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年次大会
大会報告:第39回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第2部会)

 第2部会  6/16 10:00〜12:30 [5102号室]

司会:西原 和久 (群馬大学)
1. 主観なき主体の回復
――ブルデューの主・客観折衷主義批判――
鎌田 勇
2. 音の社会学の射程と地平 山岸 美穂 (慶應義塾大学)
3. M.ウェーバーと現象学
――ウェーバーの理解社会学とシュッツ=パーソンズ往復書簡との関係を考慮にいれて――
宇都宮 京子 (お茶の水女子大学)
4. 身体と共同体 江川 茂
(茨城県立コロニーあすなろ)

報告概要 西原 和久 (群馬大学)
第1報告

主観なき主体の回復
――ブルデューの主・客観折衷主義批判――

鎌田 勇

 ブルデューは「実践(pratique, Praxis)」を理論化することで客観主義の枠内に主体の契機を回復しようとする。本報告は、ブルデューの意図と基本的理論の枠組みを検討すると共に、そこに於ける問題の所在を明らかにする事を目的とする。

 ブルデューによるならば、主観と客観は循環関係にある。客観主義者は対象認識に働く彼ら自身の主観性を無視している。この循環性をつなぐもの、それがPraxisの理論だというのである。ブルデューはPraxisを生み出す、構造化されたそして構造化する構造としての、「ハビトゥス(habitus)」を措定する。ハビトゥスは歴史・文化のmatrixが主体の身体へと内在化された、認知的・動機づけの構造である。この個人の内にあって個人を越えるハビトゥスにより構造が再生産されるという。

 ブルデューのPraxis理論は、しかし、一方で、主観と呼ばれている主体の内的過程と客観的構造の二極在立を定式化しつつ、他方、主観、すなわち意志決定・判断といったものを、内在化された客観構造であるハビトゥスの産物とする事で客観化しているのである。つまり、主観とは客観的構造の副産物でしかないという従来の客観主義の枠組みに留まっている。ハビトゥスの概念は、客観的過程に主体を取り込もうとしhumanismを標傍した客観主義者が、客観的構造を主体に内化する媒介として措定した「性格」を言い替えたものである。ブルデューの「主体」は基本的に「過去の人間」でしかなく、更にまた、主体と客観の二元論の維持の表明である。行為あるいは理解を過去、現在、未来の時熟する場として捉える現象学そして解釈学を越えるものではない。

第2報告

音の社会学の射程と地平

山岸 美穂 (慶應義塾大学)

 人間にとって音とはいったい何なのだろう。生活のなかで、音はどのような意味をもっているのだろうか。

 私たちが生きている世界はさまざまな音で満ちている。聞こえる音、聞こえない音、過去の音、未来の音%%%、さまざまな音が私たちの世界を包み込んでいる。人間はただ音を耳にするだけではなく、さまざまな音をつくりだしてきた。音のない生活など、考えることができない、といえるだろう。

 さて、私たちは日々、それらの音に何を感じながら生きているのだろうか。生きているなかで、それらの音とどのようなメッセージを交わしているのだろう。

 私は、「音」に焦点を当てることにより、人間が生きている姿をできるだけ深くみていきたい、と考えている。人々の音体験をクローズアップさせることにより、時代の諸層、社会の諸層を描いていこう、というのが私の考えている社会学なのである。
            ・・・・・
 日常生活論としての「音の社会学」、私は自らの社会学をこう名づけたい。音および音風景に焦点を当てながら、人々がいかに生きてきたのか、生きているのか、ということを考えていきたいと思うのである。

 本報告においては、この「音の社会学」の射程と地平を明らかにしたい。なぜ「音の社会学」なのか、音楽社会学と音の社会学とはいかなる関係にあるのか、先行業績にはいかなるものがあるのか%%%、 こうしたことをのべながら、<音楽>も<騒音>も含み込んだ音の世界の多様な広がりと深みを社会学の対象とすることの意味を語りたいと思う。

 具体的な事例を多く用いながら報告を進めたい。特に報告の後半においては、音の視点から私たちが生きているこの時代の様相にアプローチしたいと思う。

第3報告

M.ウェーバーと現象学
――ウェーバーの理解社会学とシュッツ=パーソンズ往復書簡との関係を考慮にいれて――

宇都宮 京子 (お茶の水女子大学)

 従来、ウェーバーの理解社会学は、様々な他の思想家達との関係で扱われてきた。しかし、ウェーバーと現象学との関係は扱われたとしても消極的にであるか、あるいは、むしろ、パーソンズのようにはっきりとその結びつきを否定した学者もいた。シュッツは、ウェーバーの理解社会学を後期の現象学に結び付けて説明したが、ウェーバー自身が直接現象学的な見地をとっていたとはみなしていなかった。そして、シュッツとパーソンズ間で交わされた往復書簡は、この二人の思想家がともにウェーバーの社会学との深い結びつきを自認していたにもかかわらず、その論旨がほとんどかみ合わず不毛の結果に終わったことは周知のことである。私はその理論の行き違いの原因の一つに、この両者がウェーバーと現象学との関係を考慮に入れていなかったことがあげられるのではないかと考えている。今報告ではそのことを根拠を挙げつつ明らかにしたいと思っている。そしてその際同時に、ウェーバー社会学の方法論における「客観的可能性の範疇」の占める位置の重要さと、この概念がなぜ現象学と関係があるのかも明確にするつもりである。

第4報告

身体と共同体

江川 茂 (茨城県立コロニーあすなろ)

 エーテルは、唯の透明でなく層が内在化している。心的現象のエーテル(透明体)は層化している。 層は、構造化、機能化され何らかの力によって動いている。エーテルの表象も深層も層化の一基準である。エーテルは感覚や知識を吸収して成立している。心的現象としてのエーテルは、互いに引き合ったり衝突している。村瀬学氏の包み込むという説に似ている。共同体のなかでエーテルは、引き合ったり、衝突したり渦巻いたりしている。

 仮象論とは、他者が自己化する。自己のエーテルの層化の中に他者のエーテルが層化されるのではなかろうか。エーテルが層化するのは、自己と他者の衝突したエーテルのエネルギーが自己が他者に入り込むのである。エーテルの中心に行く程心的現象は重力が大きくなり他者のエーテルが入りにくくなる。人の精神は空気のようなものである。エーテルという空気に始まってエーテルという空気で終わる。人が死ぬというのは、このエーテルの重力が崩壊するのである。エーテル同志が衝突すると人々の心的現象は奇妙な形に変化する。エーテルの中には電波を発するものがある。それは呪術師や祈祷師のようにエーテルが読めるのである。死んだ人のエーテルも読めるのはこのことではなかろうか。

 共同体の存立構造とは、心的現象かつエーテルの蓄積なのである。身体と共同体は、あくまでも私の仮説です。心的現象が奇妙な形に変化すると登校拒否や出社拒否や障害が起こると思われる。

報告概要

西原 和久 (群馬大学)

この部会は、おもに社会学の理論を中心にして以下の報告と質疑応答がなされた(以下の記述は当日の報告順)。

第一報告では山岸美穂氏(慶應義塾大学)が、「音の社会学の射程と地平」という論題で、様々な先行業績への言及と多様な事例を示しながら、「音楽社会学から音の社会学へ」の構想を展開した。日常生活論として「できごととしての<音楽>を捉える<音の社会学>へ」という報告者の視点は、比較文化論や現代社会論としてのみならず、文化それ自体や共同性をめぐる論点としてもたいへん興味深く、活発な質疑応答もなされた。

第二報告では宇都宮京子氏(お茶の水女子大学)が、「M.ウェーバーと現象学」という論題で、主観的見地をめぐるシュッツ/パーソンズ論争を踏まえたうえで、おもに「ロッシャーとクニ−ス」や「理解社会学の若干の範疇」におけるウェーバーと初期フッサール現象学との関係が論じられた。ウェーバーの客観的意味、客観的可能性の範疇などの概念が初期現象学の影響を受けているという報告者の○密な議論は、返す刀で主観的見地をめぐるウェーバー、シュッツ、パーソンズの間に差異をも整序することになり、これまたたいへん興味深く思われた。

第三報告では鎌田勇氏が、「主観なき主体の回復―ブルデューの主・客観折衷主義批判」という論題で、ハビタス概念を中心に、ブルデュー実践理論の問題点を、おもにメルロ=ポンティ、サルトル、ガダマーといった現象学・解釈学の立場から批判的に考察した。批判のおもな論点は、ブルデューの「主観」概念が客観主義の枠組みに留まっているという点と、主・客の形而上学的二元論への批判を彼が欠いているという点に向けられた。刺激に富んだ報告者の議論に必ずしも活発な質疑応答がなされなかったのは残念であったが、その論争的な仕掛と報告内容には大いに関心を惹かれた。

全体としてどの報告も充実した内容であり、今後の研究の展開が大いに期待されるものであった。

[なお、報告予定の江川茂氏(茨城県立コロニーあすなろ)は都合で欠席され、事前に送付されたレジュメ「身体と共同体」のコピーが会場で配布されたことを記しておく。]

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