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研究例会
研究例会報告: 1995年度
1995年度 第1回

開催日程

テーマ: オウム現象にみる日常と非日常
担当理事: 嶋根 克己(専修大学)、西阪 仰(明治学院大学)
研究委員: 藤村 正之(武蔵大学)、奥山 敏雄(筑波大学)
日 程: 1995年12月2日(土) 14:00〜17:00
場 所: 立教大学 5号館 第1会議室
報 告: ●佐藤 俊樹(東京工業大学) 「オウム事件における『現実』の位相──オウムをめぐる言説空間の分析───」
●土井 隆義(筑波大学) 「「停滞した社会と終末意識──『オウムの犯罪』はなぜ魅力的なのか──」
司 会: 嶋根 克己(専修大)

研究例会報告

担当:嶋根 克己(専修大)

 1996年度大会テーマ部会「オウム現象にみる日常と非日常」に向けて、佐藤俊樹氏(東京工業大学)「オウム事件における『現実』の位相──オウムをめぐる言説空間の分析───」、土井隆義氏(筑波大学)「停滞した社会と終末意識──『オウムの犯罪』はなぜ魅力的なのか──」の2報告がなされた。(1995年12月2日(土)、立教大学、司会;嶋根克己)

 佐藤氏の問題意識は、オウム事件を語る言説が、1995年夏までに「爆発的増殖」を示したにも関わらず秋以降には「急速な収束」を見せた背景には、オウムをめぐる言説には「失効を発生させるメカニズムが存在」しているのではないかという点にある。地下鉄サリン事件に始まる一連のオウム報道は、事態の解釈をめぐって「一億総オウム評論家」状態を引き起こした。しかしこの段階では、情報は断片的なものでしかなく「真偽の決定が不可能な」「解釈ゲーム」状態が生み出されることになった。しかし坂本弁護士一家の死体が発見されると、「解釈ゲームのなかに『現実』という新たなリアリティの定点が発生」し、「解釈ゲーム」は急速に終焉してしまう。つまりここには「解釈の部分性と過剰性がつくりだす言説の困難」という現代的な状況がはらまれているのである。

 土井氏は、オウム真理教が多数の信者を獲得した背景には、高度成長期以後の「停滞した社会状況」があると主張する。「豊かな社会」においては、「物質的豊かさ」はもはや達成されるべき目標ではなくなってしまった。そこには「豊かな社会における自我喪失」ともいうべき社会状況が生まれてきており、若者は従来の価値観に代わる新たな「フロンティア」を求めている。それは現状を打開すると信じられた「非日常」的なるものであり、具体的には、終末後の世界や変容可能な身体として信者の前に提起されたのである。オウム事件の背景には停滞した社会を打開しようとする願望が潜んでいるのであり、それはわれわれの潜在的な欲望の鏡像に他ならないのである。いずれの報告もスリリングな論点を提起しており、30人を超える出席者とともに活発な意見交換がなされた。今回の研究例会での成果を踏まえて、大会当日にはオウム真理教の教義にまで踏み込んだ議論を展開していきたいと願っている。

1995年度 第2回

開催日程

テーマ: 広域と局域を架橋する
――エリア・スタディとカルチュラル・スタディズの対話――
担当理事: 町村 敬志(一橋大学)、舩橋 晴俊(法政大学)
研究委員: 吉瀬 雄一(関東学院大学)、池田 寛二(日本大学)
日 程: 1996年1月27日(土) 14:00〜17:00
場 所: 立教大学 12号館 第2会議室
報 告: ●柄澤 行雄(常磐大学) 「エリア・スタディにおけるグローバルとローカル」
●小川 葉子(明治学院大学) 「グローバライゼーションと現代社会理論――時間―空間はいかにして可視化されるか――」
討 論: 若林 幹夫(筑波大学)、池田 寛二(日本大学)
司 会: 町村 敬志(一橋大学)

研究例会報告

担当:町村 敬志(一橋大学)

 1996年1月27日(土)午後2時〜5時半、立教大学12号館第2会議室において、「広域と局域を架橋する――エリア・スタディとカルチュラル・スタディズの対話――」をテーマに研究例会が開催された。今日、社会理論・社会研究は、グローバル化や情報化など「広域のリアリティ」と身体やアイデンティティなど「局域のリアリティ」という2つの焦点の間で、大きく分極化する傾向にある。両者の中間で立ち現れる「社会的なもの」をいかに対象化し、どのような言葉でそれを表現していくか。本研究例会では、こうした課題を考える出発点として、地域研究(エリア・スタディ)とカルチュラル・スタディズを取り上げ、それぞれにおける<グローバル―ローカル>の問題を多角的に検討した。「エリア・スタディにおけるグローバルとローカル」という題目で報告した柄澤行雄氏(常磐大学)は、社会学における地域研究の系譜をたどった上で、「エリア」のもつ個別性の把握をまず第一にめざし、これを世界史的文脈に位置づけていくことの重要性などを主張した。また「グローバライゼーションと現代社会理論――時間―空間はいかにして可視化されるか――」という題目で報告した小川葉子氏(明治学院大学)は、グローバル化の諸理論を整理した上で、グローバル化にともなう「時間―空間の再編成」過程を、日常生活者の言説をめぐるエスノグラフィ的研究によって明らかにする興味深い研究事例を提示した。討論者の若林幹夫氏(筑波大学)と池田寛二氏(日本大学)からは、ローカルとグローバルの相互反転関係(例、「ローカル」の発見という行為自体が「グローバル」な基盤の上にある)、「地域」概念自体の文化的・政治的拘束性などについての指摘がなされた。ついでこれらを踏まえ、参加者(23名)の間で活発な討論を行った。議論はなお継続中ではあるが、いずれにせよ具体的なフィールドの中における主体の経験からこのテーマを考えていくことの重要性が確認された。大会においてもこの点を踏まえて、さらに検討を深めていきたい。

1995年度 第3回

開催日程

テーマ: 身体と社会のインタラクション
担当理事: 庄司 洋子(立教大学)、池岡 義孝(早稲田大学)
研究委員: 清水 新二(国立精神保健研究所)、市野川 容孝(明治学院大学)
日 程: 1996年3月2日(土) 14:00〜17:00
場 所: 立教大学 5号館 第1会議室
報 告: ●加藤 まどか(東京大学) 「現代日本社会における身体とジェンダー」
●加藤 篤志(早稲田大学) 「社会学における「親密性(intimacy)概念」
討 論: 柄本 三代子(早稲田大学)、市野川 容孝(明治学院大学)
司 会: 庄司 洋子(立教大学)

研究例会報告

担当:庄司 洋子(立教大学)

 1996年度大会テーマ部会「身体・関係性・社会」にむけて、研究例会「身体と社会のインタラクション」が開催された(3月2日(土)午後2時〜5時半、立教大学、司会:庄司洋子)。加藤まどか氏(東京大学)による「現代日本社会における身体とジェンダー」、加藤篤志氏(早稲田大学)による「社会学における「親密性(intimacy)概念」の二つの報告があり、討論者の柄本美代子氏(早稲田大学)、市野川容行氏(明治学院大学)からのコメントを得たあと、参加者の間で意見交換が行われた。

  加藤まどか氏は、現代日本社会における身体の問題をとらえるための、個人と社会の基本モデルを示し、「主体性」をめぐる規範の矛盾構造に注目するところから抽出される古典的近代社会モデルと現代社会モデルの対比、現代社会モデルを用いて読みとることができる現代日本社会の現象、という手法を採用している。氏は、いくつか具体的な現象を例示しながら、現代日本社会の諸領域において、「自己の物語」が「自己の生きられた経験」を十分に現していないということが、問題として感受されつつあることを指摘し、その前提にある自己と他者の情緒的依存関係の2類型から、自己の身体への知覚とジェンダーのかかわりを説明した。

  加藤篤志氏は、ギデンスの「親密性」の概念が、私的な領域や感情の領域の問題ではなく、社会全体の構造と関連性をもち、近代化論の一環として扱われることの意義を強調する。氏は、ギデンスが概念化した「純粋な関係性」への志向の意味を明確にするため、ベラーらやハバーマスの「共同体」志向にふれるとともに、セルフヘルプの現場から導き出された「共依存」の関係性に注目する。氏は、セルフヘルプ的な文脈とギデンスの近代化論との間に共通するものをみいだし、親密性の概念が、共同体原理と同一視されてはならない多重な意味合いをもつものであることを指摘している。 テーマの中心にある「身体」をやや遠巻きに論ずることとなった例会ではあったが、報告や討論の内容を活かしつつ、「身体」を議論のなかにより確かに位置づけるという大会に向けて、課題に取り組みたいと思っている。

1995年度 第4回

開催日程

テーマ: 社会学者はなぜ理論化するのか
担当理事: 西原 和久(武蔵大学)、森田 数実(東京学芸大学)
研究委員: 奥村 隆(千葉大学)、椎野 信雄(東京都立大学)
日 程: 1996年4月6日(土) 14:00〜17:00
場 所: 立教大学 12号館 第2会議室
報 告: ●皆川 満寿美(武蔵大学・聖心女子大学他非常勤講師) 「社会学者は理論化作業において何をやっているのか」
●菅原 謙(早稲田大学大学院) 「メタ理論について」
●鈴木 健之(中央大学附属高等学校講師) 「ネオ機能主義とアメリカ市民社会―パーソンズからアレクサンダーへ」
司 会: 奥村 隆(千葉大学)

研究例会報告

担当:奥村 隆(千葉大学)、西原 和久(武蔵大学)

 「行為と認識」部会の研究例会「社会学者はなぜ理論化するのか」は、4月6日(土)に立教大学で開催された。「社会学理論」はいま、どんな課題を引き受け解明するために存在しているのか。それは他の理論や外の世界に「開かれた言葉」をもちえているのか。この問題提起に対し、各々ある面を際立たせる興味深い3報告がなされた。

 皆川満寿美氏(武蔵大学非常勤講師)「社会学者は理論化作業において何をやっているのか」が際立たせたのは、あるテクストを理論として読ませるディバイス(仕掛け)であり、それは書き手がそう書き、読み手がそう読むワーク(実践)である。本報告では、エスノメソドロジーによるテクスト分析という作業を通じて、社会学を社会生活のなかに埋め戻すという課題や、社会学理論の読み手や書き手は誰で、社会のどこに位置しているのかという問いが示された。菅原謙氏(早稲田大学大学院)「メタ理論について」は、メタ理論を擁護しながら、次のような理論像を提示する。理論はある一面の情報処理を可能とする道具であり、他の考えや他の諸理論と補完的である。それは状況のなかでの実践、戦略であって、誤りの可能性を含む。この報告では、理論をそれが位置する実践状況に引き戻して評価する「批判−修辞学的メタ理論」がますます必要だと主張された。鈴木健之氏(中央大学附属高校講師)「ネオ機能主義とアメリカ市民社会―パーソンズからアレクサンダーへ」は、この二人をこう対比する。アメリカ的価値(普遍主義)を信じ、普遍的に応用可能な機能主義を説くパーソンズ。ウォーターゲート事件等で普遍主義の困難を経験し、機能主義はワン・オブ・ゼムで他との対話の場としてのメタ理論の構築を重視するアレクサンダー。ここでは、理論を置き戻す文脈としてアメリカ市民社会が際立たされた。

 こうして、異なる立場を背景にする3人の報告者は、理論を位置づける場所として別の方向を指さす。それ自体、各報告のすぐれた内容とともに、興味深いことである。だが、同時にこれは共通の問いを立てることの困難さも示している。報告のあと、参加者(38名)からの質問、報告者間の討論がなされたが、報告内容への質問が中心となった。より具体的な共通の問いの設定が、部会の課題であるといえよう。

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