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年次大会
大会報告:第45回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会2)

 テーマ部会2 「広域と局域」−−−移動・国家・エスニシティ
 6/14 13:30〜16:45 [本館1301教室]

司会者:池田 寛二 (日本大学)  町村 敬志 (一橋大学)
討論者:伊藤 るり (立教大学)  広田 康生 (専修大学)

部会趣旨 町村 敬志 (一橋大学)
第1報告: カラード・インペリアリズム
――近代日本の対外関係と自己認識――
小熊 英二 (慶應義塾大学)
第2報告: ホモ・モーベンスから見た都市と地域 新原 道信 (横浜市立大学)
第3報告: 広域・局域・ヴァーチャル・コミュニティ 吉瀬 雄一 (関東学院大学)

報告概要 池田 寛二 (日本大学)
部会趣旨

町村 敬志 (一橋大学)

 これまで2年間にわたり、「広域と局域」という新しい問題設定のもとで研究例会および大会テーマ部会を開催してきた。グローバル化にともなう問題群を、移動者やツーリズム、エスニシティなどさまざまな角度から検討するなかで明らかになったことのひとつは、今日のグローバル化という変動が引き出してくる新しい「社会」のイメージの違いであった。一方で、帝国と植民地、多国籍企業と途上国、ツーリズムといった非対称な関係が生み出すヒエラルヒーに眼を向ければ、グローバル化は支配的なシステムによる周辺部の併合や均質化の動きとしてとらえられる。他方、異質な社会や個人が出会いを繰り返す中で、周辺部や境界においてばかりでなく、支配的システムの中枢においてすら文化が変容していく過程に注目すれば、グローバル化はむしろ、ローカルな現場における絶え間ない差異の創出過程という様相を帯びる。「広域−局域」「グローバル−ローカル」といった対比の軸は、決して自明のものではない。それらはむしろ、上述のような緊張関係の下で、構造的な規定、主体による構成という二重の過程を通じて、つねに多様な形で(再)生産されていくものである。

 今回は、これまで取り扱ってきた一連の問題をより幅広い角度からとらえ直すためのキーワードとして、「移動・国家・エスニシティ」を用意する。「国家」が作り出すナショナリズムやグローバル化の言説とそれが立ち上がる場所の問題、移動・越境という体験がもたらす時空間の歴史的な再編成と主体の問題、異なる時空間のリアリティをもつ主体の共存と対立の可能性などが、そこでは論じられることになる。テーマはいずれも大きな拡がりをもっているが、しかし各報告はどれも具体性を重視している。討論者からのコメントとあわせ、活発な議論を展開していきたい。さまざまな問題へ関心をお持ちの方の参加を期待いたします。

第1報告

カラード・インペリアリズム
――近代日本の対外関係と自己認識――

小熊 英二 (慶應義塾大学)

 「日本人」とはどこまでの範囲の人々を指すものであるのか。これが本報告の第一の問いである。

 日本は、「欧米」に近い存在であるのか、それとも「アジア」の一部なのか。これが本報告の第二の問いである。

 近代日本における周辺地域、すなわち沖縄、北海道(アイヌ)、朝鮮、台湾などのうち、どこまでが「日本」「日本人」であり、どこからが「日本」「日本人」でないとされていたのかは、じつはそれほど自明なことではない。これは具体的な政策論議においては、これらの地域に同化政策と国民教育を施して「日本人」化するか、それとも勢力圏下の保護領として旧慣維持で間接統治するか、という選択となって現れる。

 そして、黄色人種に属しながら植民帝国でもあるという日本の性格は、「欧米」=文明=白人=支配者と「アジア」=野蛮=有色人=被支配者という世界観が支配的だった当時において、きわめて微妙な位置を占めることとなった。このため日本の知識人や政策担当者たちは、「欧米」の一員となって「アジア」を侵略するか、それとも「アジア」の盟主となって「欧米」と戦うかという選択を、たえず迫られることになった。

 これが「日本人」の範囲の問題に、微妙に結び付いてゆくことになる。例えば、日本を文明=支配者とアイデンティファイする場合、日本を「欧米」と同じ植民地宗主国とみなし、「日本人」と植民地人の差異を強調するケースが出てくる。一方で有色人=被害者とアイデンティファイする立場からは、「一視同仁」で同じ黄色人種である支配地域住民は「日本人」として同化してゆくべきであり、日本は「欧米」のような植民地支配を行っていないと主張するものが出現することになる。

 近現代の日本を以上二つの角度から検証することを通じて、「日本人」および「日本」という概念ないし集合的アイデンティティを再検討し、「有色の帝国」という、従来の二項対立図式に収まりにくい類型を提示することが、本報告の主題である。

第2報告

ホモ・モーベンスから見た都市と地域

新原 道信 (横浜市立大学)

 動く人には別のものの見え方があるのではないか。移動していなくても、無意識の内に移動の感覚を確保している人がいるのではないかという疑問をぼくはもっていました。たとえば横浜には、そこにやって来た人たちによってつくられる内なる“島々”があります。韓国・朝鮮人、沖縄人、日系南米人など、それぞれの“島々”は世界にひろがり、地域の中で、あるいは地域をこえて交流しています。横浜の鶴見や東京の蒲田にやって来る日系南米人にとって、サンパウロも、沖縄の中城村も、シドニーも、群馬県の太田も、同じように存在していて、南米の郷里を後にして出稼ぎにいくときに、なんとなく肌に合う土地である蒲田にいついたり、ときにはおばあちゃんの出身地である沖縄の今帰仁村を訪ねたりします。そして遠い親戚が暮らしている鶴見で見つけた友人達と助け合うようになりました。国境や国籍や文化的圧力がかれらを縛ってはいますが、その圧力と境界線から身をかわす術をつちかってきました。構造的には権力から自由なわけではありません。それでもなお、かれら“ホモ・モーベンス”は、境界領域の豊かさを生きるものであって、たんに境界線にたたずむ境界人ではありません。国家の中心からの見方にしばられたものとは異なるものの見方をもっています。文化や社会の境界線をこえて移動しているものには、世界中の個々の地域は、島々のつらなりとして見えているのではないでしょうか。このような共通のものの見え方によって、互いのむすびつきをつくっているのではないでしょうか。日本人と日本社会を“島々のつらなり”として再発見する。これはあらたな言葉をさがすための様々な試みの一つです。海からの社会科学、移民社会からの社会科学、内陸部の山村からの社会科学など、様々な試みが考えられますが、こうした再発見の試みをつらねることによって、「固くしこった日本人らしさ」「日本」神話から我が身を解き放つきっかけがつくられていくのではないでしょうか。

参考文献:
新原道信『ホモ・モーベンス』(窓社,1997年)。
新原道信「地中海の『クレオール』〜生成する“サルデーニャ人”〜」『現代思想』vol.24-13,1996年。
新原道信「“移動民(homo movens)”の出会い方」『現代思想』vol.25-1,1997年。

第3報告

広域・局域・ヴァーチャル・コミュニティ

吉瀬 雄一 (関東学院大学)

 ヴァーチャル・コミュニティ。耳慣れない言葉ではあるが、インターネットを中心としたグローバルなコミュニケーション・ネットワークの進展とともに、分野を超えて脚光を浴びつつある概念である。

 H.ラインゴルドによれば、それは、「電子ネットワーク上の仮想的な疑似的共有空間」である。比喩的に言えば、それは、シャーレの中で微生物のコロニーとして自然発生してきた。つまりは、リアルな世界における公共性=共有空間の喪失がヴァーチャル・コミュニティの隆盛をもたらしたという。

 しかし、そのことはさておき、そもヴァーチャル・コミュニティなるものは、「コミュニティ」の要件を満たしているのかどうかという点については、一考を要するところであろう。

 ヒラリーの古典的な、しかも論拠の不確かな研究に従えば、コミュニティの要件は、(1)地域性、(2)共同性にあった。この古典的な規定に従うならば、もちろん、ヴァーチャル・コミュニティは、地域性という点でコミュニティとしての資格を整えていない。しかし、そのことは、普遍的な概念としてあるべき「コミュニティ」そのものが、今、再検討されなければならないということを暗示しているといえないだろうか。

 ファーンバックとトンプソンは言う。「われわれはすべて、所在感(=自らがここに生きているという感覚)を必要としている。それは、実際の範域としてくくられるものであるかもしれないし、サイバースペース上の、実際の場所を占有しない領域に求められるかもしれない。だが、バーチャルコミュニティの領域を、関心が寄せられるトピックによってくくられるものとするならば、それは、「公的領域」というものを米国という集合体に求めた考え方に反して、国家を超え、文化を超えたものとなりうるのである」。

 本発表においては、以上に垣間見られるコンピュータ・テクノロジーによる意味空間の再編成について、若干の考察を加えることにしたい。

報告概要

池田 寛二 (日本大学)

 グローバル化にともなう現代の社会変動を多様な視角から読み解くことを意図して刺激的な議論を展開してきたこのテーマ部会も、今大会をもって一段落をつける運びとなり、それを意識して、「移動・国家・エスニシティ」という相互に関連の深い基本概念をキーワードとする三つの報告をお願いした。まず小熊英二氏からは、「日本人」の自己認識の特異性は「有色の帝国主義」として「脱亜」と「興亜」の矛盾を体現した日本帝国主義の歴史的特性に起因する、という斬新な見解を明快に論証する報告がなされた。次いで新原道信氏は、移動を常とする社会に生きる現代人の「内なる異文化状況」を解読するために独自に構築した「移動民(ホモ・モーベンス)」論を、サルディーニャでのフィールドワークの成果をふまえて展開した。最後に吉瀬雄一氏は、すでに無視しえない媒体となっているインターネットに代表されるコンピュータ・ネットワークが現代人のコミュニティをいかに変容させようとしているのか、「ヴァーチャル・コミュニティ」という新しい概念の検討を通して考察した。お二人の討論者のうちまず伊藤るり氏からは、それぞれの報告に対し順次、「白」か「有色」かという人種の差異をことさら強調して日本帝国主義の特異性を論じることがどれほど妥当か、「根」に対して悲壮感をもっている移動民への配慮が不足していないか、情報通信への接近能力の差異や階層性を考慮に入れて議論する必要があるのではないか、という趣旨のコメントがなされた。もう一人の討論者の広田康生氏からは、三つの報告を一括して、相互の異質性認識のプロセスの中で人々はいかにアイデンティティを形成するのか、より個人レベルに踏み込んだ洞察が必要になっている、また共振する関係性がひとつの場所に求心的に集まるとき社会的世界はいかに構造化されるのか、という大きな理論的課題が残されている、という指摘があった。フロアを交えた討論は必ずしも十分だったとは言い難いが、「移動・国家・エスニシティ」の複雑かつ重層的な相関が、歴史的分析、認識論的アプローチ、および最も現代的な情報テクノロジー論という全く異なる視点の交錯の中から浮き彫りにされ、本テーマ部会の一応の締め括りに相応しい刺激的な議論が繰り広げられた。

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