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年次大会
大会報告:第42回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会 III)

 テーマ部会 III:身体化部会 「死の社会学」−医療・宗教・家族の視点から−
 6/12 14:00〜17:15 [3号館3212教室]

司会者:有末 賢 (慶應義塾大学)
コメンテーター:市野川 容孝 (日本学術振興会)  嶋根 克己 (専修大学)

部会趣旨 有末 賢 (慶應義塾大学)
第1報告: 死に介入する医療と日本社会 島 次郎
(三菱化成生命科学研究所)
第2報告: イニシエーションの再生は可能か 島田 裕巳 (日本女子大学)
第3報告: 家族社会学と死をめぐる研究 池岡 義孝 (早稲田大学)

報告概要 有末 賢 (慶應義塾大学)
部会趣旨

有末 賢 (慶應義塾大学)

 現代社会の論点の一つとしての「死」をめぐる議論は、確実に人々の関心を引き付けて議論の輪が拡大している。しかし、ひるがえって社会学の場において「生と死」を巡る議論は、いまだにそれほどの活発さを示してはいない。先端医療や臓器移植の問題にしても、生命倫理、宗教観などの人文科学の分野か、あるいは、法医学、刑法などの領域では専門家同士の議論が見られるが、社会学者としての見解についてはコメントを求められることもそう多くはない状況である。

 今回のテーマ部会では、末期医療の体制や医療政策の日米比較、死と再生を巡る現代社会の宗教的分岐点、そしてなぜ家族社会学は死の問題を扱ってこなかったのかなど、領域としては医療、宗教、家族の三つの分野から問題が提起される。脳死や臓器移植問題への医療と社会の相互関係、現代日本社会におけるイニシエーションとしての「死と再生のドラマ」や戒名・葬送の自由を巡る問題、また日本の家族における墓や葬儀の意味など、総じて「死の受容」を通して現代日本社会の論点を抽出してみたいと考えている。

 近代社会科学総体が抽象的な意味での人間、理性、人権などの諸概念の下で構成されてきたわけであるが、生命の誕生と死というまさに始点と終点については、自然科学的知識にゆだねてしまった。したがって、新たな合意形勢という課題は、思いのほか困難な問題にぶつかっている。社会・文化構造にとっての死の問題を現代生活の現場から抽出し、次第に論理的、哲学的課題にまで展望していきたいと考えている。

第1報告

死に介入する医療と日本社会

島 次郎 (三菱化成生命科学研究所)

 日本では1980年頃まで、事故、犯罪、戦争などによる死は別にして、公の場で死が語られることはほとんどなかった。それが1980年代の半ばには、「死について語ることはタブーだったが・・・」と前置きして死について語ることが、マス・メディアで定着し始めた。そして1990年代に入ると、死のテーマはすっかりメディアの定番、売れ線になった。時代の移り行きの早さを痛感すると共に、すべてを自らの一要素として飲み込む高度消費社会のたくましさを見る思いがする。

 私は脳死・臓器移植問題を具体的な素材として、日本社会のこうした変化のありさまと、その意味、背景を知ろうと努めた。葬送儀礼の調査を通じて、脳死・移植論議でしばしば言われる「日本独特の死生観」の中身とその現在の変化を探る一方で、末期医療の体制や医療政策の決められ方といった具体的な制度の日米比較を通じて、何が日本に欠けているのかを探った。その結果、日本でもアメリカ同様価値観・死生観は多元化しており、日本で脳死・移植の受容が進まない理由は、「特殊な死生観」の問題ではなく、医療全体の制度的・体制的な不備にあるとの結論に達した。日本の医療は、コ・メディカルなど現代医療が必要とする基礎体力のある部分を欠いているのである。

 それに加えて意志決定のあり方、とりわけ国政レベルの政策形成の手法が日本では非常に未発達なのが最大の問題点で、これは医療を越えたより一般的な問題に通じることだろう。専門的な科学技術情報と、多様な立場からの意見を摂取し集約し、一致点を絞り込むという筋を貫く主体がなかったことが、日本で脳死・移植問題がここまでこじれた一番の原因である。過剰に世論調査の数字によりかかる政策手法は、欧米諸国に比べて日本の目立った特徴になっている。

 先端医療に対して、欧米では人の生まれる方の問題に議論が集中するのに、日本では死ぬ方に集中するのも際だった相違である。ところが日本では死の社会学も、医療社会学一般も不思議なほど不活発である。この落差は何なのか。そのあたりから、日本の社会と社会学の本質を探る議論ができればと願っている。
  文献:□島 「脳死・臓器移植と日本社会」弘文堂、 1991年。

第2報告

イニシエーションの再生は可能か

島田 裕巳 (日本女子大学)

 一躍、アンドリュー・ロイド=ウェーバーをミュージカル界の寵児に祭り上げた「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、まさに60年代から70年代にかけてのヒッピー文化が生みだしたロック・オペラだが、その結末においてジーザスは、「私の魂を御手にゆだねます」ということばを残して息絶えたあと、ついに舞台の上において復活することはなかった。現代は、復活というキリスト教信仰の核心を不条理な現象として切り捨ててしまったことになるが、それはキリスト教の枠を越えて、現代の人間に大きな影響を与える事となった。

 キリストの犠牲と復活は、死と再生のドラマにほかならない。あらゆる宗教は、この死と再生のモチーフから出発し、それを物語として表現したものが神話であり、儀礼として演じたのがイニシエーションであった。「ジーザス・クライスト・スーパースター」において、復活が切り捨てられたと言うことは、現代から再生への信仰が失われたことを意味する。

 再生の希望を失った死は、グロテスクな虚無でしかない。現代の人間は、死や死体といった無機的な現象や物体に関心は寄せても、再生への可能性を含んだ死をイメージすることができない。現代がイニシエーションなき時代だといわれるのも、死が再生と切り離され、イニシエーションの一過程として位置づけられなくなったからである。私たちは、「ジーザス・クライスト・スーパースター」に限らず、現代の芸術的な表現や文学の世界にイニシエーションの喪失を見ることができる。

 果たして、再生への希望を”再生”させることができるのか。宗教学におけるイニシエーション論の視点から、現代の日本社会における死の問題について考えてみたい。

第3報告

家族社会学と死をめぐる研究

池岡 義孝 (早稲田大学)

 戦後の家族社会学は死の問題をあまり扱ってこなかった。ある学問分野の研究領域の広がりはその分野のテキストに典型的に示されているが、従来の家族社会学のテキストでは老親扶養までは扱われていても、その後にかならず生じる死や葬儀、墓の問題が扱われることはほとんどなかった。これは、戦後の家族社会学が学問の専門分化によって、死をテーマとする研究を宗教社会学や老年社会学にゆだねたことと、アメリカの家族社会学の影響を強くうけて、夫婦家族をモデルとする結婚および集団としての家族の構造と機能の研究を中心テーマにすえたことの結果ではないだろうか。家族社会学はアメリカの研究の影響と専門分化によって大きな研究成果をうみだしたが、それが故に省みられなくなった研究領域も同時に派生させてきたのではないか。死に関する問題は、まさにそうしたテーマだと思われる。これが報告のひとつの論点である。

 もうひとつの論点は、死や医療をめぐる問題と家族とのかかわりをどうとらえるかである。現代社会では、高度化した医療の優越性と個人主義への高い価値づけによって、医療サイドの決定権と患者自身の自己決定権がきわめて重視されるが、患者をとりまく家族の役割や権利・義務を、それらとの関連でどう考えるかという問題がある。いわゆる「臓器移植法案」のなかでは、本人の意思が確認されない場合には、家族の判断で臓器摘出が可能になるという方向での法制化が進行しているが、そこで想定されている「家族」とはどのようなものであろうか。家族がゆらいでいるといわれ、それに呼応して「法的家族」ではない社会学的な意味での、誰にとってのどのような家族なのか、という議論を家族社会学は準備しなければならないのではないだろうか。

報告概要

有末 賢 (慶應義塾大学)

 死についての社会的関心は非常に高まっている。しかし、社会学の領域での現代的な「死と自己決定権」についての主体的な取り組みは今までほとんどみられなかった。そこで、今年のテーマ部会においては医療、宗教、家族の視点から死を社会学的に考察する意味と定義について考えてみた。

 第1報告者の島次郎氏(三菱化成生命科学研究所)からは「死に介入する医療と日本社会」として、「伝統的な死生観、社会的基盤が失われてきて、不安定な状態になってきたことと、死後のあり方についての個人の「自由度」が高まってきたこと」が相互補完的に進行している現状についての解説がなされた。そして、世論調査などでは、条件付ながら臓器提供への承諾が増えているが、医療体制と政策形成や合意形成のシステムの問題が大きいと指摘された。

 第2報告者の島田裕己氏(日本女子大学)は、「イニシエーションの再生は可能か」について、最近の「死ブーム」は、観念の世界の中での「死のイメージ」の増大であると指摘された。そして、現実の世界での他者にゆだねるべき死をも自己の中に取り込んでいこうとする傾向は、イニシエーションの再生がもはや不可能にさえ思えてくると述べられた。

 最期に池岡義孝氏(早稲田大学)は、家族社会学と死をめぐる研究」と題して、「戦後の家族社会学は死をめぐる問題をなぜ扱わなかったか」、そして「いまなぜ家族社会学の研究に死をめぐる問題が必要か」を話され、そして,相互作用論的な研究としてクリティカルな役割移行、墓や葬送儀礼の研究、墓や葬送儀礼の研究、士別体験と死生観の形成などのいくつかの具体的な研究テーマについても解説された。

 後半の討論では、コメンテーターとして市野川容孝氏(日本学術振興会)からは、死を支える文法の問題や他者との関係性としての死という問題提起がなされた。もう一人のコメンテーター、嶋根克己氏(専修大学)からは、生物学的な意味での死と区別される社会学的な意味での死について、家族、世代などの観点からコメントがなされた。100名近い参加者からも、いくつかの質問や討論の問題提起がなされ、今後の展開が期待されているようである。

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