読み解きながら、沖縄の教師たちによって「境界」が操作的に確定されていく過程を、境界主義(boundary approach)に関する議論に依拠して明らかにする。

第4報告

日本(人)論としての公民科:高等学校「現代社会」を中心に

ましこ ひでのり (法政大学)

 すでに,(1) 公教育/受験用のテキスト類/参考書類が日本(人)論としての性格をはらんでおり,(2) なかでも検定教科書は事実上の強制的消費を同一年齢集団にしいる装置として機能していること,(3) しかもそれは生徒集団=マスが咀嚼できるよう,記述水準が厳密性をかく構造(=大衆消費財)にあることを指摘した[ましこ 1997]。とりわけ国語教科書と日本史教科書は,国民国家の時間的=空間的な連続性=同一性イメージを「かくされたカリキュラム」としておしつけるイデオロギー装置ということができる。こうした再生産構造に執筆者や関係者のおおくは無自覚である。おおくの教科書批判や文部省検定批判がこのことにふれないばかりか,「日本通史」「国語史」の実体視=イデオロギー性を批判する論者や,日本(人)論の知識社会学を展開する論者さえ無関心だという現実がある。

 本報告では,準義務教育化した高等学校の社会科学系の科目のなかで大半の生徒が履修する「現代社会」教科書の記述を具体的に分析することで,「国語」「日本史」テキストがはたしてきた日本(人)論としての機能とはことなった要素をうきぼりにするとともに,国民国家のイデオロギー装置として通底する性格を提示したいとおもう。

 参考文献:ましこ・ひでのり『イデオロギーとしての「日本」』(三元社1997年)

第5報告

自然の時間とグローバルな時間
――A.ギデンズの時間〜空間論的再考――

小川 葉子 (慶應義塾大学)

 きわめて単純化していうならば、近年のカルチュラル・スタディーズが描く社会と人間のイメージとは、グローバルとローカルが交差する場におけるディアスポラということになるだろう。さらに、そこでは「時間〜空間」におけるネゴシエーション、あるいは、「時間―空間」そのものの交渉が重要な媒介となっていることはいうまでもない。だが、それらの課題が語られるとき、政治的なマニフェストの論調や言説上の主体構築があまりに強調されると、「時間 空間」は、しばしば単なるレトリックと化してしまう危険性も否めない。他方、ここにひそむもうひとつの問題点とは、「自然」を、「文化」との対抗関係においてのみとらえる視点である。すなわち、文明/野蛮の進歩図式か、あるいはアーティフィシャル/ナチュラルといった認識論的な差異の次元に、「自然」についての議論は押しやられてしまうのである。

 こういった把握に基づき、本発表では、社会理論がうえに述べた問題意識に対し、どの程度、豊穣な視点を提供できるのか、試論をおこないたい。すなわち、グローバライゼーションのなかで変容する「時間」「空間」「時間 空間」をみたのち、とりわけ再生産論の観点から「時間」と「自然」との接点がどのように概念化できるのか、その可能性を探りたい。具体的には、次の2点を論ずることになる。1)10年以上も前になされたA.ギデンズの時間〜空間論をいま一度、グローバライゼーションの議論のなかで再検討し、補完・修正されるべき点を探る。2)「歴史とアイデンティティ」といった次元に回収できない、時間と自然と生の関わりについて、萌芽的ではあるが具体的な研究の方向性を提示する。そういった作業によって、現在、対話がすすみつつあるカルチュラル・スタディーズと社会理論の双方から、グローバライゼーション研究へと接近する可能性を模索したい。

報告概要

吉瀬 雄一 (関東学院大学)

 自由報告部会の第8部会は、各々の報告が、それぞれの独自性を保ちながらも、それを同時代性、あるいは全体性へと繋げる作業を内包していたことから、さながら「テーマ部会」の様相を呈した。そこで照射されたのは、近年、社会学に限らず広範な領域で着目されているグローバリゼーション、ローカライゼーション、あるいは国民国家といった問題群であった。各々の報告を見ていくことにしよう。

 まず細川報告「コメ、国家、グローバリゼーション」は、1990年代以降におけるコメビジネスがアジア的特性を超えて進展しつつあることを商品化システム分析によって解明する必要があるとした。次の大塚報告「多国籍企業ネットワークとテクノロジーの相互構築」は、遺伝子組み替えをキーコンセプトに置き、知の組織化と研究組織間のネットワークとが知的所有権システムを媒介として相互に働きかけあうプロセスを、共−カテゴリー分析によって明らかにした。両報告はともに、グローバルなビジネスの成立や人・情報の移動を浮き彫りにしており、これまで所与とされてきた国民国家の枠組みが揺らぎつつあることが改めて確認されることになった。

 3番目の小川報告「自然の時間とグローバルな時間」は、ギデンズの時空論を認めつつも、ひとつの地球という楽観的な意味合いをもったグローバライゼーションということばに潜むもうひとつの意味を、アグリビジネスを支える19世紀以来の諸言説に求めた。小川報告は本部会の各報告に対するひとつの理論的パースペクティブを与えるものであったといってよい。

 さらに、猿谷報告「「境界」確定の過程」は、アメリカ施政下における沖縄をとりあげ、教育史関連の文献サーベイに基づいて沖縄人たちの日本化の足跡を辿った。また、5番目のましこ報告「日本人論としての公民科」は、高等学校の公民科の教科書に対する批判を通して、そこで無自覚に作り出されている日本人像に疑問を呈した。両報告に通底するのは、国民国家のイデオロギー装置の潜在的正機能が日常生活の中に息づいていたことを鮮やかに示したところにある。

 なお、報告終了後も活発な議論が続いたが、このことは、本部会で取り上げられた問題群が今後も関東社会学会の中心的なテーマのひとつとして追究されるべきものであることを指し示しているといえよう。

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