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年次大会
大会報告:第51回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)

第5部会:市民・公共・日常世界  6/14 14:00〜16:30 [3号館3階331教室]

司会:藤田 弘夫 (慶応義塾大学)
1. ボードリヤール消費社会論から見るスノッブ 矢部 謙太郎 (早稲田大学)
2. リベラリズムと公共圏
−ロールズとテイラー−
板橋 亮平 (中央大学)
3. 「ポストナショナル」な市民権論の条件
−実質的市民権へのシフトの限界−
工藤 義博 (一橋大学)
4. 心的現象論 江川 茂 (茨城県立コロニーあすなろ)

報告概要 藤田 弘夫 (慶応義塾大学)
第1報告

ボードリヤール消費社会論から見るスノッブ

矢部 謙太郎 (早稲田大学)

 「スノッブ」とは、自分より上の地位にある人々への崇拝、自分より下の地位にある人々への軽蔑という両方の態度をとる人々を指す。スノッブがそうしたスノッブ的態度をとる際、必ず何らかの社会的序列またはヒエラルキーがスノッブ的態度の表出基準として採用される。このように定義されるスノッブは、ボードリヤールの消費社会論という枠組のなかでどのように扱われるだろうか。

 ボードリヤールにとって消費とは、他人から自分を区別するための記号としてモノを操作することであり、その場合、記号としてのモノはヒエラルキーのなかの地位上の価値として秩序づけられる。モノは、より「上の」地位への所属を示す差別的用具として操作され、記号による差異化の維持という原則にしたがって「上から下へ」浸透するが、大衆化によってその差別的効果が低下していく結果、ヒエラルキーの頂上において選別的に革新される。頂上におけるモノの革新によって、経済成長が促進されると同時に、特権と格差が維持される。他方で、富や所得の平等化は生産の増加によって達成されるという見通しが存在し、そうした平等主義的イデオロギーによって、経済成長が促進されると同時に、社会的差異の基準は富や所得から、知識や教養、消費のスタイルへと移行することになった。消費社会を形づくる「特権と格差の維持の要請」と「平等主義的イデオロギー」というボードリヤールの視点に基づき、消費社会におけるスノッブを考察する。

第2報告

リベラリズムと公共圏
−ロールズとテイラー−

板橋 亮平 (中央大学)

 周知のように、ジョン・ロールズの「政治的自由主義」に対して、「公共性」概念を持ちこみながら攻撃を向けたのが、社会学者ハーバーマスであった。このハーバーマスの批判に対して、真摯な応えをロールズは与え、さらにハーバーマスが再批判をすると言う「論争」が展開された(本論争についての意義の確認と分析は、別に論文として発表済み)。

 論争のポイントは、公共性概念がロールズ理論の中に適切に組みこまれておらず、近代の民主主義体制を特徴付ける「自律性」や「個人権」の平等に力点がおかれているため、真の政治的コンセンサスは得られるかどうか、ということであった。

 本報告では、再度、リベラルな社会における「公共圏」とはいったい何なのかを確定したい。というのも、ロールズとハーバーマスの間の論争は、どちらかと言えば、公共性と自律性が対抗しているものとして前提され(もちろん両者の間には相互作用が若干なりとも存在することは、両者ともに認めるものの)、リベラルな社会にとって公共圏が重要なファクターになることを議論しつつ、公共圏概念についての明確な確定をなしたとは到底言えないからである。そこで、報告では、チャールズ・テイラーを取り上げ、彼のリベラリズム批判をフォローするとともに、リベラルな社会にとっての必要条件たる公共圏確立への彼のロジックを、ロールズと比較しながらたどりたい。そのことによって、社会学における社会的文脈の中での個人という問題が、リベラルな構想といかにして接続されるか、が明らかになるはずであり、パーソンズ以来の行為論とシステム論との接合問題についても何らかの意味を与えるはずである、と確信する(なお、報告で扱うテイラー論文は、上のハーバーマス論争よりも以前の1992年に書かれていることに留意されたい)。

第3報告

「ポストナショナル」な市民権論の条件
−実質的市民権へのシフトの限界−

工藤 義博 (一橋大学)

 ナショナルな文脈に依存する制度によって、市民権の限界と可能性とが設定されることが広く認知される一方で、90年代を通じた権利主張の論点の拡大深化は、「(種差的な文化集団としての)マイノリティのための権利」という了解を許さないレベルに発展した。もちろん、政治経済的な環境変化によって、「国民の権利の不可逆的発展」という目標がもはや消滅したことも看過できない。ナショナルな市民権と、拡散を続ける市民権論の論点との懸隔は、柔構造状になっている。

 本発表では、ナショナルな市民権と「ポストナショナル」なそれとの関係を捉え直す「実質的市民権」の枠組みを措定することで、「ポストナショナル」な市民権を支えうる制度論的な条件について、分節化を試みる。

 具体的には、(1)複層的・多元的な市民権の現状を、人権と社会権の接近、公民権の居住権化、経済的市民権、文化的権利の四側面に分類し、(2)文化的市民権、多文化主義的市民権、環境市民権その他、多様化する市民権論が、ナショナルな市民権の制度とどのように関わるのか整理し、(3)特に義務との関連において、国籍から実質的市民権へと市民権の条件づけが変化していることを指摘し、(4)形式的市民権のメリットを再確認しつつ、そうした共通動向の限界を明らかにするのを結論とする。

 共和主義、自由主義、ラディカル民主主義などの立場の政治性を相対化するためにも、市民性や「パブリック・カルチャー」を支える社会学的な意味での制度が主戦場であることを、改めて強調したい。

第4報告

心的現象論

江川 茂 (茨城県立コロニーあすなろ)

 弾性の法則が存在する。弾性が強ければ強いほど元に戻る力が存在する。しかし弱くなると元に戻らなくなってしまうのである。それは人間の身体も同じで病因によって病気になっても元に戻る力が強いと健康になるが弱いと病気になってしまうのではなかろうか。スポーツはギャンブル性に及びておりスピードを競うものはギャンブルの競馬・競輪と同じく順位を争うものであり一発勝負のギャンブル性の強いものである。しかし学問の真理もギャンブルのようなものであり宝の山の宝をスピードを持って発見・発明する事である。人生とは何なのであろう。夢幻の世界か幻想の世界化それとも唯識の世界なのであろうか。存在の存在が問われているのである。人生の星とは何なのであろう。ペシミズムと村落共同体の関係とはいったい何なのであろう。存在の精神が問われているのである。いくら書いても何になるというのであろう。何の為に書くのであろう。いったいっになったら満足する事が書けるのであろう。私とはいったいいかなる人間なのであろう。どうして此の世に生を受けたのであろう。謎は謎を呼ぶのである。どうしてこの世に生を受けたのであろう。もし私が存在しなかったら私という人間はどうなっていたのであろう。存在の存在が問われているのである。人生とは儚いものなのであろうか。それとも虚しいものなのであろうか。

報告概要

藤田 弘夫 (慶応義塾大学)

 第一報告の矢部謙太郎(早稲田大学)
「ボードリヤール消費社会論からみるスノッブ」は、スノッブが、何らかの社会的序列にもとづいて他者との差異化をはかる自己呈示の仕方を明らかにしようとするものであった。報告者は消費社会におけるスノッブ的な態度の表出は商品の記号価値を媒介に行われ、それが経済成長を促進させると主張する。西欧のスノッブの概念は必ずしも解りやすいものではない。質疑も報告者のスノッブの概念に議論が集中することとなった。イギリスでは、社会学はスノッブな学問ではないようである。社会学者がオックスフォードやケンブリッツジなどのスノッブな人たちは、社会学を軽視しているとの言説に何度か出会った。

第二報告の板橋亮平(中央大学)
「リベラリズムと公共圏―ロールズとテイラー―」は、最近かまびすしい公共性論に合わせて、ロールズとテーラーの著作を検討するものであった。しかし取り上げられている文献がかぎられたものであったためか、かえってかれらの議論を背景として使ったリベラリズムとコミュタリズムのなかで俯瞰させることは、難しかったようである。このためか報告者が、せっかく政治と公共の関係で3つの問題点を指摘しながら、質疑がそこにおよばなかったことが心残りである。

第三報告の工藤義博(一橋大学)
「『ポストナショナル』な市民論の条件―実質的市民権へのシフトの限界―」は、マーシャルの議論と関連させながら、西欧で実質的な市民権の付与が、二級市民的な格差をともないながら進んできたことを明らかにするとともに、ナショナルな市民権とポストナショナルな市民権との関係を捉えなおす新たな市民権を模索しようとするものであった。質疑はもっぱら報告者の市民権の概念の多様性とあいまいさに集中した感があった。

第四報告の江川茂(茨城県立コロニーあすなろ)
「心的現象論」は人間の無意識の領域が録音化、映像化を課題としながらも、独自の思考を模索しようとするものであった。報告ではソクラテス、アリストテレスからM.ウェーバー、さらにはハリー・ポッターまでが扱われながらも、議論は通常の研究と大きく異なり、個人的な想いをユニークな論理で展開したものであった。

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