HOME > 年次大会 > 第52回大会(報告要旨・報告概要) > 自由報告 第5部会
年次大会
大会報告:第52回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)

第5部会:意識・身体・他者  6/19 14:00〜16:30 [120年記念館(9号館)7階978教室]

司会:桜井 洋 (早稲田大学)
1. 異性愛主義と「他者」の問題
---J. バトラーの「主体」観をめぐって---
大貫 挙学 (東洋大学)
2. 胎児・妊婦・身体 山本 理奈
(国立精神神経センター精神保健研究所)
3. 社会関係と意識
--- 無意識編成---
古谷 公彦 (政治経済研究所)
4. 心的現象の炎 江川 茂 (茨城県立あすなろの郷)

報告概要 桜井 洋 (早稲田大学)
第1報告

異性愛主義と「他者」の問題
---J. バトラーの「主体」観をめぐって---

大貫 挙学 (東洋大学)

 マルクス主義フェミニズムは、〈公的領域とそれを担う男性主体〉の外部に、〈私的領域とそれを担う女性主体〉を発見した。また近年のセクシュアリティ研究などによって、かかる公私二元論が異性愛を前提としていることも明らかになっている。だとすれば、「女性」が「男性」の「他者」であるとともに、「非異性愛者」は「異性愛者」の「他者」と言えるだろう。

 本報告では、異性愛主義社会における「主体」と「他者」の関係を再検討する手がかりとして、J.バトラーの「主体」観を考察する。性別カテゴリーの社会的構築を強調するバトラーは、M.フーコーの権力論を参照して、法による「主体」の産出を指摘するが、同時にまた、フーコーは権力の「抹消する」側面を考慮していないと批判する。この後者の点において、精神分析派フェミニズムと問題関心を共有するのである。しかし彼女は、一部のラカン派のように、言語の外部(たとえば「現実界」)に解放の契機を求めることはしない。むしろ、言語内的な誤認に、既存の秩序とは別様な「社会」の可能性を見出している(「想像界」の読み替え)。

 私見では、バトラーの所論は、「社会」の内部/外部の分離不可能性を示したものとして読むことができる。このような視点から、ジェンダー/セクシュアリティをめぐる「主体」と「他者」の問題を、「社会」の編成のあり方と関連づけて論じたい。

第2報告

胎児・妊婦・身体

山本 理奈 (国立精神神経センター精神保健研究所)

 中絶の是非が問われるとき、必ず問題となる争点のひとつに、胎児をどのように捉えるのかという問題がある。端的に言えば、「胎児はモノ(客体)なのか、あるいは人(主体)なのか」という問いである。前者の場合、胎児は妊婦の身体の一部と見なされ、妊婦の所有物として捉えられる。これに対し後者の場合、胎児は妊婦とは別個独立の権利主体として捉えられることになる。

 とはいえ、ここで注意すべきことがある。それは「胎児はモノなのか、それとも人なのか」という問題の立て方それ自体が、胎児という存在はそのような二分法的思考では捉えられない曖昧な存在であることを、前提にしている点である。なぜなら、モノか人かが自明であれば、この問いの成立する可能性はないからである。したがって、胎児が二分法的思考では捉えられない曖昧な存在であることは、むしろこの問いが成立するための条件なのであり、おそらくこの問いを発動させた問題意識は、その曖昧さの解消にあるといえるだろう。

 もとより、胎児がこのような二分法的思考では捉えられない曖昧な存在であることは、すでに先行研究において指摘されている。したがって問題は、二分法的思考に陥らずに、胎児という存在を捉えるには、どうすればよいかということである。またこの問題は、より根源的には、身体をどのように捉えるのかという問題と不可分である。本報告ではその点に留意しつつ、先行研究の射程と限界を明らかにすることにしたい。

第3報告

社会関係と意識 --- 無意識編成---

古谷 公彦 (政治経済研究所)

 無意識へのアプローチを探るに当たって身体(有機体)の統合性に着目し、メルロ=ポンティ・市川浩流の「行動の構造」を感覚神経系・運動神経系・自律神経系・中枢神経系の重層的統合との対応において捉え、同時に「間身体性」を基盤とした「社会統合」を、それぞれの有機体が「強ゲシュタルト」として包摂されながらそれぞれの神経系が結節となっている(弱)ゲシュタルト統合として把握する。それぞれの有機体の前頭連合野の自己モニター機能を可能にするのはその社会統合において分節化する対他−対自関係である。そこではパースペクティブ構造を備えた現象野の「自己感覚・自己概念」(さらに対をなす「(重要な)他者感覚・他者概念」)を核とした情緒的・文脈的な統合(時間的には物語的統合)が、その図−地連関の布置構造を規定している。それぞれの現象野が相互に絡み合う場におけるそうした図−時連関の交錯が社会的な意識−無意識編成を構成している。

 行動の構造の各々のレベルにおける対他−対自関係が間主観性の構造(世界の共同主観的存在構造)の形式的枠組みを構成すると同時に、その枠組みにおける情緒的ゲシュタルト編成が(抑圧体制などの)意識−無意識編成の具体的なあり方を規定している。形式的枠組み自体の歴史的編成、とりわけ伝統的共同体から資本主義近代への移行における競争的社会関係の全社会的な貫徹への変化が根底的な構造を規定しているが、行為論的には情緒的ゲシュタルト編成における無意識の規定性への働きかけが構造変動の可能性をもたらす。

第4報告

心的現象の炎

江川 茂 (茨城県立あすなろの郷)

 エロスとパトスとロゴスは矛盾相克、二律背反化しているのであろうか。努力は継続を生み飛躍させるのである。人間の精神は頭の中で捉えている限り頭の中でだけ働いており自然との接点はないのであろうか。頭が束縛しているのかもしれないのである。頭とは全て身体と社会と自然との接点とはいったい何なのであろう。人間は生き方がへただ。面白くない事が面白く、面白い事が面白くないのだ。皮肉ぽいのであろうか。面白くない事は面白くない。面白い事は面白いと捉えるのが本当なのであろうか。何故絵や文章を著述していてセックスのように楽しさとか、快楽があまりないのであろう。根本的には芸術も性も同じなのではなかろうか。そのような所から出発しなくてはならないのではなかろうか。共同体の彼方に存在するのは何なのであろう。共同体から共同体という現象の中で何が存在するのであろう。それは共同体的状況なのではなかろうか。生と知性の乖離とは距離が拡がるという事なのではなかろうか。生と死が拡がるという事なのである。精神的失踪というものが存在する。存在するものが存在する事によって存在しているのではなかろうか。そのような意味からも共同体状況とはあらゆる状況に対応しなくてはならないのではなかろうか。

報告概要

桜井 洋 (早稲田大学)

 当部会では以下の報告が行われた。

 1. 大貫拳学(東洋大学)「異性愛主義と『他者』の問題 ―― J.バトラーの『主体』観をめぐって」
 2. 山本理奈(国立精神神経センター精神保健研究所)「胎児・妊婦・身体」
 3. 古谷公彦(政治経済研究所)「社会関係と意識 ―― 無意識編成」
 4. 江川茂 (茨城県立あすなろの郷)「心的現象の炎」

 大貫報告はJ.バトラーの理論を手がかりとしながら異性愛と他者について論じた。バトラーはフーコーやラカン派の知見の批判的摂取の中からジェンダーに関する新たな見解を展開した。本報告はバトラーの立場を紹介しつつ新たな知見を加えた。フーコー以来の「主体」の概念を、むしろ「(非)主体」の側から照射することでジェンダーという構築を浮き彫りにしようとしたものである。

 山本報告は妊娠という経験における自己と他者の関係を表現をテーマとしている。自己において新たな生命としての他者が内在することは、単に「自己と他者」という枠で表現することができない、経験的なリアリティをもつ。このリアリティを山本は「懐胎する身体」と呼び、このリアリティの的確な記述が必要であると述べた。

 古谷報告は無意識の領域を社会学的な討議の対象とするための理論構築の試みである。古谷によれば社会現象は意識−無意識の編成に関わるものであり、対自と対他の関係も無意識を論じることで初めて明確な理解が期待できる。これまで社会学では無意識は主要なテーマではなかったが、無意識理解のための理論が必要なのである。本報告では哲学・心理学を始めとして広範な領域の知見が参照され、無意識領域へのアプローチが試みられた。

 江川報告はエロスやパトスとロゴスの関係についての問題提起である。社会学は、あるいはおよそ学問は、少なくとも近代においてはロゴスの学として展開してきたのだが、その陰でエロスやパトスは文学の問題として学問の視野から遠ざけられたといえよう。本報告はエロスやパトスを学の問題として捉えようとする試みである。

▲このページのトップへ