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年次大会
大会報告:第48回大会 (報告要旨・報告概要:プレナリー・セッション)

プレナリー・セッション「社会学の方法と対象」  6/10 14:00〜17:15 [1405教室]

司会者:草柳 千早 (大妻女子大学)  鈴木 智之 (法政大学)
討論者:西原 和久 (名古屋大学)  玉野 和志 (東京都立大学)

部会趣旨 草柳 千早 (大妻女子大学)
第1報告: 社会学と言説分析の新しい関係を求めて 内田 隆三 (東京大学)
第2報告: A.シュッツの〈三つの公準〉は破綻しているのか 張江 洋直 (稚内北星学園大学)
第3報告: 常識的知識のフィールドワーク
――伝統文化の保存をめぐる語りを事例として
足立 重和 (愛知教育大学)

報告概要 草柳 千早 (大妻女子大学)
部会趣旨

草柳 千早 (大妻女子大学)

 社会学の方法に対する関心が高まっている。本学会では、98・99年度テーマ部会「質的調査法」が企画され、社会学の方法をめぐるさまざまな問題が提起され議論された。本部会はこの流れを継承して発足し、研究例会を経ていよいよ大会を迎える。

 自らの方法と対象それ自体を問うこと、自らの営みに絶えず反省的なまなざしを注ぎ続けることは、草創期以来の社会学の身上であり宿命であるといっても過言ではないのかもしれない。その意味では、社会学を行う者はいつの時代もこの問いと対峙してきたのかもしれない。ただし、問いの中身は社会の変化と社会学の発展につれて変化する。というよりも、不断に更新されてゆく問いを通じて社会学は発展すると言うべきであろうか。ならば今、私たちが直面しているのは、いかなる問いなのであろうか。それをあらためて問題にし、浮かび上がらせ、共に考える場のひとつとして、本部会を位置づけたい。昨年12月の第1回研究例会での葛山泰央氏(報告時東京大学、現・京都大学)と前田泰樹氏(一橋大学)の報告とその後の議論からも、言説あるいは言語現象への注目とより大きな社会との関連をどう考えるかといった問題が提起されるなど、その一端は浮かび上がってきたように思う(詳しくは学会ニュース前号No.93 研究例会報告を御覧下さい)。大会ではそれを踏まえつつ、さらに議論を深めていきたいと考える。

 報告者は、それぞれ異なる方法的立場から独自のご研究を行っている下記の方々である。3者3様のお立場から報告がなされるはずである。加えて討論者も、報告者に対してまた相互に、異なるアプローチを実践されている方々である。いかなる議論が展開されるかは、彼らと参加者が一同に会したとき明らかになる、否、創り出されることになるだろう。個々の研究対象や立場の違いを超えてぜひご参加下さい。

第1報告

社会学と言説分析の新しい関係を求めて

内田 隆三 (東京大学)

 ある種の階級や階層、土地や血縁、組織や趣味などを通じてできる人間の集合そのものではなく、そうした部分集合をすべてふくむ全体性の次元を発見し、そこに社会の存在を求めるとき、その全体性にかかわる言説として社会学が成立する。個人の存在についても、ある組織や共同体のなかではなく、全体社会という無限定な広がりのなかにある個人という視点を立てるとき、近代的な「個人」の像が結ばれるといえよう。

 このような認識の下地にある、全体性としての社会とは仮想的な現実でしかない。だが、そのためにかえって、その全体性は誰もその外部に立つことを許さず、またどんな視点もその内部に再帰してしまうような超越的な場所であり続けるのである。他方、社会学のほうはそのような全体性をとらえる視点との関連で社会現象を理解しようとする。結局のところ、全体としての社会という仮想がもたらす、このように矛盾した関係が、近代社会学の可能性をひらくと同時に閉ざしもしているのである。

 そこで社会学は自分の認識をたえず相対化することを強いられる。社会学のあらゆる認識に、知識社会学的な反省が影のようにつきまとうわけでが、問題はその反省が実りの少ない相対主義に陥ることである。社会学が言説分析に魅力を感じるのも、自身のこうした不安と関係している。だが、言説分析の試みはしばしば過去の歴史的な言説に適用され、社会学自身はその適用の外部に安置される傾向にある。しかも、言説分析によって明らかにされるべき言説の布置はいつのまにか、その言説を行使する主体の政治学に還元されるのである。

 以上のような経緯を踏まえて、この報告では、社会学が通過しようとして閉じこめられている隘路について考えてみたい。まずは社会学に課せられた全体性の罠をくぐり抜ける工夫が必要だろう。同時に、そのような全体性の不可からくる不安から言説分析を解き放つこと、すなわち言説分析の可能性を社会学の自己言及的な弁明や政治学的な批判の回路から引き離すことが重要だと思われるのである。

第2報告

A.シュッツの〈三つの公準〉は破綻しているのか

張江 洋直 (稚内北星学園大学)

 本報告では、A.シュッツの「人間行為の常識的解釈と科学的解釈」(1953年:『著作集』第1巻所収)を主要テクストとする。その理由は、私たちがシュッツにおける「社会学の方法と対象」を明解にしようとするのであれば、この論考はそのまとまりや長さなどの点で非常にすぐれていると思えるからである。そこにあってシュッツは、社会(科)学の方法論を主題的に呈示し、その基柢的な問いを端的に「主観的な意味構造を客観的知識の体系によって把握することは、いかにして可能であろうか」と語っている。シュッツはそこで、主要には論理実証主義を批判しつつ、社会(科)学の現象学的基礎づけを遂行せんとするのである。そして、すでに周知のように、シュッツが先の問いに答えるものとして呈示するのが、「社会的世界についての科学的モデル構成のための諸公準」、すなわち「論理的一貫性の公準」「主観的解釈の公準」「適合性の公準」という〈三つ公準〉である。

 この〈三つの公準〉は1970年代の終盤あたりからさまざまに論議され、だが1980年代の中盤を境に急速に収束し、そのまま今日ではさして省みられなくなっているようにみえる。そこでは多様な論点がみられたにせよ、この〈三つの公準〉相互の共立不可能性あるいは相互矛盾点に批判が集中した。そうしたなかで、おそらくもっとも影響があったとおもわれるA.ギデンズや山口節郎はともに「適合性の公準」に照準を合わせる仕方で、かなり詳細な批判を展開している。本報告では、そうした批判点に配意しつつも、シュッツが呈示した先の問い、すなわち社会学にとってかなり本源的な問いを共有する仕方でシュッツの「社会学の方法と対象」がどのようなものであるのかを捉えなおし、そこから常識的解釈と科学的解釈、さらに生活世界と科学的世界との関連という問題系をも考察していきたいと思う。

第3報告

常識的知識のフィールドワーク
――伝統文化の保存をめぐる語りを事例として

足立 重和 (愛知教育大学)

 もし社会学が「常識破壊ゲーム」であるならば、社会学的なフィールドワーカーは、何らかの社会学的な関心にもとづいて、自分にとってもある程度自明な、調査対象となる人々の生活に深く浸透している「常識的知識」(=常識知)にどっぷりと浸りながら、そこから「常識知」を対象化するという「脱常識」的な営みをしなければならないことになる。そのために、社会学的フィールドワーカーは、聞き取りや参与観察といった経験を積み重ねるわけだが、その際に一つの実践的な課題をかかえこむことになる。その課題とは、対象となる人々が、自分たちの常識知についてあまりにも自明であるがゆえに語るに値しないと思い込んでいるにもかかわらず、フィールドワーカーは、そのような対象者に対して、自明視された常識知を何らかのかたちで問題化させて、「データ」として記録していかなければならない点である。このとき、フィールドワーカーは、対象者を前にして、自分でも対象化しづらい常識知の探求に固執すると、「変な奴」だとフィールドから排除されかねないし、またフィールドワーク自体もどことなく「恣意的」になる。だが、かといって対象者の「語りにまかせる」と、結果として同じ社会学者からの「そんなこと当たり前だ」という批判をフィールドワーカーはうけてしまう。ではいったいどうすればいいのか。

 常識知を対象化するために、どうもフィールドワーカーには、何らかの工夫が必要なようだ。われわれの生活のなかに深く浸透し、あまりにも自明視されている常識知を思わぬかたちで対象化できたとき、われわれは、「自分自身の文化」をラディカルに問う社会学の途についたことになる。だが、そのような目標を掲げながらも、社会学的なフィールドワーカーは、フィールドから排除されることなく、フィールドワーカーをもふくめた人々の常識知を発見しなければならない。このような実践的課題を乗り越えるフィールドワークは、いかにして可能なのか。そこで、本報告の目的は、報告者自身が既に論文化した、岐阜県郡上郡八幡町の「郡上おどり」の保存・継承をめぐるフィールドワークを事例にして、いかにして報告者はフィールドにおいて常識知を対象化していったのかを明らかにすることにある。そして、このような問いに答えることを通じて、本報告では、常識知を対象化する社会学的なフィールドワークの方法とは何かを具体的に提示してみたい。

報告概要

草柳 千早 (大妻女子大学)

 本セッションは、新企画のプレナリーセッションとして開かれた。社会学はいかに社会的現実を捉え語りうるのかが改めて問われるなかで、この問いに新しく答えんとする試みとその方途について議論することが、ここでの趣旨であった。

 第1報告の内田隆三氏(東京大学・「社会学と言説分析の新しい関係を求めて」)は、近代社会学が、誰もその外部に立つことのない全体性としての社会という仮想を持ち、そうした全体性との関連で社会現象を理解しようとするゆえに、自らの認識に対してたえず知識社会学的な反省と相対化を強いられてきたことを指摘し、そのような社会学の「隘路」をくぐり抜ける道として、言説分析の可能性について論じた。

 第2報告の張江洋直氏(稚内北星学園大学・「A.シュッツの〈三つの公準〉は破綻しているのか」)は、「主観的な意味構造を客観的知識の体系によって把握することは、いかにして可能であろうか」というシュッツの問いとそれに対する回答の試みを、彼の「社会的世界についての科学的モデル構成のための諸公準」をめぐる議論に即して検討した。

 第3報告の足立重和氏(愛知教育大学・「常識的知識のフィールドワーク― 伝統文化の保存をめぐる語りを事例として―」)は、「常識知」を対象化する社会学的フィールドワークのあり方を、「郡上おどり」の保存・継承をめぐる自身のフィールドワークを事例として考察し、自己言及的な記述を通じて、フィールドワーカーが巻き込まれる「常識知のはたらき=書かない者の”ちから”」をも照らし出した。

 討論者の西原和久氏(名古屋大学)からは、内田氏が「意味の水準から遠ざかる」と述べるのに対して、張江・足立両氏においては意味の水準に近づくための方法が模索されているという対比が指摘され、内田氏に対してはその方法がいかなるものであるのか、張江氏には全体性としての社会という対象、足立氏には社会学者の位置、これらをどのように考えるのかが問われた。玉野和志氏(東京都立大学)は実証主義の立場から、3報告の目指すものが伝統的な方法とどのように違うのかを問い、新しい方法がより多くの反省性の上にあるとするなら、重要なのはそのことによっていかなる新たな成果を生み出せるのか、ということではないか、と論じた。

 フロアからの質問も加わり、報告者によるリプライがなされた。最後に司会の鈴木智之氏(法政大学)が、社会学的認識を相対化することに留まる段階は最早過ぎ、その上でいかに社会学を実践していくかが個々人に問われている、と参加者に投げかけた。

 参加者は150名を超え、特に若手の姿が目立った。全体を通じて多様な論点が出されたが、限られた時間の中ではとても消化しきれず、多くは参加者1人1人にそのままお持ち帰りいただくこととなったように思う。継続してさらにテーマを深めていきたいと願っている。

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