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年次大会
大会報告:第41回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会 I)

 テーマ部会 I 「他者とコミュニケーション」
 6/12 14:00〜17:15 [3号館324教室]

司会者:桜井 洋 (山梨大学)
コメンテーター:吉澤 夏子  浅野 智彦 (東京大学)

部会趣旨 那須 壽・大澤 真幸
第1報告: 発話行為の時空的構成 北澤 裕 (早稲田大学)
第2報告: 独我論に於ける他者 永井 均 (信州大学)
第3報告: 異文化理解
−民俗誌的経験とその伝達をめぐって−
大塚 和夫 (東京都立大学)

報告概要 桜井 洋 (山梨大学)
部会趣旨

那須 壽・大澤 真幸

 社会学的探求の共通の対象である「社会性」ということを、その最も単純な核的な特徴にまで還元しつくしてしまえば、それは他者との共存状態をもたらす諸要因と、そこから派生する諸性質だということになるだろう。他者への志向を潜在的にせよ顕在的にせよともなう行為・体験を、コミュニケーションと呼ぶことにする。本部会は、こういった意味でのコミュニケーションの構造を、具体的かつ理論的に、根柢から考え直すことを目的としている。

 北澤氏は、エスノメソドロジー、現象学的社会学等の研究を通じて、コミュニケーション(とりわけ対話)の中で秩序が生成・維持・解体されていくダイナミックな過程を分析しようとしてきた。コミュニケーションの秩序を構成する要因は、一般には「規範」であると見なされている。北澤報告は、コミュニケーションにおける規範の位置について、基本的な見取り図を与えてくれるだろう。この見取り図を起点にして、一方では、コミュニケーションを構成する要件についての原理的な考察(永井報告)へと、他方では、コミュニケーションと規範の関係が必ずしも安定化していない具体的な現場で派生する諸問題についての考察(大塚報告)へと、議論を開いていくことができる。

 永井氏は、そもそも他者が存在しているということはどのような意味であり、それがいかにして可能かということ―したがって逆に言えば「私」とは何かということ―を徹底的に考え直す強靭な試みを続けてきた。永井報告は、いわゆる「独我論」との対決を通じて、「私」に対して「他者」が存在しているということの意味を、根本から考え直そうとするものである。それは、社会についての探求のすべての前提を、あらためて懐疑し、考察する試みであると理解することができるだろう。

 大塚氏は、とりわけイスラーム圏の社会についての文化人類学的な研究を行ってきた。大塚報告は、フィールドワークの経験をもふまえながら、異文化間コミュニケーションの問題を提起する。コミュニケーションは、「他者」と直面する様式だが、「他者」と「自己」との間に共通の「文化」を想定できるとき、われわれは「他者」の「他者性」を忘却することができる。「他者性」にあらためて覚醒させられるのは、異文化間コミュニケーションにおいてである。そうであるとすれば、異文化間コミュニケーションは、コミュニケーションの特殊ケースであるというより、むしろその原型である。

第1報告

発話行為の時空的構成

北澤 裕 (早稲田大学)

 行為は時間と空間の中で構成されており、またそのように構成されているものとして理論的に分析されなければならない。しかしながら、行為と時間・空間との関係は、社会学にあって、十分明確にされ、概念化されているわけではない。

 一般的に、相互行為としてのコミュニケーションや会話に関しては、発信者と受信者といったダイアディックで固定的な関係を想定し、この関係における噂などのメッセージ分析、あるいは言葉や身ぶりといった媒介分析が主に行われてきた。しかしこの場合、コミュニケーションの特徴の一つである発話行為(者)間のダイナミックな過程、すなわち連続的に形成されている行為の流れがまったく無視され、分析から抜け落ちてしまうといった結果を招いている。コミュニケーションのダイナミックな連続的形成についての視点は、発話行為に対する時間と空間の役割、もしくは発話行為の「時空的編成」を掌握しない限り、構成され得ないのである。しかも、この発話行為の時空的編成過程は、従来の社会学での時間と空間に関する概念、すなわち「因果的時間性」および「所与的空間性」を破棄し、これらをまったく別の観点から捉え直さなければ、明らかに出来ない性質や問題をはらんでいる。

 本報告では、「時間と規則」ならびに「空間と自己組織」という二つの内容を軸にして、発話行為の時空的編成過程は、どのように捉えられなければならないのか、またどのようにしたらその本来あるべき姿を分析することができるのか、といった時空的編成過程そのものの分析可能性について、説明を加えてみることにする。

第2報告

独我論に於ける他者

永井 均 (信州大学)

 独我論はこれまでもっぱら認識論的に捉えられてきた。他人の心の中は知ることができない、それゆえ他人には心がないかも知れない、という「ロボットの疑惑」は、その典型である。しかし、言語ゲーム論的反転を経た現在では、問題はむしろ逆に立てられるべきである。他人たちが心を持つことは自明である。それは殆ど定義的な事柄に属する。すると、一見それ以上の何かであるように見える「私の心」とは何か。そもそも「私」とは何か。このような問が成り立つ「余剰物としての私」こそが独我論の私なのである。

 哲学的に最も根本のところまで問い詰めると、過去・現在・未来の無数の人間のうち一つがこの意味での<私>である (という特殊な在り方をしていた) という事実は何の根拠も与えられない<偶然>的事実であり、そもそも(一つであれ)そういう特殊な在り方をしたものが存在している、という事実は<奇跡>的事実である。<私>は存在せず、ただ無数の人間だけが存在することもできたはずだからである。従来の「独我論」の多くは、この偶然的で奇跡的な事実への驚きを、認識論的な問題と自己誤解したものであると思われる。

 独我論の<私>が以上のようなものだとすると、そこに於ける他者の存在は二重の意味を持つ。他者は一方では<私>ならざるものだが、他方ではもう一つの<私>である。そして、この後者の、もう一つの<私>という観点から世界を見るとき、世界はこれまでとは異なり、無数の可能世界とこの現実世界とが同時に同じ場所に存在する、異様な重層構造を持ったものとして立ち現れるのである。そして、それが<世界>の実態ではなかろうか。

第3報告

異文化理解
−民俗誌的経験とその伝達をめぐって−

大塚 和夫 (東京都立大学)

 <経験>科学としての社会(文化)人類学(=民族誌学)に従事する者は、「異文化」に赴き「現地調査」を行い、それに基づいて異文化を「理解」しようとする。このような前提から、ここでは「異文化における他者」とのコミュニケーションの問題、ならびにその成果を「自文化における他者」に伝達しようとする際に否応なく直面する問題を論じたい。その意味で本報告の議論は、きわめて「実践的」な次元に集中している。なお、報告者の主たるフィールドは、アラブ・ムスリム世界である。

 報告は fieldwork,translation,presentation の3つのセクションに分かれる。最初に、フィールドにおける「他者」を、A.シュッツの提起した consociate/contemporary 枠組みに位置付けてみる。すなわち、フィールドでのインフォーマントは民族誌学者にとって face-to-face な理解が可能な consociate であるが、ひとたび民族誌学者がフィールドを離れれば彼は contemporaryとなり「理解」される対象となる。この点が民族誌的「他者」の特徴と考えられる。次に、民族誌的調査が「言語」とりわけ相手の用いるそれに大きく依存するところから、彼らの語りを理解する際に「翻訳」作業が決定的に重要であることが示される。そして、言語間の「共約不可能性」の問題にもふれながら、それでも「異文化の他者」の「理解」が可能であるという楽観的な見通し(もしくは信念)が表明される。それから、帰郷した人類学者が「自文化」の人々に自分の経験した「異文化」を伝えようとする場合に、否応なくそれを歪め、自文化の語りに乗せなければならないこと、ならびにシュッツ的な「類型化」が露骨な紋切り型の表現(「オリエンタリズム」)に至りうる危険性が指摘される。そして最後に「見慣れないものを見慣れたものにすると同時に、その見慣れなさというものも保存する」(V.クラパンザーノ)という「民族誌作成」方針が述べられる。

報告概要

桜井 洋 (山梨大学)

 昨年度の関東社会学会のテーマ部会の理論部会は、「いま、あらためて『自我』を問う」と題して行われた。今大会の当部会は、昨年のこの部会を受けて、自我に関する問いをさらに深化させることを目指したものである。そのために、今大会では学際的な研究という形式をとり、社会学に加えて哲学、人類学の立場からの報告を受けて討議を行った。報告は社会学の立場から北澤裕氏(早稲田大学)による「発話行為の時空的構成」、哲学の立場から永井均氏(信州大学)による「異文化理解――民族史的経験とその伝達をめぐって」が行われた。コメンテーターは、吉澤夏子氏、浅野智彦氏(東京大学)であり、司会者は桜井洋(山梨大学)であった。

 北澤氏は、行為の時間性を因果関係によって理解することを批判し、因果的了解に対して行為を受け、継続的な秩序関係として理解すべきことを述べた。この観点からすると、規範の概念の含意も変更を受け、自らを自己組織するものであるとした。

 次いで永井氏は、まずいわゆる独我論の根底にあるものとして「独在性」に着目する。この独在性は無数の人間のうち、この人間(だけ)が私であるという<偶然性>と、私が存在するという<奇跡性>の二つの要素からなる。だが、この独在性は別の偶然と奇跡を直ちに導くのであって、そこに他者の意味が立ち現れることになると述べた。

 最後に大塚氏は、歴史学や社会学における他者とは区別される人類学的他者の像を、シュッツを援用しつつ描く。それはconsociateであり、またcontemporaryでもある他者である。次に自文化と異文化の言語の翻訳、共約可能性について考察し、最後に民族誌的報告における様々な婉曲、「根源的エスノセントリズム」について考察した。

 これに対して吉澤氏からは主として独在性と社会秩序の問題、また浅野氏からは主としてコミュニケーションの問題に照準したコメントがなされた。

 「他者とコミュニケーション」という課題は社会学の最も根源的な問題であるから、この部会で「結論」の出るはずもない。だが、フロアを含めた討議によって、この困難な問題が真に「問題」であることが明らかになったように思われる。それによってこの部会の使命は果たされたのではあるまいか。

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