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年次大会
大会報告:第45回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第6部会)

 第6部会  6/15 10:00〜12:30 [本館1310教室]

司会:那須 壽 (早稲田大学)
1. 伝統的支配への希求
――ホルクハイマーを中心に――
保坂 稔 (上智大学)
2. 記述の理解可能性について
――L.ウィトゲンシュタインからH.サックスへ――
前田 泰樹 (一橋大学)
3. A.ギデンズの内的準拠性概念の検討
――関係性におけるその具体的現れ――
筒井 淳也 (一橋大学)
4. 「ダブルバインド」現象の研究のために 安藤 太郎 (一橋大学)
5. 脱近代的自己と「自己産業」の関係をめぐる考察 岩井 阿礼 (慶應義塾大学)

報告概要 那須 壽 (早稲田大学)
第1報告

伝統的支配への希求
――ホルクハイマーを中心に――

保坂 稔 (上智大学)

 ウエーバーによると、伝統的支配における権利根拠、つまり正当性は神聖性である。神聖性に対して服従が捧げられ、服従することによって被支配者に利益が生ずる。神聖性にもとづいて信仰されているとき、伝統的と呼ばれる。伝統的支配をまとめるとすれば、人びとは神聖であるから服従し、利益があるから神聖性に服従する、ということになるであろう。しかし、なぜ神聖であれば服従するのか、もしくは神聖性に服従するとどういう利益があるのかも疑問である。もちろん、ウエーバーにおいても以上のような疑問に対する議論は存在していると考えられる。たとえば、神聖性の呪術性に対する恐怖があるから権利根拠として存立するという議論も存在する。しかし、伝統的支配のもっとも純粋な型は家父長制においてであるとし、没主観的であるともしている。つまり、ウエーバーの伝統的支配の議論は、伝統の神聖性が常にかくあるから、という点で議論が終息してしまう可能性がある。

 本報告の目的は、ウエーバーの伝統的支配の議論を参照しつつも、なぜ伝統が支持されるかをホルクハイマーの議論を用いてさらに詳細に検討することである。ホルクハイマーは、家父長制に目を向け、家父長制において伝統が希求される性向が生み出されることを主張している。ホルクハイマーにおいてもウエーバーの神聖性の没主観性のような議論がされている、という意味でウエーバーの伝統的支配をこえるものを提示しているわけではないともいえる。しかし、伝統が支持される理由をさらに掘り下げて検討しているといえよう。たとえば、没主観的伝統であっても内面的強制へと置き換えられ、その結果模倣衝動が暴走し、かえって伝統を希求してしまうようになる、つまり自ら望んで伝統を支持しようとする現象が生ずることを主張している。この意味での伝統は、ウエーバーの没主観的な伝統とはことなっているといえよう。

 他にも、ホルクハイマーにおいては人びとが伝統を希求してしまうことになることにさまざまな側面から検討を加えている。たとえば、神聖なものは共同体的・有機体的で、一体性を味あわせてくれるものであるから支持されるという主張である。報告者は、ホルクハイマーの議論を参照して伝統的支配の多様な側面を描き出せたらと考えている。

第2報告

記述の理解可能性について
――L.ウィトゲンシュタインからH.サックスへ――

前田 泰樹 (一橋大学)

 社会学者が人々の行為を記述するとはどのようなことだろうか。この問いは、私たちが他者の行為をいかに理解しているのか、という問いに結びつく。そして、この問いに対する返答の多くは「懐疑とその解決」という図式の上でなされてきた。例えば、Aが1, 2, 3, ……と書き出していく場合、「Aは自然数を数えている」と記述することは正当だろうか。ここで「個別の事例から一般的な記述へ」という行き方を立てると、とたんに懐疑的議論が生じてしまう。「Aは自然数を数えている」という記述は「Aは1を数えた」「Aは2を数えた」「Aは3を数えた」……という記述からの不完全な一般化なのだろうか。M.ウェーバー以来、多くの社会学者が、この種の懐疑を適切なものと認め、いかにしてそれを解決するかを問題としてきた。それに対し本報告は、L.ウィトゲンシュタインとH.サックスの緒論に依拠しつつ、私たちが日常行っている「理解の仕方」を明らかにすることをつうじて、上のような懐疑に抵触しない「社会学的記述」の身分に対して照明をあてることを企図している。約言するならば、「理解する」とは「記述のもとで理解する」ことであり、このような「記述の理解可能性」は、論理的にはなにごとにも先行するかたちで措定される。これを示す作業をつうじて、ウィトゲンシュタインとサックスが自らの課題として「記述」を推奨したことの方法的・思想的含意について、明らかにする。

第3報告

A.ギデンズの内的準拠性概念の検討
――関係性におけるその具体的現れ――

筒井 淳也 (一橋大学)

 近代化に伴う制度や関係性の変容に関して、「システムとそうでないもの」といった二分法から出発する社会学的見解が存在する。これに対してアンソニー・ギデンズは、それらを再帰性あるいは「内的準拠性」という観点から一貫して説明しようと試みてきた。内的準拠性internal referentialityとは、ギデンズ自身の定義によれば「社会関係、自然世界の諸側面が内的基準に従って再帰的に組織されていく状況」であるが、このことの帰結としていくつかの興味深い指摘がなされている。今回の報告では、特に関係性の範疇に属する内的準拠性の現れを、「道徳性の消失」「経験の隔離」および「純粋な関係性」といったトピックにおいて明らかにすることによって、それ自体では抽象的に過ぎる内的準拠性概念の含意を検討する。関係性の再帰性あるいは内的準拠性という事態は、ギデンズ自身も行っているように、関係嗜癖(共依存)といった病理学的文脈で論じられることが多い。だが、今回の報告では、上のようなトピックにそって内的準拠性を論じることを通して、別段病理的な場面でなくとも、それがありふれた日常の光景において頻繁に現れているものであることを示してみたい。

第4報告

「ダブルバインド」現象の研究のために

安藤 太郎 (一橋大学)

 G.ベイトソンらの提唱したダブルバインド論が扱っているトピックをみると、この理論が社会学に対してもっとインパクトをもっていいのではないかという気になる。というのは、その主題が「コミュニケーションと自己」というある種の社会学の研究対象にまさに重なっているからである。しかし、この理論は社会学の俎上にあまり乗せらなかった。これは、社会学の怠慢であろうか。報告者はそうは思わない。それ自体の欠点によりダブルバインド論は発展させられてこなかったのであり、それは社会学だけでなくセラピーという実践においてもそうであると思う(治療的ダブルバインドからパラドックス療法という流れは別であるが)。

 本報告では、便宜的に「病因論的ダブルバインド」と「治療的ダブルバインド」とに分け、まずは「病因論的ダブルバインド」について検討する。そこでは、理論の前提である個人の能力(学習)をブラックボックス化している。従って「病因論」としての有効性が理論上も治療上も少ないといえることを示す。次に、「治療的ダブルバインド」という概念を検討する。ダブルバインドが治療的に有効であるためにはこのブラックボックスの中身を明らかにしなければならない。本報告では、「治療的ダブルバインド」という現象をどのように研究すべきかという視点を示し、この現象の経験的な研究のための方向性を提示しておく。

第5報告

脱近代的自己と「自己産業」の関係をめぐる考察

岩井 阿礼 (慶應義塾大学)

 統合され安定した価値体系をもつ近代的自己が崩壊しつつあると言われはじめて久しい。そして、それに代わって出現しはじめた自己(脱近代的自己と呼ぶ)は、柔軟かつ多元的な価値体系をもち、変化が激しく多層的な環境に対応する能力が高いと言われている。しかし、その反面で、内面に確固とした価値体系を持たないことから、生活を全体的に組織化するべき「意味」への渇望と外部からの影響を受けやすいという傾向が生じ、搾取的なセラピスト、カルト・リーダー、カルト的政治指導者といった全体主義的傾向をもつ集団の欺瞞的行為に対して脆弱であるという指摘もなされている。

 ところで、このような脱近代的自己のあり方は自己定義を助け、自己愛を補強する多くの産業と結びついている。商品の機能よりも記号的意味が重視される象徴的消費や、心理療法(心理療法的技法を用いて行われる自己啓発等)への需要の増加などがその例であると言えよう。これらの産業を「自己産業」と名付けるならば、自己産業は個人にとって促進的な効果を持つこともあれば、阻害的に働く場合もあり、上にあげた搾取的なセラピスト等の全体主義的集団は阻害的な効果をもつものの一例である。

 本報告においては、欧米において行われている阻害的効果の排除に関する研究も含めて、脱近代的自己および自己産業のあり方に関する内外の研究を整理・紹介し、報告者の知見を述べる。

報告概要

那須 壽 (早稲田大学)

 本部会では予定どおり、 (1)保坂稔:伝統的支配への希求−ホルクハイマーを中心に−、 (2)前田泰樹:記述の理解可能性について−L.ウィトゲンシュタインからL.サックスへ−、 (3)筒井淳也:アンソニー・ギデンズの内的準拠性概念の検討−関係性におけるその具体的現れ−、 (4)安藤太郎:「ダブルバインド」現象の研究のために、(5)岩井阿礼:脱近代的自己と「自己産業」の関係をめぐる考察、という5つの報告がなされた。

 個々の報告内容に関しては、先の「学会ニュース」のなかでそれぞれの報告者によってその概略が予告されていたとおりのものであったことだけを報告し、ここで改めてその要約を試みることは割愛したい。ただし、以上のような個々のタイトルだけをみると、統一性に欠けた個々バラバラの報告が寄せ集められた部会であったような印象を招きかねないけれども、本部会での報告はいずれも、これまでの社会学を自明のことのように支えてきたパースペクティヴや諸概念、あるいは逆にその陰でこれまで検討されることの少なかった諸概念を、今日の社会・文化状況を見据えながら問い直そうとするモチーフによって支えられていたという点で一貫していたということ、この点だけを付け加えておきたい。

 いずれの報告も、内容は濃密で意欲的なものであった。これはもちろん喜ぶべきことである。だが、一報告に割り当てることのできる時間が制限されている学会での報告ということを考えると、当日配布された「論文」をスキップしながら読まざるを得なくなったり、すでに何度かその報告者の報告を聴いたことのある人からしか質問が出てこなかったりというのは、やはり若干、内容が濃密すぎたと言わざるを得ないのではなかろうか。学会での報告が、新たな出会いと刺激的な議論の場になることを願ってやまない。

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