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年次大会
大会報告:第47回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第10部会)

 第10部会  6/13 11:00〜13:00 [114教室]

司会:大庭 絵里 (神奈川大学)
1. ゲイ・アイデンティティ論 序説 風間 孝 (動くゲイとレズビアンの会)
2. ビ・カミング・アウトという「主体」の投企
−ゲイ・スタディーズの位置性、あるいは介入という批判力−
松村 竜也 (東京大学)
3. 少女文化の変容と少女期の意味 岩井 阿礼 (淑徳大学)
4. ミドルクラス家族におけるジェンダー格差 大槻 奈巳 (上智大学)

報告概要 大庭 絵里 (神奈川大学)
第1報告

ゲイ・アイデンティティ論 序説

風間 孝 (動くゲイとレズビアンの会)

 アイデンティティの政治は、本質主義と同一視され、言説によって構成されたフィクンョンを実体化しているとして、批判にさらされてきた。そしてその批判は、セクシュアリティ研究においても、学問の領域において同性愛者の可視性を目指すレズビアン/ゲイ・スタディーズ、およびこれまで可視性と正統性を剥奪されてきた同性愛者がおこなう政治実践に対しても向けられている。すなわち、異性愛/同性愛のニ項対立を前提として語ること(本質主義)は、差別的な関係性を再生産することになるというものである。しかし、こうした批判に対しては、同性愛者という主体/ アイデンティティを脱構築するーー抹消することーーは、抵抗の基盤を失わせることで、ホモフォビアの延命に力を貸すことになりかねないという批判がある。

 一方で、同性愛者は、異性愛者として振る舞うことを要求される公的領域と同性愛者であることを隠しつつ異性愛主義を支えるように枠づけられた私的領域の前に引き裂かれた状況に置かれている。

 本報告では、アイデンティティをアイデンティフィケーンョンの作業の結果として解釈することで、静態的なものから動態的なものとしてとらえなおしたい。そのうえで、同性愛者の主体/アイデンティティを「引き受け」ることの政治的可能性を、として機能することを提示したい。

第2報告

ビ・カミング・アウトという「主体」の投企
−ゲイ・スタディーズの位置性、あるいは介入という批判力−

松村 竜也 (東京大学)

 私は本報告において、ゲイ男性の「主体」について論じることを起点に、言説とセクシュアリティ、発話と行為体との関係について論じる。具体的には、ゲイ男性の「主体化」の過程を、その発話に焦点を当て、主体と発話との関係を自ら「ゲイ男性」として構築される地点から論じ、その実践の意義を再記述する試みである。第一にそれは、異性愛主義の中で、異性愛以外の「主体」を主張していくこととはどういうことなのか、異性愛以外の主体を提示することで異性愛主義を撹乱することは可能なのか、逆にそれが異性愛主義によって奪取される危険を持つものならば、ではいかなる「主体」の可能性があるのかという問いに、「ゲイ男性」として行為遂行的に構築される位置性から答えようとするものである。

 本報告では、主体を、発話によって行為遂行的に現象する行為体(agency)として捉える。近年、セクシュアリティ論やゲイ・スタディーズでは、その批判的論考も含め、アイデンティティの議論が積極的に展開されるが、「アイデンティティを自律的に操作し得る君主的主体」を再度措定してしまう罠に抗しようとするならば、社会学における「アイデンティティ」が(外在的)記述概念であること、当該主体にとって名称としてのそれは、言説に埋め込まれた記号であることを確認し、主体の発話における交渉の過程と政治を分析する必要がある。発話における記号の差異化を考慮に入れれば、「当事者」という言葉が本質主義と混同される隘路そのものの対象化も可能である。その意味で私は、本報告の第二の企図として、位置性(positionalities)の政治が言説と発話に埋め込まれており、流動的である「にもかかわらず」、その言説が、既に異性愛主義によって分節化されている事態を明らかにしたい。

第3報告

少女文化の変容と少女期の意味

岩井 阿礼 (淑徳大学)

 1920年代、少女小説等の少女を担い手とする「幻想共同体(本田, 1995)」において、「少女文化」は花開いた。そこでの「少女」とは、「大人」の汚れをもたないという「子供」特有の清浄さと、「女」特有のか弱さ、たおやかさを託された記号である。「少女」は、優しさやか弱さ、たおやかさといった社会や男性の期待する女性役割の一部を素直に反映しているようで、逆に、それらを誇張することによる「力の世界(男性性)」の拒否へとつながる経路をもっており、それ故、男性や成人女性は、それらに軽蔑的な態度をとらざるを得ないこともあった。

 しかし、特に70年代以来「少女文化」は大きく変化しはじめた。少女達のフィールドは、戦前の少女小説、宝塚歌劇団から、少女マンガ、女子プロレスなどにも広がっていった。それらは互いに緩やかな影響関係をもちながら、少女文化の内容を次第に変化させた。そして、それに伴い、記号としての「少女」の意味や、現実に肉体として存在する少女にとっての少女期の意味にも変容がもたらされ、さらに、フェミニズムと微妙に連携しながら性役割の変化にもつながっていったのである。

 報告では、初期の少女文化が拒否した「力」と「性」が、非常に微妙なやり方で取り入れられ、「少女」文化の担い手に成人女性や男性までが入り込み、少女期の意味が変化してゆく過程を描き出したい。

第4報告

ミドルクラス家族におけるジェンダー格差

大槻 奈巳 (上智大学)

 本報告の目的は、新たなミドルクラスの出現とそれに伴うジェンダー格差について、日本のミドルクラス家族の夫と妻を対象に、ジェンダー格差の現状を個人のもつ「資産」から検討し、女性が「資産」を個人と してもちえなかった過程を職場モデルと家族責任モデルから考察し、その要因を探ることである。

 クロンプトンは、1980年代にイギリスで新たに勃興していたミドルクラスとしてのサービスクラスの分析において、サービスクラスであるのは男性であり、男性は職場では下位ホワイトカラーの女性労働者によって、家庭では妻の性別役割分業による貢献によって、その地位を得ていると指摘した(Crompton ,1990,Gendered job and social change)。本報告では、第一に、クロンプトンの男性労働市場における資源の獲得が、「職場における女性の存在によって影響される」、「家庭内における分業によって影響をうける」、との指摘から、(1) 女性の非就労の選択における職場・職務からの要因はなにか(女性労働への職場モデルの適用)、 (2) 妻の非就労は夫の労働市場における資源の獲得に貢献しているのか(男性労働への家族モデルの適用)、の2点から考察し、家族モデルと職場モデルの接合を探る。第二に、クロンプトンはサービスクラスを対象に議論しながらも、サービスクラスを規定する「資産」−「組織資産」「所有資産」「文化資産」から議論していないが、本報告ではこれら3つの「資産」から考察し、家族の構成員である夫と妻を個人単位としてみた場合の夫と妻の間のジェンダ―格差について考察する。

報告概要

大庭 絵里 (神奈川大学)

 本部会の第一報告者、風間孝さん(動くゲイとレズビアンの会)は、「ゲイ・アイデンティティ論序説」というテーマのもとに、「法の前」と「法以前」という概念を用いることにより、異性愛と同性愛が恣意的に区分され、かつ階層的に序列化されていることを論じた。さらに、同性愛は同性愛者としてのアイデンティティを引き受けつつも、同性愛と異性愛の恣意的区分けを行う権力関係に抵抗する実践の重要性について主張した。

 第二報告者の松村竜也さん(東京大学)は、「ビ・カミング・アウトという『主体』の投企:言説とセクシュアリティ、ゲイ・スタディーズの視点から」と題して、まず、「行為体」という概念を導入し、異性愛主義社会におけるゲイ男性の「主体」の主張の困難性と可能性について論じた。ゲイ男性の生存/発話可能性は「他者承認」に基づいた相互関係を必要とする。ビ・カミング・アウト(何者かになっていくこと)という発話(=主体の生成・変化)は、ジェンダーとセクシュアリティによって分節化された他者との関係性において投企され、強制・異性愛化自体が差異化され得る、と松村さんは論じた。

 第三報告者の岩井阿礼さん(淑徳大学)は、「少女文化の変容と少女期の意味」というテーマで、「少女文化」の歴史を追い、その内容の変容について報告した。1970年代以降、「少女」の時間はモラトリアムとして機能しはじめ、肉体的「力」をイメージ的経験として得るようになった、と結論づけた。

 最終報告者の大槻奈己さん(上智大学)は、「ミドルクラス家族におけるジェンダー格差」というテーマのもとで、日本のミドルクラス夫婦においては、妻は「資産」(組織資産、所有資産)を個人として所有していないが、その夫はそれらを所有するという格差があることを指摘した。その背景として、職業領域では女性(妻)が資産を持ちにくく、夫が妻の貢献により組織資産を得る一方で、妻は夫の所有資産を得て性別役割分業を遂行していると分析した。

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