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年次大会
大会報告:第46回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)

 第5部会  6/14 9:45〜12:45 [3号館315教室]

司会:福岡 安則 (埼玉大学)
1. 文化の排除性考察の理論的整備に向けて 畑本 裕介 (慶應義塾大学)
2. 学校教育と「人格的な信頼」
――ルーマンの教育システム論に基づいて――
鈴木 弘輝 (東京都立大学)
3. 期待と不安
――共感性と社会意識に関する基礎研究――
服部 慶亘 (日本大学)
4. 解放的レイベリング 佐藤 恵 (東京大学)
5. 「同和問題」の構築
――「同和対策審議会答申」による――
時岡 新 (筑波大学)

報告概要 福岡 安則 (埼玉大学)
第1報告

文化の排除性考察の理論的整備に向けて

畑本 裕介 (慶應義塾大学)

 ブルデューが「文化資本」について論じてから、この概念は様々な検討を加えられてきた。そうした検討のもたらした成果の一つは文化の「排除性」への視角であるとは周知の通りである。しかし、その一方で、この「排除性」への注目が明確となると、文化資本は概念の拡散へと陥っていくことになった。このため、文化資本の概念としての共有がなされず、適切な議論を阻んでいるという指摘があることも忘れてはならない。よって、報告者は、文化資本、ひいては文化の排除性についての考察をさらに実り豊かなものとするためには、排除性と同時に「非排除性」を考察に組み込んでいかなくてはならないと考える。ある特定の問題の検討において排除と非排除の積極的な選定を行うことは拡散を解消し、問題をより鮮明なものにするからである。

 では、排除性と非排除性の分水嶺となるのは何か。報告者は、その一つをマクロの文脈への参照にあると考える。ミクロをも含めた状況における排除現象を問題化するための積極性がこの手段によって確保されるからであり、排除と非排除の検討へと筋道をつけるための基準となり得るからである。もちろん、このことはマクロな構造によるミクロな行為の決定論を回避するという従来からの問題意識を共有した上でのことであり、その上でなお残るマクロの問題を視野に収めたものである。

 本報告では、排除性−非排除性について具体例を交えながら検討した後、ブルデューを始めとして様々な論者が強調する社会問題に関するマクロな文脈の重要性を考察・紹介したいと考えている。

第2報告

学校教育と「人格的な信頼」
――ルーマンの教育システム論に基づいて――

鈴木 弘輝 (東京都立大学)

 ルーマンの教育システム論によれば、教育システムにおけるコミュニケーション・メディアは「子ども」である。コミュニケーション・メディアは、ある特定のコミュニケーションへの動機づけを可能にするシンボルのことであり、そのメディアにそって社会システムは分化する。そして「子ども」というメディアは、「児童」た「生徒」及び「学生」とも言い換えることができる。しかし現代日本においては、その「生徒」というメディアに付与されているある特定の考え方が、かえって学校教育を困難にしているのではないかと考えられる。その考え方とは、「教師は生徒の心を理解すべきである」というものである。このような考え方は、個々の生徒にとって有益なものであるように見えながら、かえって個々の生徒が自身による「人格的な信頼」を実感することができないように働いている、と考えられる。そしてなおいっそう問題であると見られるのは、本来生徒のために検討されるべき教師の「生徒観」が、現在の状況では教師自身の自意識を防衛するようにのみ働いている、ということである。そうではなくて「人格的な信頼」が個々の生徒に学習されるような環境になれば、学校は個々の生徒にとって通いがいのある場所になると考えられうるのである。

 さらに、以上のような考察を通じて、「行為の自由」と「人格的な信頼」との関係についても言及してみたいとか考えている。

第3報告

期待と不安
――共感性と社会意識に関する基礎研究――

服部 慶亘 (日本大学)

 20世紀末の現在、毎日のように世間を震憾させる出来事が報じられている。少年犯罪、性犯罪、政治不信、金融破綻、差別事件、国際問題…等々、挙げればきりがないほどの社会現象(社会問題)と我々は対峙させられていることを思い知らされる。それと同時に、それらの現象(問題)から「社会」の在り方を再検討しなければならない。

 最近、「〇〇の社会学」「誰それの社会学」といった研究が数多く目につくようになった。それを追求すること自体は非常に有意義なことであり、且つ重要なことである。しかし、その作業だけに終始するだけでは、変動する現実の社会を追求したことにはならないのではないだろうか?

 本報告では、「社会学」の研究対象である「社会」の構造に(敢えて)アプローチし直すことによって、特に日本における社会現象(社会問題)を理論的・実証的にとらえていく予定である。また、(その作業の中で)世間を震憾させる社会現象(社会問題)も他愛ないケンカの如き出来事も、実はその発生原因は同じなのではないか…という点にも言及していきたい。

第4報告

解放的レイベリング

佐藤 恵 (東京大学)

 一般に、(a)肯定的人格評価を伴うポジティブ・レイベリングは自己にとって解放的効果をもたらす望ましいもので、(b)否定的人格評価を伴うネガティブ・レイベリングは自己にとって抑圧的効果をもたらす苦痛なものという常識的理解があるように思う。しかし、(c)ポジティブ・レイベリングであってもそれを受ける自己にとっては抑圧的効果をもたらすことがあるし、(d)ネガティブ・レイベリングであってもそれを受ける自己にとっては解放的効果をもたらすことがある。レイベリングを受けた当事主体(被レイベリング者)のアイデンティティに対するレイベリングの効果に照準する場合、レイベリング・カテゴリーに随伴する人格評価の肯定性/否定性と、被レイベリング者の感受する解放性(解放的レイベリング)/抑圧性(抑圧的レイベリング)とは、独立の軸として考えなければならないのではないだろうか。

 被レイベリング者が解放性を感受する(a)(d)のパターンのうち、本報告は、常識的理解とは異なる(d)のパターンに注目する。レイベリング論の新たな展開の一環として、社会的相互作用過程におけるネガティブ・レイベリングが、被レイベリング者の自己アイデンティティに解放的効果をもたらす解放的レイベリングとして機能する場合があることを示すのが、本報告の目的である。

第5報告

「同和問題」の構築
――「同和対策審議会答申」による――

時岡 新 (筑波大学)

 「同和対策審議会答申」(1965年)によって、部落差別の解決は「国の責務」であり、問題解決の中心的課題は「同和地区住民に就職と教育の機会均等を完全に保障し、 …生活の安定と地位の向上をはかること」であるとされた。部落解放運動は、自らの主張を大幅に取りいれたものとしてこれを評価し、行政闘争へ比重を移した。「答申」に前後して、部落差別は意識・観念上の問題というよりもむしろ劣悪な生活実態であるとの認識が運動の基本におかれたためである。行政主導による地域改善対策事業は物理的環境改善について一定の成果をあげながら、それでもなお解消されない差別的意識・行為という今日的問題を帰結した。これは、「差別されている当事者」による自力救済的行為の承認をめぐる議論とともに、「答申」によって構成された問題認識の枠組みが検討の余地を残すものであった可能性を示唆するものである。報告では、「答申」が示した問題認識の枠組みと解放運動が示した問題認識の枠組みとを比較しながら、それぞれの連関と変質を明らかにする。これによりアファーマティヴ・アクションとしての「答申」がもつ意義と困難が確認され、部落差別問題を行政施策の対象として扱うことの有効性と限界性を指摘することが可能となる。以上のような議論は、新たな立法をめざす運動の今日的動向にも留意しつつ、部落解放運動のライフコース研究へと援用されていく。

報告概要

福岡 安則 (埼玉大学)

 第5部会は、畑本裕介さん(慶応義塾大学)の「文化の排除性考察の理論的整備に向けて」,鈴木弘輝さん(東京都立大学)の「学校教育と『人格的な信頼』」,服部慶亘さん(日本大学)の「期待と不安──共感性と社会意識に関する基礎研究──」,佐藤恵さん(東京大学)の「解放的レイベリング」,時岡新さん(筑波大学)の「『同和問題』の構築── 『同和対策審議会答申』による──」の5本の報告がなされた。

 畑本報告は、ブルデューの「文化資本」概念が諸論者に利用される過程において、概念の拡散・混乱、ひいては概念の無効化の問題が生じているとの問題意識にたって、日本社会での問題に適用するに先立ってこの概念の理論的整備を意図した報告であった。鈴木報告は、ルーマンの社会システム論を「メタ解釈枠組」として採用することをとおして、佐伯胖の教育言説を批判的に考察した報告であった。佐藤報告は、否定的人格評価を伴うネガティブ・レイベリングであっても、被レイベリング者に解放的効果をもたらすことがありうるという点に着目し、レイベリング論の新しい論点の展開をめざした報告であり、具体的事例としては奥野健男の『太宰治』をとりあげた。これら3報告は,理論的な考察の展開においてはきわめて緻密な論理のはこびをしていて好感が抱けたが、欲を言えば、具体的な社会事象そのものを調査・分析することとのフィードバックをとおして、理論的概念の精緻化をはかる努力をしてほしかった。私見になるが、社会学にとって、生きた現実そのものが、究極のテキストなのではないかと思われるからである。

 その点、時岡報告は、構築主義の視点から、1965年の「同対審答申」が、部落差別問題を「同和問題」として構築し、その後の部落解放運動のあり方を大きく規定していったプロセスを分析した具体性にとむ報告であった。時岡さんは、この報告を起点に、部落解放運動のいわばライフコース研究を展開したいと語ったが、そうであれば、ドキュメントだけをデータとするのではなく、各地で多様に展開されてきた現実の運動過程そのものにどこまで肉薄できるかという課題が出てくるように思われた。

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