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年次大会
大会報告:第50回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第1部会)

第1部会:理論・学史  6/1 10:30〜13:00 [社会学部A棟401教室]

司会:宮島 喬 (立教大学)
1. トクヴィル監獄論の再検討 葛山 泰央 (京都大学)
2. プラティック理論を日本でどう受け止めるべきか 平林 豊樹 (日本女子大学)
3. 適応から撹乱へ
−バトラーのブルデュー批判から見えること−
池田 心豪 (東京工業大学)
大貫 挙学 (慶應義塾大学)

報告概要 宮島 喬 (立教大学)
第1報告

トクヴィル監獄論の再検討

葛山 泰央 (京都大学)

 19世紀の前半、西欧各国に全国的規模での監獄体系が姿を現す。アレクシス・ド・トクヴィルは、1831年から翌32年にかけて、友人のギュスタヴ・ド・ボーモンと共に、フランス内務省の要請に基づき、アメリカ合衆国各地の監獄施設への視察旅行を行った。ボーモン/トクヴィルの『合衆国の監獄体系とフランスへのその適用』(1833年)は、合衆国各地の監獄施設を視察する中で、フランスへのその体系的な適用可能性を検討した共同の調査報告である。その表題が示唆するように、国外での監獄施設の視察は、国内でのその体系的整備への関心――究極的には「民主主義に秩序と安定性を獲得させること」――と結び付いていた。トクヴィルにはその他にも、欧米各地のいくつかの監獄における調査報告、監獄の専門家たちとの間の往復書簡、監獄体系の様々な計画案といった、一連の監獄論が存在する。その有名な民主主義論である『アメリカの民主主義』(1835-36年、1840年)もまた、それらの監獄論に縁取られていた。「民主主義的な社会秩序」と「投獄」との関係をいかに想定するのか?「自由」への要請と「安全」への要請をいかに調停するのか?――本報告では、トクヴィル監獄論の社会学的な意義を再検討する中で、「個人以外の社会的単位の徹底的な排除を目指したフランス的な近代社会」(佐藤俊樹)の問題や、現代社会における「民主主義」と「安全性の危機」との錯綜した関係を考察したい。

第2報告

プラティック理論を日本でどう受け止めるべきか

平林 豊樹 (日本女子大学)

 P.ブルデューの業績は、多くの先進諸国で受容されて来た。それは、彼の理論が単に理論的に重要だからというのみならず、今日の諸国に共通の社会現象を能く分析するからでもあろう。その共通の問題に関して(とりわけ日本の現状に関して)彼の理論を参照する際には、例えばどの様な点に着目すべきだろうか。私は、以下の3点を例示してみようと思う。

 第一、近代社会論として『ディスタンクシオン』を捉える事。この書を近代の美学や社会史研究との絡みで捉え直し、その画期的な点を闡明する事に依って、彼の理論の特色が再確認されるだろう。

 第二、階層格差問題との関わりに就いて。今日の先進諸国に於いては、経済格差、階層格差が深刻に問題視されている。人々の心性構造と社会の正統性の次元との関係に止目するプラティック理論は、この問題に対して、独自な貢献が出来るに違い無い。

 第三、社会学理論家の中でのブルデューの位置を、新自由主義との関連で捉える事。2001年時点の社会学界で国際的に最も著名な理論家がブルデュー、A.ギデンズ、A.トゥレーヌだったのは、衆目の一致する所である。彼等は、経済のグローバル化と新自由主義とに就いて発言する。彼等を比較する事を通じて、ブルデューの特色と、彼の理論から我々の学ぶべき点とが浮き彫りになる。

第3報告

適応から撹乱へ
−バトラーのブルデュー批判から見えること−

池田 心豪 (東京工業大学)・大貫 挙学 (慶應義塾大学)

 P.ブルデューの「実践の論理」は、主観主義における自由な主体という想定と、客観主義の機械的決定論をともに批判し、〈場〉におけるハビトゥスの条件づけられた自由と、ハビトゥスの自由への〈場〉の条件づけを説くことで、社会学理論の重要課題である主客二元論の克服を目指している。しかし、J.バトラーは、この試みの失敗を指摘する。

 彼女によれば、ブルデュー理論では、ハビトゥスは常に〈場〉に適合的となり、結局、主客の必然的な収束と相互還元不可能性が示されてしまう。そしてそれは、ブルデューが言語的ハビトゥスの外部に制度を所与として位置づけていること(言語と社会の二元論)に端的に表れているのだという。

 こうしたバトラーの指摘は、抽象的な社会理論の水準で、かつブルデュー理論に内在的な批判となっている。だが、それは彼女の理論的立場と決して無縁ではない。ジェンダーのパフォーマティヴィティを論じるバトラーは、言語の外部を予め設定することを慎重に避けてきたのだ。

 本報告では、バトラーのブルデュー批判を、フェミニズム理論家としての彼女の立場に立ち返って検討することによって、社会学理論が目指すべき一つの方向性を模索したい。従来のいわゆる「ミクロ−マクロ・リンク」においては、社会−地位−主体の相互規定性や適合的関係の定式化に重点がおかれてきた。しかし、今後は、「主体」自体の社会的な(脱)構築(例えば、ジェンダー的主体化)や、制度と個人の間の摩擦/撹乱から生まれる社会のあり方を問題にすべきではないだろうか。

報告概要

宮島 喬 (立教大学)

 第一報告者(今井隆太氏)の欠席により、予定した部会進行に変更を加えざるをえなかったことは遺憾であった。葛山氏の報告は、監獄施設というものが近代社会においてどのような意味をもっているかを原理的に、かつ社会史的に考察し、トクヴィルのアメリカの視察にもとづく監獄論に考察を加えたものであるが、かれの民主主義論との関連という中心主題については報告時間の関係で十分触れられなかったことは残念だった。平林報告と池田報告(大貫氏はこれにフロアから補足発言)はともにブルデュー社会学を論じたものである。前者は、ブルデューのプラティク理論を取り上げ、芸術研究や社会史研究におけるその意義を確認したうえで、これを、先進諸国の階層構造の理解や、新自由主義へのブルデューらの発言に関連づけることを提案した。意欲的な問題提起ではあるが、主題の掘り下げはやや不十分と感じられた。池田氏の報告は、ブルデューのハビトゥス概念に対するフェミニズム理論家J.バトラーの批判を取り上げ、論じるかたちで、ブルデュー理論を相対化しようとしたものといってよい。ブルデューがハビトゥスをつねに「場」に適合的なものと捉えていること、またかれが言語の外部に制度を所与として置いていること、等へのバトラーの批判が紹介され、それらは部分的にせよ、妥当するといってよいが、そこから報告者自身がどのようにハビトゥス論、言語論を取り扱おうとするのかは、議論としてやや未展開に終わっていると感じられた。討論は主に池田報告をめぐって行われ、ジェンダー研究の観点からの発言もあり、興味ぶかいものであった。約40名という多数の参会者があり、これらの主題による理論部会の構成が多くの会員の関心を呼んだことを窺わせた。

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