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年次大会
大会報告:第45回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会1)

 テーマ部会1 「日常と非日常」−−−非日常を生み出す文化装置
 6/14 13:30〜16:45 [本館1201教室]

司会者:嶋根 克己 (専修大学)
討論者:小田 亮 (成城大学)  藤村 正之 (武蔵大学)

部会趣旨 嶋根 克己 (専修大学)
第1報告: 音楽は非日常性を作り出すか 小川 博司 (関西大学)
第2報告: 現実と虚構の間
〜ディズニー帝国の境界線
能登路 雅子 (東京大学)
第3報告: フリーツアーという“非日常”
〜タイ・バンコク・カオサン通りの定点観測
新井 克弥 (法政大学)

報告概要 嶋根 克己 (専修大学)
部会趣旨

嶋根 克己 (専修大学)

 われわれが主観的に体験する時間の流れは必ずしも均質で連続的なものではない。そこには個人的な体験にもとづいた断絶のほかに、文化的な仕組みによって引き起こされた非日常的な経験も存在する。E.デュルケムが集合的沸騰状態と呼んだように、いにしえより社会は定期的に自己を賦活・更新する文化装置を内包し、個人はその不連続な時間の中で、社会や神との合一感を、あるいは自己が何者であるかを経験してきたに違いない。すべての文化装置は恐らくは宗教に淵源をもち、音楽、演劇、スペクタクル、巡礼などという個別ジャンルとして成立していったと考えられる。前近代社会においては、庶民にとってこれらの文化装置と接することは、きわめて稀な非日常的な経験であり、またそうであるからこそ緊張と精神的な変容をもたらしえたのであろう。

 ひるがえって現代社会に目を移してみた場合、音楽、スペクタクル、旅行などは、前近代社会に比較してはるかに日常的な出来事と化している。都市では夜毎にコンサートが催され、テーマパークは「日常的に」スペクタクルを繰り広げ、国内・国外を問わず旅行はわれわれの生活の一部となっている。かつては宗教となんらかの関わりをもって、われわれの精神生活に何らかの変容をもたらしてきた文化装置の多くは「商品」と化してしまったのである。商品であるがゆえにその形態ははげしく変化し、陳腐化するまでの期間はますます短くなりつつある。文化には、われわれ自身や社会を変容させるだけの力はもはや残っていないのであろうか。また商品化と同時に文化のもつ象徴的価値は消滅してしまったのであろうか。

 本テーマ部会では、現代文化の最前線からあらためて現代社会を問うことを目的としたい。音楽社会学に造詣の深い小川博司氏、ディズニーランド論で著名な能登路雅子氏、旅の社会学の立場から新井克弥氏、この3氏に現代文化の現状と分析についての基調報告をお願いする。その上で、文化人類学の立場から小田亮氏、文化社会学の立場から藤村正之氏、この両氏のコメントを受けて、現代における文化装置の意味について検討していくことにしたい。

第1報告

音楽は非日常性を作り出すか

小川 博司 (関西大学)

 複製技術によって「いつでも、どこでも」音楽を聞くことができる現代社会において、音楽は非日常性を作り出しているといえるのだろうか。

 通常は、音楽があるのが非日常、音楽がないのが日常と考えられがちである。確かに、共同体における祭りのような場合は、年に一度だけある特定の音楽が演じられる非日常の空間と時間が成立するといった、日常と非日常の明確な対比を見出すことができる。しかし、音楽が遍在している現代社会においては、逆の場合も成立する。たとえば、昭和天皇の死の当日および大喪の礼の日、放送からは日常流れているようなポピュラー音楽や広告音楽は流れてこなかった。商店街もファーストフードの店も、日常は流しているバックグラウンド・ミュージックを流すのをやめた。音楽は、共同体の祭りとは逆の意味で、非日常性を作るのに貢献したのである。

 現代の音楽の遍在化には、大きく二つの局面がある。一つは、音楽が押しつけられる局面である。その典型的な形態がバックグラウンド・ミュージックであり、現代人は、駅、商店街、デパート、職場、喫茶店などにおいて、好むと好まざるとにかかわらず、バックグラウンド・ミュージックを投げつけられる。バックグラウンド・ミュージックが流れている状態が日常なのである。もう一つは、ステレオ装置、カーステレオ、ヘッドフォンステレオなど、個人的なメディアを駆使して、個人的な選択により、音楽空間を作り出すという局面である。この場合は、個人的に、時間的にも空間的にもミクロな単位で非日常性が作り出される。現代のコンサートにおいては、こうしたミクロな非日常の集積である日常(予習)を土台にして、非日常的なコンサート空間(本番)が創出される。
当日は、できるだけ具体的な例を通して考察していきたい。

第2報告

現実と虚構の間 
〜ディズニー帝国の境界線

能登路 雅子 (東京大学)

 ディズニーランドは、現在最も集客力のある非日常的虚構空間のメッカといえる。カリフォルニア、フロリダ、浦安、パリ郊外で数千万の人々が万能のネズミに身をゆだね、「ここ以外のすべての場所、いま以外のすべての時代」に運ばれる。時間と空間を超えた究極の疑似体験を提供するディズニーランド観光は、現代の巡礼にもたとえることができる。通過儀礼としての巡礼は、各人が非日常へと向かって旅する「分離期」、聖地で体験する境界的な「過渡期」、巡礼を終えて新たなアイデンティティとともに社会に戻る「再統合期」の三段階からなる。ディズニーランドにも、日常からの境界性確保のために、入念な仕掛けがほどこされているが、同時に目に見えない物流、群衆管理システムもその非日常演出に欠かせないノウハウとして機能している。

 空港における乗り換え客のように、ディズニーランドは人々が通過し、常に移動して行くことを大前提としている。しかし、一過性の祝祭の場としての側面だけでは、現代文化に対するディズニーランドの意味を十分に語ることはできない。ディズニーがフロリダにテーマパークを含む大規模不動産開発をはじめた70年代以降、その人工都市としての可能性が関心を集めて来た。都市計画者の多くは、ここを清潔、安全で効率的なユートピア都市として称揚し、ディズニー社の設計者も「犯罪ゼロの中規模都市」が目標であるとしている。

 娯楽と消費を目的とするショッピングモールやファーストフード店のディズニー化はもちろん、現実に人々が定住するコミュニティ設計にも、ディズニーの非日常空間の疑似体験、環境管理、排除の論理はモデルとして応用されはじめている。コミュニティの模倣を模倣するコミュニティ、祝祭を日常化する生活の場が各地で誕生しているのである。近年、ディズニー社自身が、フロリダに、その名も「セレブレーション」という住宅コミュニティを開発して人気を呼んだ。しかしながら、子弟の教育問題を含め、居住者の生活には非日常と日常の矛盾が早くも露呈し、「理想の楽園」を逃避する者が続出しているという。本報告では、非日常世界を逸脱しはじめたディズニーが現代社会に投げかける問題のいくつかを検討したい。

第3報告

フリーツアーという“非日常”
〜タイ・バンコク・カオサン通りの定点観測

新井 克弥 (法政大学)

 我が国の年間海外渡航者数は昨年1700万人を突破し、海外旅行はいまや大衆化の時代を迎えている。これに伴い若者の間でも海外旅行はレジャーの一形態として定着し、パッケージツアー、語学研修、スタディツアーなど、そのスタイルにおいても多様化を見せている。また就職までの猶予期間を旅行にあてる“卒業旅行”という現象もすっかり定着した。そんな中でもフリーツアー=航空チケットのみを購入し、訪問国を資本が提示する旅行スタイルにとらわれずに、みずからの意志に従って周遊する旅、はモラトリアムを享受する若者の特権的な旅行スタイルとして、年々、高い人気を獲得しつつある。

 本報告ではこのようなフリーツアーを行うバックパッカーたちの実態、とりわけアジアを旅する若者に焦点を当てる。若者は海外、アジア、そして自由旅行という“非日常”的生活環境にあえて自らをおくことで何を得ようとしているのだろうか。  テーマ部会では、バックパッカーたちが宿泊する安宿街の代表的存在ともいえるタイ・バンコク・カオサン通りで実施した日本人若者へのインタビュー、質問紙調査等(95〜96年実施)から得られたデータをベースに、アジア・フリーツアーの現状について報告する。具体的には以下の内容を予定している。

(1) カオサンを訪れる若者の一般的属性と旅行形態 …………フリーツアーは首都圏男子大学生による生活費一日2000円の“貧乏”卒業旅行。

(2) 旅の目的意識 …………その目的は純粋な楽しみ、自己発見、退屈な日常からの脱却、そして個性化の一手段としてのフリーツアーの位置づけ。

(3) メディア環境とフリーツアー関係 …………文字どおり“自由勝手気まま”であるはずのフリーツアーだが、実際には旅行者がおかれた充実したメディア環境がフリーツアー・スタイルを規定している。

報告概要

嶋根 克己 (専修大学)

 本部会ではこの2年度にわたり「日常と非日常」という視点から現代社会を分析することを試みてきた。1996年度大会では、オウム真理教をめぐる一連の出来事から現代社会の背後に隠された日常と非日常の亀裂を取り上げた。今年度は、文化装置が生みだす非日常性という視点からの分析を試みた。研究例会では、「食」という観点から山脇千賀子氏(筑波大学)に、「墓地空間」という観点から松本由起子氏(東京大学)に、それぞれの非日常的様相について論じて頂いた。続いて本大会では音楽、テーマパーク、旅という観点から現代社会において「仕掛けられた非日常性」について討論を行うことにした。

 小川博司氏(関西大学)は、「音楽は非日常を作り出すか」というテーマで音楽化社会における非日常性について論じた。従来の日常−非日常という二分法的議論では、音楽のある状態が非日常的であると言われてきた。しかし昭和天皇の死去や阪神大震災はメディアや街頭に音楽のない状態を作りだした。音楽化社会においては静寂(音楽のない状態)こそが非日常的なのである。しかしメディアの発達や試聴行動の多様化は、音楽による日常−非日常の分節化という単純な議論を難しくしているというのが同氏の主張である。

 能登路雅子氏(東京大学)は「現実と虚構の間−ディズニー帝国の境界線−」と題して、ディズニーランドという虚構の世界において繰り広げられる非日常性について論じた。ディズニーランドは、不潔さや偶然性を排除し完全にコントロールされた人工的環境において作りだされた虚構の非日常的空間である。それは幾重にも張りめぐらされた仕掛けによるエンターティメントの集積であり、外界(日常的空間)と巧妙に分断されることで成立している。しかし現在では企業体としてのディズニーが、都市計画という形でテーマパークの境界を越えて現実世界にまで浸潤しており、その行方が注目されている。

 新井克弥氏(法政大学)は、「フリーツアーという“非日常”−タイ・バンコク・カオサン地区の定点観測−」と題して、実態調査を踏まえて若者の旅行感覚について論じた。海外旅行の一般化とともに、旅行産業の提示する企画旅行に飽き足らず、貧乏旅行を楽しむ若者が増加してきた。バンコク・カオサン地区はそうした若者たちのための安宿の一大集積地である。若者たちは退屈な日常生活からの脱却し自己発見を求めてバンコクにやって来るのだが、結局のところ同一のガイドブックに依存し、その範囲内での追体験をしているに過ぎない。ここにおいても予測できない偶然性は巧妙に排除されている。

 討論者の藤村正之氏(武蔵大学)は、「日常−非日常」という概念枠組みそのものが近代社会の産物にすぎないのでないかという疑問を提起した。その上で、「われわれ」自身が現在の非日常性などは作り物に過ぎないことを熟知しながら、なおかつそれを楽しんでいるところにこそ検討課題があると論じた。また小田亮氏(成城大学)は、文化人類学において「日常−非日常」は支配的文化への抵抗を意味する魅力的なテーマだったが、現在ではこうした表面的な二分法では論じきれない状況が生まれ出てきている、と論じる。異種の混合こそが支配的文化への抵抗を可能にするという主張であった。報告・討論を通じて、「日常−非日常」という枠組み自体が現在では錯綜し曖昧化していることが明らかになったが、こうした観点からの幅広い文化研究の必要性が確認されたと言えよう。

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