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年次大会
大会報告:第44回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会2)

 テーマ部会2 「日常と非日常」 オウム現象にみる宗教と社会
 6/8 14:00〜17:15 [新3号館西347教室]

司会者:嶋根 克己 (専修大学)  藤村 正之 (武蔵大学)
討論者:芳賀 学 (上智大学)  井上 順孝 (國學院大学)

部会趣旨 嶋根 克己 (専修大学)
第1報告: 夢の二重構造・その軌跡 遠藤 知巳 (東京大学)
第2報告: 変成意識を超えて 永沢 哲 (宗教学者)
第3報告: オウム――アイロニカルな没入 大澤 真幸 (千葉大学)

報告概要 嶋根 克己 (専修大学)
部会趣旨

嶋根 克己 (専修大学)

 世界を驚愕させた地下鉄サリン事件から早くも一年以上が過ぎ、オウム真理教をめぐる世間の関心は現在では法廷内の攻防に集まってきているように思われる。しかしわれわれが問題にしようとしている「オウム現象」は、地下鉄サリン事件に始まるわけでも、司法による断罪に終わるわけでもない。オウム真理教とは何だったのか、彼らを生み出したわれわれの社会とは何であるのかという根源的な問い掛けを今後も続けていく必要があるだろう。

 松本サリン事件、地下鉄サリン事件など一連のオウム教団関連事件は、「日常的な」生活や制度に一瞬に亀裂を入れ、「日常」という信憑性構造をいとも簡単に破壊してしまった。しかしこうした「非日常的な」事件や現象についての言説もマスメディアなどを通じて消費され、やがて再び「日常性」のなかに回収されてしまうであろう。またオウム真理教の信者たちも「日常」からの脱出を試みたにも関わらず、教団内部の構造などは現実の社会の延長上にある「日常性」そのものであったのかもしれない。こうした事件・事象をわれわれは広く「オウム現象」としてとらえ、これらを生み出してきた背景を「宗教と社会」という観点から考察していくことにしたい。報告者として次の三名を予定している。遠藤知巳氏にはオウムをめぐる言説という観点からみたオウム現象とわれわれの関係について、永沢哲氏には教義や身体性という観点からみたオウム真理教について、また大澤真幸氏にはオウムという現象を生み出した日本社会(あるいは近代社会)について、それぞれ報告していただければと考えている。また、われわれの社会と宗教が現在置かれている状況について、宗教社会学の立場から芳賀学氏と井上順孝氏にも討論に加わって頂くことにしたい。

第1報告

夢の二重構造・その軌跡

遠藤 知巳 (東京大学)

 一連のオウム真理教事件に関して、「オウムを見ている社会」という視角から分析せよ、というのが、私に与えられた課題である。かかる視角は、オウム教団の実体がどんなものであれ、「われわれ」がオウムという事件に強烈に誘惑されたという事実―それは「オウム」と「われわれ」とのあいだの同型性ではなく、むしろ両者の電位差が引き起こした現象である―に、意味深い社会学的対象を見出そうとする点において、いわゆる「歪んだ鏡」モデルとは潜在的に異なる性能をもちうる。オウムの「実体」を何らかのかたちで同定しようとする言説も、そうした事実性の構成要素となるから、こうした分析の視座は、言説分析(discourse analysis)の一ヴァージョンに、われわれを導くことになる。

 このような発想は、オウム事件が与えた当初の衝撃の感覚に、かなり素直に依拠していると言える。ある時期まで眼前に繰り広げられた不可思議なドラマに、私たちは酔いしれたのだが、そのドラマは「夢の二重構造」として現象していた。奇態な事件を説明(合理化)する試みとそれが不成功に終わる感覚とが無限ループを描いているようなあのもどかしい感じというのは、夢を見ていることを自覚しながらその空間から抜けることができないという、ある種の夢の経験ときわめて似ていた。こうした構造は、それ自体驚くほど稚拙だったり、馬鹿げていたりするオウムの側の物語が、私たちの準備した解釈の物語のつねに一歩先を行ってしまうような構造、あるいは、オウムをあざ笑ったり非難したりする側が、それと気づかずにオウムのロジックを模倣してしまうような構造としても現象していた。

 オウム事件(のディスクール)をこうした角度から眺めたとき、それは、物語の向こうにあると当初信じられた<夢>が、引き伸ばされたかたちで死んでいく過程として描き出されることになろう。だが、現在の<夢>の死後の風景もまた、<夢>自体と同様、奇妙にディスクール=物語の向こう側に落ち込んでしまっているように見える。本報告では、こうした軌跡を追いかけながら、<夢>とその死の意味を考えてみたい。

第2報告

変成意識を超えて

永沢 哲 (宗教学者)

 オウム真理教事件とそれをめぐって生み出されたイメージ、言葉の多くは、変成意識に対するきわめてナイーヴな幻想に彩られている。オウムは、その体験自体を「悟り」と考え、逆にマスメディアの報道の大半は、変成意識と洗脳的マインドコントロールを同一視した。そのような倒錯がどこから生まれたのか、まず、大まかな歴史的サーヴェイを試みる。日本の近代化政策、南北朝以降の世俗化、さらに、シャーマンの周縁性へと遡行し、異なる周期をもつ波の重奏としての現代について考える。さらに、80年代における身体への関心と、90年代におけるドラッグの流行について、その社会的背景について触れたい。

 つぎに、「心理的死」としての変成意識について考える。変成意識は、サイコソマティクな複合体の構造化された緊張パターンの解放と密接に関連している。それを人類は、どのような身体技法によって実現しようとしてきたか? 旧石器時代的なダンスセレモニーから、クンダリニーヨーガまで。神経生理学的な共通性と、その実践がおかれる社会的文脈の変化―共同体的倫理から個人主義化、実存的探究へ―についての人類史的スケッチを描く。さらに、「心理的死」から「再生」のプロセスにおける解釈の問題と、緊張パターンの再構造化と変換=転位について考える。変成意識の体験自体は「悟り」ではない。カタストロフィック−ハルマゲドン的な時間の心理的/生理的意味について。「始まりもなく終りもない」とはどういうことか。さらに、ペインビヘイビアと現代の中毒症について。

 最後に、消費中毒社会と宗教中毒をともに超えていく代案について考える。心身を自在に解放しながら、成熟を深めていく方法はあるか、それを可能にする教育はどんなものか。

第3報告

オウム――アイロニカルな没入

大澤 真幸 (千葉大学)

 評論家の芹沢俊介は、オウム真理教が衆議院選挙に挑戦したとき、なかなかおもしろいことをする教団だと感心したのだという。莫大な資金を使った大がかりな「アイロニー」を評価したのである。ところが、芹沢は、選挙で敗北した直後の麻原彰晃の発言から、彼らが「本気」だったと悟り、この教団への興味をすっかり失ってしまったという。この失望は、「アイロニカルに批判的な距離を取ること」と「本気に没入すること」とは両立しないという前提に立脚している。だが、われわれがこの教団の信者たちの行動に見るべきだったことは、両者は矛盾することなく一つの態度の内に結晶しうるということだったのではないか。さらに、「世代論」的な見地から捉えた場合には、「新人類(アイロニーの意識をもつこと)」と呼ばれた若者の類型の直接の後継者として「オタク(没入すること)」と呼ばれる若者たちが現れたときに、一見対立的なこれら二つの態度の共存や相互移行が予感されていたのではないか。

 オウム真理教徒の世界観や行動に関して、劇画的であるとか、仮想現実(ヴァアチャル・リアリティ)に準拠している等と論評されてきた。要するに、虚構と現実との間の混同が見られると指摘されてきたのだ。仮にこのような認定が正しいとしても、肝心なことは、虚構と現実との等置を導いているのが、今述べたような「アイロニカルな没入」であったと考えなくては、彼らがテロにまで導かれた理由を解明しつくすことはできない、ということである。一方には、虚構をまさに虚構として現実に対して距離化する態度があり、他方には、それを生き抜く没入がある。両者が合することによって、はじめて、ある行為がまったくの「悪」でありうることの覚めた認識をもちつつ、それをあえて実現することが、要するに「金剛乗」の教義に則った無差別テロが可能になるのだ。

 報告では、「アイロニカルな没入」が帰結しうる機制を、資本制が導く社会変容との関係で説明することになるだろう。もちろん、これは、「オウム」を鏡にして、「現代」を映し出す試みの一つである。

報告概要

嶋根 克己 (専修大学)

 オウム真理教の犯罪や教義、それををとりまく社会的言説、そしてオウム真理教を生み出したわれわれの社会、こうした事柄を包括的に「オウム現象」としてとらえておくことにしよう。その上で「オウム現象」を生み出してきた社会的背景を「宗教と社会」という観点から考察していこうとするのが今年度本部会のねらいであった。

 遠藤知巳氏は「夢の二重構造・その軌跡」として、オウム教団が引き起こした事件にまつわる言説の構造分析を試みた。教団や信者への社会の側からの非難や嘲りはオウムの論理の模倣でもあるとされる。つまりオウム教団とそれを生み出した社会には二重構造が存在していることが明らかにされた。永沢哲氏の「変成意識を越えて」では、オウム真理教の修行は「ストレス反応パターン」の視点から分析が可能であることが論じられた。信者たちは変成意識状態を社会からの解放であると理解していたのである。大澤真幸氏は「オウム──アイロニカルな没入」と題して、若者世代を中心とするオウム信者たちの世界観や行動の分析を試みた。彼らには虚構と現実の混同がみられるが、そこには対象との距離をとりながらもそれにのめり込んでいくという特有の行動様式がみられるというのが大澤氏の主張である。

 コメンテーターの芳賀学、井上順孝両氏からも活発な討論がなされたが、新々宗教におけるオウム教団の特殊性は何かという問題提起が両者に共通していた。これは「オウム現象」はそれ固有のアプローチを必要とすると同時に、宗教現象という文脈を無視してはオウムの問題は十分には語りえないという批判を暗に含んでいたと考えられる。オウム現象については今後とも着実に研究成果が蓄積されていくと期待されるが、本部会では現時点での社会学からの問題提起として貴重な一石が投じられたと思われる。

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