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年次大会
大会報告:第51回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第4部会)

第4部会(テーマセッション):記憶と想起の社会学  6/14 10:00〜12:30 [3号館3階335教室]

司会:浅野 智彦 (東京学芸大学)
1. 自伝的記憶はどのように形成されるのか? 高橋 正樹 (会社員)
2. 戦後日本のマンガから見る第二次世界大戦の記憶
−敗戦直後から70年代まで
エルダド・ナカル(筑波大学)
3. 想起における特有の言説形式
−「8.15社説・投書」の時系列的分析
藤森 啓 (東京大学)
4. 集合的記憶論における「戦争の記憶」の理論的位置について 野上 元 (日本女子大学)
5. 社会学と記憶
−その視線と対象について−
浦野 茂 (青森大学)

報告概要 浅野 智彦 (東京学芸大学)
第1報告

自伝的記憶はどのように形成されるのか?

高橋 正樹 (会社員)

 「記憶」が注目されるのは、生物の主体性や能動性の基盤に「記憶」の存在が不可欠であると考えられるからである。であるならば、個々人の個性をとらえるには、属性や置かれた環境だけではなく、出会った出来事がどのようにその人の中に記憶として位置づけられていくのか、といった視点が重要となる。この出来事ー記憶の連鎖や組み合わせこそが、多様なライフストーリを構成していくことになる。認知心理学上、こうした「自伝的記憶」とはエピソード記憶の中でも個人の出来事に関わるものとされ、その忘却の程度や記憶のメカニズムが研究されてきた。しかし、記憶とは静態的なモノではありえず、人の個人史と共に変容する部分を持つ。本発表では、この自伝的記憶というものが具体的にどのようなものであり、出来事経験からどのように形成されうるのかについて、具体的なライフイベント調査データを基に考察する。そこから得られた知見は、1)自伝的記憶とされるものは、その多くは人生の結節点となるような出来事が記憶化されたものであり、全体としてが共通の枠組みを持つこと、2)その中でも大きく経験率に差がある場合(男性の職業・仕事の場合)、その出来事を軸とした自伝的記憶が形成されていること 3)出来事経験によっては(例えば、女性にとっての家族全般の事柄)、主体の出来事への「感度」の差が見られること、である。

第2報告

戦後日本のマンガから見る第二次世界大戦の記憶
−敗戦直後から70年代まで

エルダド・ナカル(筑波大学)

 戦後日本における第二次世界大戦の集合的記憶という問題はこれまでにも多くの研究者の関心を引きつけ、第二次世界大戦の記憶の変容や、日本人が自分たちを加害者としてよりも被害者として想起する傾向などが、歴史学者や政治学者、社会学者や教育関係者などによって論じられてきた。そのさい、第二次世界大戦の記憶を表現するものとして考察の対象とされてきたのは、おもに政府の声明、歴史教科書、新聞記事、テレビ番組、記念行事、博物館の展示、自分史、戦記もの、文学などであり、マンガは、これまで部分的に取り上げられることはあったけれども、全体として分析の対象とされることはほとんどなかった。本報告はこの欠落を補い、第二次世界大戦の経験を語ったマンガ作品を集め、あの戦争の記憶が「マンガの視線」を通してどのように見えてくるかを考察する試みである。本報告では、終戦から70年代までの約30年間に焦点を当てて、集合的記憶の変容や、アルバックスの言う「記憶の社会的枠組」の存在を例証していきたい。

The issue of Japanese collective memory of World War II has been drawing scholars' attention for years now. Historians, political scientists, sociologists, educators and others have looked into the various manifestations of this memory and taught us a great deal on the transformation of this memory and on the inclination of Japanese to recall themselves as victims rather than aggressors. On these occasions governmental statements, school textbooks, newspapers articles, television programs, commemoration ceremonies, museum exhibitions, personal diaries, literature et cetera were often examined, yet, manga - the Japanese comics - though was occasionally the subject of investigation by some scholars, on the whole was rarely examined. The aim of the current research is thus to look mainly at manga literature and examine how the collective memory of that war looks like from this particular direction. At the coming presentation I will concentrate on the thirty years or so since the end of the war (1945-1975), illustrating the memory fluctuation and the existence of what Maurice Halbwachs termed Social Frameworks of Memory.

第3報告

想起における特有の言説形式
−「8.15社説・投書」の時系列的分析

藤森 啓 (東京大学)

 ある歴史的な「出来事」を措定したとき、それを公的あるいは集合的に想起する仕方が、想起する時の状況によって一様でないことは、今日の社会学や歴史学において常識的な理解となっているようである。ただしこの「一様でない想起」とは、従来の主に歴史学における「記憶」研究の多くの場合においては、想起される内容つまり、出来事のどういう面が想起されるか、どういう解釈がなされるかが一様でないことを意味していた。そしてそれは、しばしば想起する主体の戦略に焦点が当てられる記憶のポリティクスとして描かれてきた。本研究もまた想起のされ方が一様でないことを前提とし、それを追究するものだが、過去の内容ではなく、想起という行為に特有の言説形式に着目する点で異なる。データとしては、8.15つまり「終戦日」にちなんだ新聞の社説や投書を用いる。複数の新聞の「8.15社説」と「8.15投書」において、この言説形式が時系列的にどのように変化してきているかを見る。つまり、過去自体の記述、戦後のプロセスの記述、想起についてのメタ記述(戦没者追悼や歴史教科書のあり方をめぐるの記述)、世代についての記述などの形式の採用が、時間の経過とともにどのように変化してきたかについて、戦争という出来事への各新聞や投書者の想定されるスタンスとの交互作用として検討するのである。「想起される内容」ではなく「想起特有の言説形式」の特徴を見ることによって、社会的・集合的な記憶・想起を規定する新たな重要な要素を考えることになるだろう。

第4報告

集合的記憶論における「戦争の記憶」の理論的位置について

野上 元 (日本女子大学)

 本報告では、集合的記憶論における「戦争の記憶」の理論的な位置づけを考えてみたい。そのためにまず、(1) 歴史記述をめぐる方法的転回や「想像の共同体=国民国家」論などといった集合的記憶をめぐるいくつかの関連領域と「戦争の記憶」論とを脈絡付け、次に(2) 「戦争の記憶」論が集合的記憶論に対してはらんでいる可能性と限界についていくつかの論点を指摘する。そしてこれらを通じて、最終的には、(3) 集合的記憶論じたいの可能性と限界をも考えてみたい。

 そこで重要となってくるのが、「集合的記憶」といったときの「集合」の内容/内実である。というのも、集合的記憶は、たんにある集団に共有された記憶であるという以上に、むしろ逆に、その集団を定義づけるインデックスにもなっている。すなわち、ある集合が先にあって記憶が共有されているのか、記憶の共有によって、ある集合性が現象しているのかということはなかなか微妙な問題をはらんでいるのである。

 そこに注目した場合、「戦争の記憶」論は、じつは集合的記憶論におけるある特異なケースを提供していることが分かる。つまり、「総力戦=全体戦争」は、記憶の生成に先立って、ある「全体性」を先取りしてしまう。それらを相対化するためにも、ここで考えなければならないのは「戦争の記憶」そのものなのではなくて、ある社会的な記憶術としての<戦争>なのである。

第5報告

社会学と記憶
−その視線と対象について−

浦野 茂 (青森大学)

 社会学が記憶を対象とするという事態はどのようなことなのか、そしてこの事態そのものがどのようなひろい脈絡のうえに存在しているのか──こうした目的のもと、この報告では「記憶の社会学」の自明性を対自化する作業をおこなってみたいその理由はつぎである。

 現在において「記憶の社会学」は、その内側に微妙な相違点をともないつつも、さほどの違和感なしに受容されているように思われる。その輪郭については、グレーゾーンをはさんで「記憶ならざるもの」と「非社会学」に接しつつも、ある種の理解可能な感覚をつうじて描きだされているように思う。けれども、この感覚とはどのような脈絡のうえにあるのだろうか。

 たとえば、この「記憶」のなかに「遺伝」はふくまれているのだろうか。おそらく私をふくめ、ほとんどの人は当然のようにそれを否定するだろう。遺伝はなによりまず生物学的現象であり──付随的には社会学的現象となるかもしれないが──、それじたいでは社会学的現象ではないから、というのがその理由となろう。けれども「社会ダーウィニズム」として括られてきたかつての叙述をすこし追えばわかるよう、遺伝とはもとから社会学から切り離された「生物学的対象」であったわけではなく、ある種の記憶ですらあったのだ。したがって、記憶という対象領域から遺伝を除外する現在の感覚の根拠は、対象そのものにそなわった性質というわけではなく、むしろなんらかの対象をそれとして切りだしている現在の視線のあり方におおきく依存していることが、ここから理解できる。

 したがって記憶の社会学を対自化するにあたり、「記憶」と「社会学」のいずれをも定数とみなしておくことはできない。むしろ記憶と社会学のいずれをも変数とするようなひろい脈絡のありようとその変容のなかで、両者がどう配置されてきているのかを見定めてゆく必要があると思われる。

報告概要

浅野 智彦 (東京学芸大学)

 本部会は、公募によるテーマセッションとして一日目の午前中に行なわれた。

 第一報告の高橋正樹さんは、目黒区で実施した調査データをもとに、ライフイベントが自伝的記憶をどのように形成していくのかについて分析してみせた。通常質的なものとされる自伝的記憶研究がどのように量的調査と結びつけられうるのかという方法論的観点からも興味深い報告であった。

 エルダド・ナカルさんによる第二報告は、戦後日本の漫画がどのように戦争を描いてきたのかを追跡するものであった。そこには「天上」から「地上」へというテーマの変遷がみられるのだが、報告者はここから戦争の社会的記憶の枠組みが神話的なものから世俗的なものへと変化したのではないかと推測する。

 第三報告の藤森啓さんは、8月15日の新聞社説を素材としてそこに用いられている想起の言説形式がどのように変化してきたのかを丹念に追い掛けている。ここでは想起は言説形式として把握されているのだが、時間的距離という変数がその言説形式にとって一次的な重要性をもつことが示された。

 第四報告の野上元さんもまた「戦争の記憶」を対象としている。が、その問いは独特の二重性をもっている。すなわち戦争の記憶について問うことが、同時に、集合的記憶がなぜ「戦争」という出来事において最もなじみやすい研究テーマとなるのかというもう一つの問いと重なりあっているのである。

 このメタ記憶論的な問いは、第五報告の浦野茂さんのテーマでもある。浦野さんは、19世紀末以来の遺伝学的な記憶論を取り上げ、それがいかにして<遺伝と文化>という構図に取り込まれていくのか、そしていかにして記憶が遺伝ではなく文化の問題へと組み替えられていくのかを描き出してみせた。

 会場とのやりとりも活発に行なわれた。主な論点としては、出来事と言説の関係、ある出来事をそれとして切り出す際の基準の問題(例えば沖縄における8・15と本土におけるそれとは違うのではないか等)、メディアの問題(なぜ漫画なのか、なぜ新聞なのか)、記憶の主体(誰の記憶なのか)等がある。時間的制約のために十分に議論し尽くせなかったが、今後(司会者も含め)参加者の仕事のなかで展開していければと思う。

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