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大会報告:第51回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第9部会)

第9部会(テーマセッション):死と追悼の社会学−社会学は死をどのように扱いうるか?  6/14 14:00〜16:30 [3号館3階335教室]

司会:嶋根 克己 (専修大学)
1. 「不在」の構成
−父親の死について話しあうこと、子どもたちのばあい−
時岡 新 (筑波大学)
2. ある自死遺児にみる悲哀 遠藤 惠子 (城西国際大学)
3. 葬祭業者におけるサービス提供と感情労働 玉川 貴子 (専修大学)
4. 死をめぐる心情
−個人化された社会における死の文化−
中筋 由紀子 (愛知教育大学)
5. 忘却装置としてのメモリアルの社会的効用 元田 州彦 (東海大学)

報告概要 嶋根 克己 (専修大学)
第1報告

「不在」の構成
−父親の死について話しあうこと、子どもたちのばあい−

時岡 新 (筑波大学)

 あらゆる偶然のわずかな連鎖をのこらず辿っても、私はその一切にかかわりないと思われる人びとの死を、いく人かの、遺された子どもたちから訊いた。多くは父親の他界したあと、さまざまに時を経て、たがいに知り合うようになった子どもたちである。夏の数日間、一緒にすごし、ときには亡くなった父親、母親についても話す。闘病中、どんどん痩せ衰えて、いろんなものをつながれて。僕はなぜあのとき、お父さんの病室に行ってやれなかったんだろう。そうした言葉につづけて話される、かれらの不快な記憶。「お父さんの仕事なに?。死んで、いないんだ。あっ、ごめん」。「面接で言われたんですよ、思春期にお父さんを亡くして、それでもよく君は歪まずにここまで来たね、って」。

 父親が自死をえらんだ遺児たちへの取材。ここで出会って、語り合うと、どんな気持ちの動きが、変化が、発見があるのか。そこでなにが起こるんですか?。かれはいつものとおり、穏やかな顔でこたえた。「あの、トッキーさん〔報告者のこと〕、自殺って聞かれて、どうですか。僕のお父さん自殺した、って…」。

 父親の死とゆるやかに繋がるかれらの経験から、故人ではない、他の誰かとのやりとりを訊こう。独りきりだった頃のこと、見知らぬ遺児たちとの出会い。それらが、かれら自身と、故人と、“世間の人々”への思いをつくり、変化させてきたさまを紹介したい。

第2報告

ある自死遺児にみる悲哀

遠藤 惠子 (城西国際大学)

 死は、死者のまわりにいた、また死者を親しく感じていた者たちに悲哀(mourning)のいとなみを課す。悲哀とは、ボウルビィによれば「喪失後に生じる心理過程」と定義される。小此木啓吾は悲哀に当たる語としてフロイトの「悲哀の仕事(mourning work)」を用い、それは、対象喪失にともなう、錯綜した、思慕の情、怨み、憎しみ、償いの心などの反応をひとつひとつ体験し、解決していく自然な心のいとなみであると述べる。悲哀は、遺された者が個々の内面世界で、死者あるいはその死へのさまざまな思いにとりくみ、そのなかで死者の位置を割り当てなおし、死を受け容れていく過程であるといえるだろう。

 この悲哀のいとなみは、個人の内部でどのような様相をあらわしているのだろうか。本報告では、親を自死で亡くした者へのインタヴュー記録をもとに、ある個人の、悲哀のありよう、内的世界がどのようであるか、考察することによって、死の社会学、あるいは悲哀の社会学の可能性を模索することとしたい。

 インタヴューは、親の自死による死別体験、悲哀のありようを知ることを目的とした自死遺児調査の一環として行われた。本報告でみる自死遺児は、親の死が自死であることを誰かに伝えたいと思っており、同じ遺児たちとの関わりを求めた。親の死を伝達することに関心を持ち続けたことが、悲哀のいとなみのように思われる。これらは、どのような背景をうちに抱えているからだろうか。それらもあわせて考察することとしたい。

第3報告

葬祭業者におけるサービス提供と感情労働

玉川 貴子 (専修大学)

 日常的に死と関わる葬祭業者はサービス提供者としての一面をもつ。彼らの業務内容は大別して2種類ある。一つはセレモニースタッフが提供する儀式進行に関わる部分、もう一つは儀式執行のための諸交渉とそれに伴う営業活動である。両業務に携わるスタッフに共通して求められることは、落ち着いた態度と、丁寧かつ穏やかな話し方である。これはサービス業であれば、どんな業種にも求められる。ただ、こうした動作や雰囲気がサービス技術としてではなく、遺族と死者に対する「思いやり」と錯覚されるように実行されなくてはならない点が他のサービス業と違うところである。つまり単なる役務の提供だけではない+αの部分―遺族と死者の立場に立った親身な気持ち―というものをクライアントたちに想像させねばならないのである。遺族が彼らに望むことは、自分たちと同じ感情を持ちながらも自分たちが出来ないことをしてほしいということである。しかし、日常的な業務として「死」と関わっている営業担当者にとってはスムーズに下準備と商談を成立させることこそが一番の目的である。そのために営業担当者は遺族の感情をコントロールし、かつ「商談」をしていることを覚らせないようにしながら話をすすめねばならない。肉親を喪失した遺族の「非日常的な感情」は、葬祭業者が提供する「日常的サービス」の中に「入れ子構造」(藤村正之)的に包摂されている。

 報告者は、葬祭業者でのフィールドワークの成果をもとに、クライアントとサービス提供者の相互行為がどう生まれてくるかを報告していく。A.RホックシールドやE.ゴフマンを使って分析する。

第4報告

死をめぐる心情
−個人化された社会における死の文化−

中筋 由紀子 (愛知教育大学)

 本報告は、現代日本における「死者の記憶」=「追悼」をめぐる営みについて、人々が自己自身の死後をどう捉えるか、という側面から考察を試みるものである。

 現代に生きる私たちの日常生活は、「抽象的な可能的なものの場」としての「未来」との関連において営まれている側面をもっている(P.Bourdieu 1977=1993『資本主義のハビトゥス』p33)。したがって、現代社会における「死と追悼」を社会学的に考察する場合、これを誰にとっても確実な未来である「わたしの死」と関連づけて捉える視点が、可能でありかつ重要であると考えられる。

 本報告はこのような考察を、2つの文学作品を取り上げて試みる。ある主体が自らの死後をどのように捉えるかは、全く自由な主観的な過程ではなく、その想像力は、当該主体の帰属する社会の、諸種の追悼のための「文化装置」のもつ構造によって、制限されたものとなる。したがって、本報告はフィクショナルな事例を取り扱うものではあるが、そうした事例においても、そのような作家の想像力を絡め取る構造を考察することが可能であり、かつそうした事例こそが、そのような想像力の広がりと限界をよく表しているのではないかと考えられる。

 さて、本報告は、以上のような視点から、安岡章太郎「伯父の墓地」と三島由紀夫『宴のあと』という2つの作品を分析する。2つの作品は、主人公の入るべき、あるいは入るだろう墓を、各々2つの異質な心情によって捉えている。これを「郷里の墓に対する安堵の心情」と「孤独な活力の果ての無縁」として捉え、そのような想像力が成立する現代日本の追悼の「文化装置」の構造について考察を試みる。

第5報告

忘却装置としてのメモリアルの社会的効用

元田 州彦 (東海大学)

 メモリアル(記念碑・慰霊碑)は、単に過去や現在を「事実の痕跡」として留めるものではない。それは「特定の型の過去と将来とを媒介する手段」となる「一種の発話」(B. Anderson)である。だとするならば、その発話は、誰が誰にむけて発せられたものと考えることができるか。しかし、記憶の構築とその伝達・保存をめぐる当事者関係、すなわち記憶を作り出す側と想起を促される側との関係は、単純ではない。本報告で提起したいのは、メモリアルを媒介として成立する記憶と想起を担う主体間の共軛的関係が「記憶の死」として社会的忘却を生じさせうるという問題である。確かに、メモリアルは、過去の風化や忘却をくいとめ「過去の消化」を促す契機となりうる、と考えるのが一般的である。死の事実性との関連で言えば、メモリアルは、死者への追憶や悼みを喚起し、死者やその人物の死の記憶を風化させない装置として機能すると見なされるだろう。しかし、個人の死が社会的出来事として「社会化」する現代社会において、時としてメモリアルは、死者や遺された人のためではなく、情念の落とし所を求める観衆のための格好の受け皿と化する一方で、故人やその死に至る事実を想起することを阻み、人々の記憶を無化する契機になりうる。報告では、メモリアルが有する擬制として、集団的情念を喚起させる標本として個人の死を社会化する側面と、その社会化の中でその個人の死を忘却させていく側面に焦点を当てながら、テーマセッションにおける議論の展開に寄与したい。

報告概要

嶋根 克己 (専修大学)

 本テーマセッションの目的は、社会学はどのようにして死を取り扱いうるのかを考察するための一つの試みであった。

 時岡新氏(筑波大学)の「『不在』の構成――父親の死について話し合うこと、子どもたちのばあい――」は、自殺で父親を失った子供たちとの交流をもとに、「不在」の父親がいかにして生者に影響を与え続けているかをケーススタディによって描き出したものである。子供たちは父親の死因を他者に対して隠したがるが、しかしそれを誰かに語りたいとも思っている。このアンビバレントな気持ちは、自殺という死の特性をわれわれに考えさせる。

 遠藤惠子氏(城西国際大学)の「ある自死遺児にみる悲哀」も親を自殺でなくした子供たちのケースがもとになっている。親密な他者を亡くした人は、死者の位置を割り当てなおして、死を受け入れていかねばならない。あるボランティア・グループによる活動は、同じような境遇の子供たち同士が、それぞれに自分の思いを語り合う支援を行っている。時岡報告に続き特殊・個別的な事例群であるが、死者の記憶を反芻しながら死をいかに受容していくかのプロセスは一般的事例への適用が可能であろう。

 玉川貴子氏(専修大学大学院)の「葬儀業者におけるサービス提供と感情労働」は、葬儀会社での半年間の参与観察に基づいている。葬儀という遺族にとって非日常的な経験を円滑に進行させるために、葬儀業者は遺族の感情を、それと悟られないようにコントロールしなければならない。また業者自身も自らの感情を抑制し、「演技」的に振舞うことを要請される。葬儀業とは感情労働に他ならないという指摘は興味深い。

 中筋由紀子氏(愛知教育大学)の「死をめぐる心情――個人化された社会における死の文化――」は、「伯父の墓地」(安岡章太郎)と『宴のあと』(三島由紀夫)というふたつの文学作品に表れた墓への想念を題材としながら、そこに描かれた日本人の死生観の変化を近代化という視点から論じたものである。

 元田州彦氏(東海大学)の「忘却装置としてのメモリアルの社会的効用」は、メモリアル(記念碑・慰霊碑)が、記憶をとどめておくための手段であるように見えながら、実は「過去の消化」=忘却のための装置となっているというパラドックスを論じたものである。最近生じた大事件のための記念碑が、情念の落とし所を求める観衆のための受け皿と化し、人々の記憶を無化するという指摘は興味深い。現代社会における記憶と追悼のあり方を考える上での一つの視点を提供している。

 「生理的な死」を定義し考察するのは医療や生理学の仕事であろう。しかし死者の記憶が存続し、それが生者の内面や彼らを取り巻く社会関係に影響を及ぼすのであれば、それは社会学が探求すべき問題群である。今回は「死者に関する記憶」や「死者との相互行為」という観点から死についてアプローチが試みられた。

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