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年次大会
大会報告:第50回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会A)

テーマ部会A 「ケアの社会学」  6/2 14:30〜17:45 [社会学部B棟102教室]

司会者:渡辺 雅子 (明治学院大学)  平岡 公一 (お茶の水女子大学)
討論者:庄司 洋子 (立教大学)  加藤 秀一 (明治学院大学)

部会趣旨 池岡 義孝 (早稲田大学)
第1報告: 精神障害者の家族ケアをとらえる視角
−家族社会学研究を中心に−
南山 浩二 (静岡大学)
第2報告: 「ケア」という領域にフィールドワークすること
〜「当事者性」(あるいは「当事者主体」)に対する私の拘泥〜
出口 泰靖
(ホームヘルパー2級(第1419号)・
山梨県立女子短期大学)
第3報告: じつはいまも、未耕の沃野、かもしれない 立岩 真也 (立命館大学)

報告概要 渡辺 雅子 (明治学院大学)
部会趣旨

部会担当: 池岡 義孝 (早稲田大学)

 今日、老年社会学や社会福祉学、家族社会学、社会政策論、医療社会学等々、これまでさまざまな研究領域で別個に行われてきた「介護」、「看護」、「扶養」などの研究が、相互に密接なつながりを求めあい、協力体制をとる方向に歩みだしている。そうした領域横断的な諸研究に対して、「ケアの社会学」というシンボリックな名称を与え、検討しようというのが本テーマ部会の目的である。

 今回の大会に先立つ1月の研究例会では、高齢者および全身性障害者とケアの対象は異なるものの、家族によるケアに綿密なフィールドワークにもとづく質的研究法を用いてアプローチしている点を共有する研究報告をめぐって議論を行った。それをふまえて、今回の大会の部会では、精神障害者、痴呆性高齢者、全身性障害者をめぐる研究に関わっておられる三氏に、それぞれのケアをめぐる問題点を提出してもらい、またそこから共通項として立ち上がってくる問題についても論議を行いたいと考えている。

 南山浩二氏には、精神障害者を対象としたケア、とりわけ精神障害者をかかえる家族の困難性の構造を、家族ストレス論の観点から明らかにしていただき、家族ケアの問題点についても言及してもらう。出口泰靖氏には、綿密なフィールドワークで取り組んでおられる当事者としての痴呆性高齢者にとって「呆ける」ということを問う観点から、痴呆性高齢者のケアにかかわる課題に接近していただく。立岩真也氏には、全身性障害者をめぐるケアの課題を提起していただくとともに、ケアをめぐるさまざまな議論に対して、ケア原論というような観点から、全体の鳥瞰図を提出してもらうことを希望している。さらに、コメンテーターの庄司洋子氏には社会福祉学、政策論の立場から、加藤秀一氏にはジェンダー論の視点から、相互の議論をかみあわせ、活性化させるようなコメントをお願いしてある。参加者の方々とともに、議論の深まりや展望が共有できることを期待したい。

第1報告

精神障害者の家族ケアをとらえる視角
−家族社会学研究を中心に−

南山 浩二 (静岡大学)

 アメリカでは、急激な脱施設化の進展に伴って、多くの精神医療ユーザーの生活環境が精神病院から地域に移り、外来患者プログラムは、力動精神医学的精神療法の理論よりも精神薬理学的処置に依拠するケアマネージメントに重点をおくようになった。アメリカの経験に比して大幅なタイムラグがあったとはいえ、日本においても、現在、同様のシフトが生じている。このような、コミュニティケアへの移行が、一方で、「家族」の「責務の増幅」という側面を有していることをふまえ、「家族」のストレス状況の記述及び規定要因の解明を行ってきたのが、ストレスへの社会学的アプローチに依拠した家族研究である。

 この研究は、家族病因論的まなざしを否定し、ケアの担い手たるよう水路づけられている「家族」を、「生活する主体」「ストレスを受ける主体」として捉えなおすという、「家族」の脱スティグマ化を意図したものでもあった。現在、<障害者→家族>(ケアをめぐり家族が経験するストレス)というベクトルに加え、<家族→障害者>(家族ケアが障害者に与えるインパクト)というベクトルへと射程が広がっており、感情表出(Expressed Emotion)研究などの成果をとりいれながら展開している。

 これまでに、家族ケアの諸相と限界が明確にされてきたとはいえるが、障害者については、「精神症状」「再発」「入院」など、臨床的なメルクマールのみに焦点があてられてきたきらいがある。また、障害当事者による「家族は精神障害者の自立を阻む存在である」とする告発の含意や、「家族」を発想の中心におかない医療福祉施策への今後の転換可能性などについて、どのように研究に反映していくのかということもある。そこで、今回の報告では、家族社会学研究におけるこれまでの研究を整理し、今日的課題を指摘しながら、精神障害者と家族を捉える視角について考えてみることにしたい。

第2報告

「ケア」という領域にフィールドワークすること
〜「当事者性」(あるいは「当事者主体」)に対する私の拘泥〜

出口 泰靖
(ホームヘルパー2級(第1419号)・山梨県立女子短期大学)

 本報告では、今まで私が「痴呆性老人ケア」という領域にフィールドワークすることになってから、身体障害(児)者や知的障害(児)者に対するケアの領域にまで手を広げつつある活動の流れをふりかえり、どのようにフィールドワークしてきているのか記述し紹介しながら、フィールドワークしながらいつも頭をついて離れずに自問自答してきたことを以下の3点に整理して考えてみたい。
 私は、「痴呆性老人ケア」にフィールドワークする中から、「痴呆性老人」と称されてしまう本人の基底的感情をかえりみずにケアされている現状に異和感を感じ、本人における「呆けゆく」体験を汲み取ることに中心的な関心を向けてきた。またそれに加えて、身体障害や知的障害の人たちの自立生活を支援するグループに関与しはじめている。こうした今までの私の動きを見つめ直してみると、「痴呆性老人」に関することであれ、身体障害者や知的障害者に関することであれ、「当時者性」、社会福祉の用語でいうと「当事者(あるいは利用者)主体」というケアのスタンスにこだわって追っかけていることに我ながら気がつかされる。そこでまず、(1)なぜ私は「当事者(あるいは利用者)主体」にこだわってきているのか、そのこだわりの軌跡と最近生じてきた迷いについて自省的考察を試みる。また次に、(2)「呆けゆく」人たちをはじめ身体障害(児)者や知的障害(児)者と関わり、彼らと関わるケア従事者とやりとりしながら、「ケア」という事象にフィールドワークすることはどういうことなのだろうか考えてきたことを整理してみたい。そして、仮にも社会学徒として私が考えつづけていることの3つ目として、(3)「ケア」という領域に社会学が何ができるのか、ということである。そこで最後に、「ケアの社会学」の可能性について考えてみようと思う。

第3報告

じつはいまも、未耕の沃野、かもしれない

立岩 真也 (立命館大学)

 研究者(をしようと思う人)が集まる場であるからには、なにをしたらおもしろい(と私は思う)のかを話した方がよいと思う。私自身の仕事については書いたものを見ていただければよいということもある。話すことはいかにも当然のことでしかない。ただ、それは実際にはあまり行なわれていないから、行なったら「オリジナルな業績」になる。

 一つ、何が起こっているかを知らない。ケアされること、それ以前にケアされることにつながることにもなる障害をもって生きていることについて、知らない。むろんそれを知りうるのかという問いもあるのだが、しかしそんな問いが意味をもつ以前に、なにも知らない。(だから出口泰靖の仕事はとても重要だと思う。私はその論文を読んで、ぼけるという経験がどういう感じのものか、すこしわかったような気がした。)

 もう一つに、何をしたらよいかよくないか。私自身は身体障害の人のことしか調べたり考えたりしたことがなく、その場合には比較的に単純なのだが、それでもいくらも考えないとならないことがある。それが南山浩二の領域である精神障害の人や知的障害の人となるとさらにずっと厄介だ。そうして例えばパターナリズムについて考えてみるなら、最近ようやく社会学でも注目され出した?規範理論、政治哲学、社会倫理学…の基本的な主題に入っていくことになる。そういう理屈っぽい方面に行きたい人は行けばよいし、そうでなくても(少し理屈っぽいことも気にしながら)その辺りが現場でどうなっているのか、いくらでも調べて書くことはあるはずだ。

 もう一つ加えれば、ケアの語られ方について。これについてはフェミニズムの側から等、一定の業績の蓄積もあるから略す、が、しかしこのテーマにしてもほんとうはまだまだ調べて考えることがある、と私は思う。

報告概要

渡辺 雅子 (明治学院大学)

 この部会では、これまでさまざまな分野で行われてきた「介護」「看護」「扶養」などの研究について、「ケアの社会学」という名称のもとに、横断的に検討しようとするものである。

 第一報告の南山浩二氏(静岡大学)は、「精神障害者の家族ケアをとらえる視角―家族社会学研究を中心に―」というテーマで、「生活する主体」、「ストレスを受ける主体」としての家族へ着目した1980年前後までの精神障害者家族研究の成果を検討した上で、家族ケアが障害者に与えるインパクトに注目した近年の新しい研究の流れを紹介し、新たな研究の視角を提示した。第二報告の出口泰靖氏(山梨県立女子短期大学)は、「『ケア』という領域にフィールドワークすること―「当事者性」(あるいは「当事者主体」)に対する私の拘泥―」と題して、実践的に痴呆性高齢者のケアにかかわりつつフィールドワークを行ってきた経験に基づいて、痴呆性高齢者当事者にとっての「呆けゆく」体験を汲み取っていく作業のもつ意味について論じ、それを踏まえて「ケアの社会学」の可能性について、理論と調査方法論の双方の観点から検討した。第三報告の立岩真也氏(立命館大学)は、「じつはいまも、未耕の沃野、かもしれない」と題して、とくに出口氏の研究に言及しながら、ケアの分野には研究の観点からみて手がつけられていないこと、知られていないことが多々あり、まさに未耕の沃野であるとして、大学院生にこの分野の研究への取り組みを呼びかけた。

 コメンテーターの庄司洋子氏(立教大学)は、ケアという概念、ケアの本質はどこにあるのか、当事者主体をどうとらえるか、という質問をなげかけ、痴呆性高齢者に対する言説をつくるに際して決定的な役割を果たした、有吉佐和子の小説『恍惚の人』の功罪について言及した。また家族ケアと福祉政策についてコメントがあった。加藤秀一氏(明治学院大学)は、対象に内在しているジェンダーのカテゴリーにセンシティブになることを指摘した。

 いずれも熱のこもった報告であり、ケアをめぐる社会学的問題群の存在の指摘と議論が行われた。ケアの社会学は、研究の対象や障害の種類で、原論から政策論、運動論などさまざまなアプローチがあり、ひとつの新たな問題領域であることが確認された。

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