HOME > 年次大会 > 第43回大会(報告要旨・報告概要) > テーマ部会 III
年次大会
大会報告:第43回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会 III)

 テーマ部会 III 「権力のアクチュアリティPart II」
 6/11 14:00〜17:15 [1号館201教室]

司会者:似田貝 香門 (東京大学)  西原 和久 (武蔵大学)
討論者:西阪 仰 (明治学院大学)  大澤 真幸 (千葉大学)

部会趣旨 似田貝 香門 (東京大学)
第1報告: エスノメソドロジーと権力の問題 山崎 敬一 (埼玉大学)
第2報告: ポスト・フーコー的理論状況における「権力」概念の探求 中野 敏男 (茨城大学)
第3報告: 権力理論は権力概念を消滅させる。 志田 基与師 (横浜国立大学)

報告概要 西原 和久 (武蔵大学)
部会趣旨

似田貝 香門 (東京大学)

 今年で2年目にはいる理論部会(研究例会を含む)の権力論は、これまで権力の使用が高度に人々の戦略に関わっていることから、その戦略行為を分析することが不可欠とし、対象となる権力現象の確定、理論の構築、実証の実施へと至る手続きの確定、を課題とするという考え方や、権力現象をどのように分析/記述するかという問いから、M・フーコーの「権力―知」をレファレンスとする近代の一定の権力戦略を科学的に解明しようとする立場や、ルーマンの「権力の予期」問題、P・ブルデュウの「認識の誤認性」問題等をレファレンスとしながら、日本の社会のさまざまな領域の権力現象を爼上にのせることが期待される。近代における「個別化」、「プライバタイゼイション」というモメントは、個人を一定の権力戦略の対象として措定し、その上で政策・科学的に解明されるべき対象としての個人を想定し、そこから個人を管理する(自己管理を含む)諸近代科学の知性が確立していく。こうして形成・構築された市民・住民を管理する知性は、ディスクールとして成立し、不断に市民生活に介入する領域を創設することによって、「個人」を創設させようとしてきた。

 今大会では、昨年の大会でのエスノメソドロジー的権力批判に対する反批判(山崎敬一〔埼玉大学〕)、理論戦略としては行為論とシステム論との交差の裡に、非対照的社会関係のなかで「正当性」・「妥当性」の問題をどのように扱い、フーコー的権力論をどのように批判的に取り扱うか(中野敏夫〔茨城大学〕)、あるいは権力現象の説明を行うに当たり、権力の存在を前提とせず、したがってそのための権力理論の存在を否定するまったき合理的選択理論の立場からの論述(志田基与師〔横浜国立大学〕)など昨年にもまして多彩である。コメンテイターとして西阪仰〔明治学院大学〕、大澤真幸〔千葉大学〕両氏にお願いした。活発な討議が期待される。

第1報告

エスノメソドロジーと権力の問題

山崎 敬一 (埼玉大学)

 この報告では、エスノメソドロジーとは何かという問題に対して、従来の社会学者の抱いていた見解とは違った、一つの答えを出したい。さらに従来「社会構造」とか「権力」の問題と呼ばれてきた問題に対して私流の接近を計りたいと思う。

 ここでは特に、ある場面の中で、人がどのようにして自分や他の人をそれぞれの意志とは独立的に、ある仕方で見るようになるのかという問題を考えてみたい。この問題はエスノメソドロジーの中ではカテゴリー化の問題と呼ばれてきた。カテゴリー化の問題は、当然、その場面における行為の問題とも関連する。人は、どうしてそれぞれの意志とは独立的な仕方で、ある場面である仕方で行為するのか。この問題は、従来の権力の問題とも一致する。

 またこの報告では、そうした問題を、一般的な理論としてではなく、「性別」に関連したカテゴリーの実際適用の問題や、「障害者」や「介助者」というカテゴリーの適用問題を例に、なるだけ具体的な仕方で考えていきたい。

 さらに、そうした具体的な例を通して、どのようにしてある場面の中で適用されたカテゴリー化の仕方が、その場面を離れた別の場面でも適用可能になるのかという問題も考えてみたい。そしてそうした問題を、研究者はいかにして研究できるのかという問題も考えてみたい。

第2報告

ポスト・フーコー的理論状況における「権力」概念の探求

中野 敏男 (茨城大学)

 「権力」について理論的に考えようとするとき、今日では、ミシェル・フーコーの提示した「規律訓練‐権力」という権力概念を無視するわけにはいかない。この権力概念は、これまで行為者を抑圧し行為選択を強制するものとしてのみ捉えられがちであった権力の作用を、むしろ、当の行為者の「主体」そのものを育成するところにも感知して、われわれの権力への視野を決定的に広げたからである。もはやわれわれは、自立的な選好をもって行為選択をなす主体をあらかじめ前提にするような、いかなる権力の定義からも出発できなくなっている。権力理論は、今や、根本からの組み替えを要請されているのである。

 とはいえ、フーコーの権力概念自体には、他方で、ある重大な難点があることも否めまい。というのは、権力の存在領域を拡張して捉え、むしろ、その遍在性の主張に至るこの権力概念は、これまでの権力理論が主要な任務としてきた権力の「不公正」なあり方への〈批判〉という課題に対して、十分な対応力を持つようには思われないからである。「主体」を育成する権力は、行為の選択可能性を制限することによって、主体の行為能力の有効射程を確定し、むしろそれによって、「自由」な行為を可能にもするものだ。すると、このような権力が、どこから、また、いかにして、「過剰な権力」や「不当な権力」に転じてゆくのか。フーコーの権力概念では、その点を示すことができない。

 そこで本報告では、権力理論におけるフーコーのこの意義と限界を踏まえ、そこからさらなる展開を期しうるような「権力」概念の創生に向けて、若干の検討を試みたい。検討の出発点となるのは、「パートナーに不確実性を生み出すとともに、それを除去する」という、コミュニケーション上の機能から始めて権力を分析するルーマンのシステム論的な権力理論である。報告では、これに、権力と支配という段階的な概念構成をもって「支配の正当性」という問題を射程に入れた、ウェーバーの権力‐支配理論のアイデアをつなげながら、われわれにとっての権力概念が構造的に探求されてゆくことになるだろう。

第3報告

権力理論は権力概念を消滅させる。

志田 基与師 (横浜国立大学)

 ◆権力理論の性能は反常識的であることを要請される。◆人々にとって権力は魔術である。ある人の意思が私の上に君臨し、やりたくないことをやらされ(被作為体験)たり、私の意思を誰かの上に及ぼす(作為体験)ことが、物理的実力の発動なしに行なわれるからである。人々が信じることは実在するから、かつては鬼も竜も確かに実在したように権力も実在する。◆しかし、人々のリアリティと理論とは自ずと異なるものである。一般に社会理論の説明力が高まるほど、権力が作動できる範囲は狭くなる。◆単位と交換に勉強する学生は、客観的には十分合理的な選択をしたといえる。◆合理的選択理論が完備であるならば、現象を全て個人行為者の選択の問題へと解消したことをもって説明というであろう。したがって権力現象が合理的選択理論によって記述されても、最終的に権力は存在しない。◆共有のルールに訴えかけて、一連の秩序的=服従的な行為を後続させることが可能な場合がある。人々はルールに訴えかけて、一見魔術的な結果さえ出現させえる、という説明によって権力は消滅する。◆権力を記述することはできる、それは存在するのだから。権力を説明することもできる、それは存在するのであるから。しかしもし権力が説明されるなら、権力でないなにものかに帰着させられたのであって、権力の神秘性は消滅する。◆それでも残る権力があるならば、それはシステムの外部から進入する不可知の最終原因である。

報告概要

西原 和久 (武蔵大学)

 本部会は、同一テーマで開かれた2回の研究例会と昨年度の大会をうける形で設けられ、今回の発表者は、山崎敬一(埼玉大学)、中野敏男(茨城大学)、志田基与師(横浜国立大学)の3氏であった。

 山崎氏の発表「エスノメソドロジーと権力の問題」は、おもにカテゴリー化の問題をめぐってなされ、「不当な」ではなく「適切な」カテゴリー化の問題が「権力問題」ではないのかという提起がさなれた。中野氏の「ポスト・フーコー的理論状況における「権力」概念の探求」という発表は、フーコー以降の理論状況における権力概念の再構成という視点のもとで、ルーマンに依拠して「権力の作動」を問題にしつつ「権威をもった命令権力」の構造特質を論じた。志田氏の発表「権力理論は権力概念を消滅させる」では、権力の魔術性が指摘されつつ、権力の理論(説明)は、権力をそれ以外の何ものかに帰着させることになるので、権力概念は消滅するという論旨が展開された。

 なお、西阪仰(明治学院大学)、大澤真幸(千葉大学)の両コメンテーターからは、発表者各自に多様な点にわたりコメントが述べられたが、その全体の要約は省略する。経験を組織化するカテゴリー化の使用可能条件をめぐる西阪氏の指摘、権力概念の広狭や権力の作動をめぐる論点、さらには権力概念の形成への促し(権力概念を作ってから消滅させよという、なかばジョーク)を含む大澤氏のコメントのみ記しておこう。もちろん、フロアーからも、活発な質問がなされたことも付け加えておく。

 限られた時間のなかで、一部に難解な点もありはしたが、社会学の現在における権力「理論」のアクチュアリティは、それなりに描きだされたように思われる。各自に共通している権力の実体論批判とともに、権力探究への各自の真摯な姿勢が印象に残っている。だからこそ、権力とは何かという問いは、まだまだ問われなければならないアクチュアリティがあるという思いが、2年にわたるこのテーマ部会の結びにおいてもますます強くなったという点のみ、最後に記しておきたい。

▲このページのトップへ