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年次大会
大会報告:第44回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会3)

 テーマ部会3 「行為と認識」 社会学者はなぜ理論化するのか
 6/9 14:00〜17:15 [新3号館西338教室]

司会者:椎野 信雄 (文教大学)  西原 和久 (武蔵大学)
討論者:永田 えり子 (東京工業大学)  正村 俊之 (東北大学)

部会趣旨 西原 和久 (武蔵大学)
第1報告: フィールドワークとエスノメソドロジーのあいだ 好井 裕明
(広島修道大学・裁判係争中)
第2報告: CyberSpaceで“いる/行為する”ということ
──frame analysisのre-framing──
安川 一 (一橋大学)
第3報告: 主体と言語の結合と他者について
──ラカン派精神分析の知見から――
樫村 愛子 (東京大学)

報告概要 椎野 信雄 (文教大学)
部会趣旨

西原 和久 (武蔵大学)

 本学会ニュース80号で示したように、この部会では行為論を中心に社会学理論研究の意味を問い直す課題に挑むつもりです。研究例会での議論もふまえて、本大会でのねらいは、おもに次の3点にあると思われます。

 まず第1点は、そもそも社会学理論研究を行う際のモチヴェーションや問題意識を問い直すという点です。この点は各論者によって異なるのは当然でしょうが、それらを突き合わせて社会学理論研究の原認識を論じ合ってみようという試みです。

 第2点目は、一言でいえば理論と現実との関係をどのように考えるか、換言すれば理論研究と現実との関わりを再検討するという点です。それぞれの理論の立場からその理論のアクチュアルな意味を論じ合えればと思います。
第3点目は、そうしたそれぞれの理論の立場(パラダイム)の間での対話を模索するという点です。この部会をそうした対話・対論の機会として捉えたいと考えております。

 こうしたねらいを「社会学者はなぜ理論化するのか」というやや広い設問に含ませて考えていこうと企図しておりますが、もちろん各報告者のパラダイムと異なる視点をとる社会学理論研究者もおられるはずですし、また各報告者のパラダイム内部でも論争があるかとも思われますので、コメンテーターやフロアーからの意見も交えて、この機会に活発な議論がなされることを期待しております。

第1報告

フィールドワークとエスノメソドロジーのあいだ

好井 裕明 (広島修道大学 但し裁判係争中)

 「行為と認識」というテーマ。わたしはこのテーマを「理論的」につきつめてきたつもりもありません。具体的な社会問題というテーマのなかでこれまでささやかながら調査実践を行ってきただけなのです。なぜわたしが報告者の一人なのでしょうか。わたしが何をここで語れるのか、さらに、なにを語りたいのか、という問いにかえてみます。すると、上にあげたような「報告タイトル」が思いうかんできたのです。

 エスノメソドロジーはこれまで社会学に大きな衝撃を与えてきました。多くの研究蓄積は、社会(科)学の言説をまるごと批判するものであったり、秩序、制度、規範等々という問題を再考する新たなトピックを与えるものであったりします。ただ一つ明らかなことがあります。それはエスノメソドロジーが経験的研究だという事実です。エスノメソドロジーに人々の「経験」から遊離した研究などあり得ないのです。そしてわたしにエスノメソドロジーが与える大きな衝撃は、調査をすると言う行為の次元にあります。人々が住まう個々の現実、「生きられた秩序(Lived order)」と出会い、フィールドワークを行います。エスノメソドロジー的な関心で動くとき、人々との相互作用、人々の推論とわたし自身のものとの衝突、すれ違いなどから、まさにフィールドワーク自体のありかたや意味までもつくり変え得る新たな興味深いリソースがわたしの眼前にあらわれてくるのです。そのとき、わたしはエスノメソドロジストであるのでしょうか。エスノメソドロジー的無関心という方法的手続きとフィールドワークをしつつ/そのなかにいる、わたしの存在との関係はどうなっているのでしょうか、等々。当然のことながら、調査をするわたしと当該状況との“絡み合い”をめぐる様々な疑問が次から次へわいてきます。しかし、こうした疑問への明確な回答がすべて、わたしのなかに整理されてあるわけではありません。ただ本報告では、社会問題の社会学という視角から、フィールドワークにおけるエスノメソドロジー的調査実践の意義を具体的なケースをあげながら説明したいと思います。

第2報告

CyberSpaceで“いる/行為する”ということ
──frame analysisのre-framing──

安川 一 (一橋大学)

 本報告は、CyberSpace(電脳空間:コンピュータと通信の技術に支えられ拡充された認知領域)で“行為する”とはどういうことか、を素材にして以下のように展開する。

【目的】(1)CyberSpaceでの「経験」(そのなりたち)をframe analysisの枠組みで記述する。(2)その作業をとおしてframe analysisの枠組みをre-framingする。【問い】CyberSpaceにプラグ・インしている時、私は何をしている(経験している)ことになるのか。もしくは、私はどのようなカラクリにおいてそう経験しているか。

【作業】(1)概論:CyberSpaceという問題構成。CyberSpaceを語る諸言説を概観する。(2)焦点/作業課題:CyberSpaceへのinvolvement(のめり込み)を記述する。それはどのようにして達成されているか。(3)展開1:“私”はどこにいるか。どのようにして“私”でいるか、もしくは何か特異な形の“私”でいるか。(4)展開2:“私”の経験はどのように成り立っているか、どのようにして成り立たせられているか。何か特異な形の経験のなかにいるか。(5)展開3:“私”は相互行為秩序の、もしくは何かその特異な形のなかにいるか。(6)すなわち、そこは“日常”と呼ばれる領分と同等か。もしくは、CyberSpaceを通り抜けた言葉は、“日常”を何か別様に描き出すようになるのか。

 CyberSpaceという、とても一般的とはいえない経験領域をとりあげるのは、それが“新しい”経験であればこそ性格と素性を問いたくなる、また、“What is it that's going on here?”というframe analysisの基本的問いをぶつけたくなるものだから。そして、この作業がframe analysisするという営みそれ自体を、それが立ち上がってきた文脈を切り離したところでトレースし直すことにつながるから。つまり、“the real”と“the virtual”の区別/関係を焦点に私たちのこの3D-worldの在り様を描き出す枠組みとして。

第3報告

主体と言語の結合と他者について
──ラカン派精神分析の知見から――

樫村 愛子 (東京大学)

 言語論的転回以降、主体と社会は言語の地平において記述され、また言語そのものが他者(社会)関係によって構成されることが記述されつつある。しかし一方で、方法論的に言語の地平の外に出ることを禁じるため、または、言語と主体の複層的な関係(現在のモデルは恐ろしく単純である)についての理解を欠いているため、このようなアプローチは、言語・主体・他者(社会)の生成原理(それは構成されると同時に隠蔽されてしまっている)に近づくことができず、遂行的に事態を事後記述するのみに留まっている。私は、ラカン派精神分析がこのような言語的地平からこぼれ落ちる者を構造分析することで得た知見をもとに、主体と言語の結合とこれに関与する他者の問題を提示し、現在の多くのモデルの言語観のイデオロギー性(言語と幻想の同一視)を示唆したいと考える。

 社会学には、すでに意味=規範、知=権力とする方法論的枠組みがある。精神分析も、真理は対象関係に支えられた漸進的時間によって可能となったことを示唆するが、それは他者への信頼を担保として偽の否定を抑圧物としてプールすることによるもの(ゆえに分析哲学が想定するような可能世界とは、真偽を決定するための前提ではなく、真偽によってはじめて構成されるプールされる否定物である)であり、このプールによる照応・検証が、眼前の現実から離脱した判断や思考を可能とするためのものである。つまり知や意味がそのまま他者なのではなく、むしろ他者から離脱し、知や意味(現実検証)を可能にするために、他者が存在している。このことは、強迫神経症者が、他者への信頼を欠きそこでいったん現実を留保し検証する待機の時間を奪われているために、現実の不安を操作することができず、思考が現実によって代理されたり、否定されたものがプールされないため対立物が同値化する現象となって現れている。また精神病者が、同様に他者から来る否定を抑圧物としてプールする機能に欠けているため、すべての語結合は何の根拠もないものとなり、それゆえすべてを結合する絶対的妄想を必要とすることによって示唆される。生成にまつわる条件はその後忘却されるため、分析真理の否定は、私たちの幻想を露にする。がそれは、知を弾劾する理由にはならない。意味と知への批判、非難は、むしろ幻想の解体に対する抵抗である。

報告概要

椎野 信雄 (文教大学)

 「行為と認識」部会では、社会学研究の共通の基盤を問い直すという目的意識に基づいて、今年度は「社会学者はなぜ理論化するのか」というテーマの下に、(相互)行為論を中心に社会学理論研究の意味(原認識・理論とアクチュアルな現実/問題の関係・パラダイム間の対話)を根本的に問い直す課題に向けて、3報告がなされた。

 まず、好井裕明氏は「フィールドワークとエスノメソドロジーのあいだ」という題目の下で、社会問題の社会学という視角から、ご自身の「経験」をよりどころに、フィールドワークにおけるエスノメソドロジー的調査実践の意義・問題を指摘、説明した。ついで安川一氏は「CyberSpaceで“いる/行為する”ということ─frame analysisのre-framing─」という題目の下で、CyberSpace(電脳空間:コンピュータと通信の技術に支えられ拡充された認知領域)で“行為”するとはどういうことかを素材に報告した。その目的は、CyberSpaceでの「経験」(そのなりたち)を、frame analysis の枠組みで記述し、frameanalysisの枠組みをre-framingすることであった。次に、樫村愛子氏は「主体と言語の結合と他者について─ラカン派精神分析の知見から─」という題目の下で、主体と言語の結合と、これに関与する他者の問題を提示し、現在の多くのモデルの言語観のイデオロギー性を示唆することを目指した。

 これらの3報告に対して、討論者の永田えり子氏から、エスノメソドロジーに対してはローカルな場の政治性(日本的な場の権力)についての有効性、また「フレーム」分析と経済市場の関連性、樫村ラカン派への評価(肯定的)などが述べられ、もう一方の討論者の正村俊之氏からは、人々の「フレームと対象」と理論的「フレームと対象」の関連に基づき、コメントが述べられた。フロア(80余名)からも、重要な問題提起が多々なされたが、時間の関係で十分に展開することができなかった。特にエスノメソドロジー位置づけについては、今後も議論を続ける必要性があるという課題が残された。

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