HOME > 年次大会 > 第46回大会(報告要旨・報告概要) > 自由報告 第7部会
年次大会
大会報告:第46回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第7部会)

 第7部会  6/14 9:45〜12:45 [3号館317教室]

司会:宇都宮 京子 (東洋大学)
1. リアリティの「多元化」について
──個別性としての<純粋経験>――
藤谷 忠昭 (東京都立大学)
2. H. Arendtにおける権力概念 伊藤 賢一 (信州大学)
3. マックス・ヴェーバーにおける「伝統的行為」の概念 平林 創太 (武蔵大学)
4. 批判理論における「イデオロギー」概念
――ホルクハイマーのマンハイム批判――
袰岩 晶 (早稲田大学)
5. パレート残基理論のハビトゥス論的読解 小堺 裕一 (東京都立大学)

報告概要 宇都宮 京子 (東洋大学)
第1報告

リアリティの「多元化」について
──個別性としての<純粋経験>――

藤谷 忠昭 (東京都立大学)

 W.ジェームズのテキストを用いて、リアリティの「多元化」について検討する。かつてリップマンは「疑似現実」によるステレオタイプ化を「現実」によって回避できると論じた。だが、「疑似現実」と「現実」の境界が必ずしも明確でないことに加え、「現実」そのものが意味で構成されているとするならば、「現実」を肯定するだけではステレオタイプを容易に回避できない。そもそも、その「現実」とは何か。シュッツによって社会学に導入された多元的リアリティ論は、よく知られているように、ジェームズの下位宇宙論における着想である。だが、ジェームズの後期のテキストにおいては、過程的思考が展開され、その真理観に基づくならば、リアリティは状態としての多元性ではなく、経験にともなって進行する「多元化」の過程ととらえることができる。さらに、その経験においては意味以前の<純粋経験>の存在が想定されている。この経験の過程において、「知識」と「経験」のずれが生じるとすれば、そこにステレオタイプ化の回避可能性を求めることができるだろう。だが、意味以前の経験を想定することは可能なのか。本報告では、「他者」をめぐる議論を援用し、<純粋経験>の想定を「対象」の個別性に対する「態度」ととらえてみたい。その上で、<純粋経験>を想定する理論的意義を、リアリティの「多元化」の観点から検討したいと思う。

第2報告

H. Arendtにおける権力概念

伊藤 賢一 (信州大学)

 高畠通敏によると、これまでの政治思想は基本的に「リアリズム」と「アイディアリズム」の二つに分けられるという。前者が政治を「権力的支配秩序の成立・維持」と捉えるのに対して、後者は政治を「集団の共通目的の実現」と捉えている。権力現象をめぐる社会学的な議論は、多くの場合Weberが記述したような「他者の意向に逆らってまでも、自らの意志を貫こうとする」ものとして権力を設定しており、権力が不在の「自由な」空間を確保するという関心を内に秘めつつも、基本的にはリアリズムの立場に立つものである。本報告では、こうした「権力」概念とは全く異なる、アイディアルな理論としてArendtの権力概念に光をあててみたい。

 近年、Arendtの著作は大いに注目されている。多くの論者は、ギリシャ的生活様式を過度に重視し現実性を欠いているという欠点にも関わらず、彼女の理論から「可能性の中心」を拾い上げようとしており、その際、多様な「生」を許容する多元主義的な社会観を導く可能性を最も高く評価している。しかしながらArendtの議論は、そうした多元的な「自由」を支える土台として、むしろある種の制約条件の存在の方を強調しているように思われる。本報告では、『革命について』(1963 75)の議論を中心に、彼女のそうした「冷徹な目」の方に注目してみたい。

第3報告

マックス・ヴェーバーにおける「伝統的行為」の概念

平林 創太 (武蔵大学)

 マックス・ヴェーバーの提唱した理解社会学の主要な概念装置である社会的行為の4類型に関してこれまで様々な解釈が試みられてきた。ここではそれらの解釈すべてを扱うことはできないが、そうした考察のいくつかは、ヴェーバーがこれらの概念のうち、特に合理的行為の類型を偏重していたとし、感情的行為の見直しを意図する感情社会学の文脈からの読み込みや、これらの行為類型をヴェーバー物象化論の文脈で捉えかえす試みを示している。

 前者においては、感情が優れて社会的であるという指摘とともに、ヴェーバーが示した行為類型に関して、合理的行為の類型に分類されるであろう行為の中には、実際には感情的行為にも分類可能なもののあることが示され、感情的行為の概念の社会学上における広がりが提起されている一方、伝統的行為に対する着眼は乏しいように思える。

 また、後者においては、この行為の4類型が物象化の経路を示すために設定されていたことが示されるが、この4類型のうち、伝統的行為は、行為の没意味化を示す類型として提起され、反省的な思考に対してネガティブな意味合いが賦課されている。

 これらの議論を参照しつつ、ヴェーバーの社会的行為の4類型において、伝統的行為の持つ積極的な意味に関して考察したいと思う。

第4報告

批判理論における「イデオロギー」概念
――ホルクハイマーのマンハイム批判――

袰岩 晶 (早稲田大学)

 この報告は、ホルクハイマーの最初期の論文「新しいイデオロギー概念か」と、後期のイデオロギーに関する諸論文から、批判理論におけるイデオロギーの捉え方と、批判理論が持つマルクス主義的側面を明らかにすることを目的としている。

 ホルクハイマーは、マンハイムのイデオロギー論を観念論的と主張する。ホルクハイマーは、全体的イデオロギー概念を否定しているというよりも、そこから「全体性」を導きだそうとするマンハイムの「普遍的イデオロギー」概念と、「存在拘束性」が意味する「存在」についてのマンハイムの「精神的」捉え方とを批判している。ホルクハイマーの主張するところによれば、イデオロギー概念は観念的なものを含むことができない。このマンハイム批判を唯物論と観念論との対立において表現するならば、唯物論を装った観念論への批判ということができよう。さらに、後のホルクハイマーのイデオロギー論では、「イデオロギーの終焉」に対して、イデオロギー概念における「理論と実践」の関係が取り上げられ、イデオロギーを議論することの意義が主張されている。

 批判理論への批判の主要なものは、批判理論が「実践」とどのように結びつくのかという問題と、全体性もしくは「批判の根拠」が何であるのかということである。ホルクハイマーのイデオロギー論は、直接ではないにしてもこれら二つのテーマを扱ったものであり、十分ではないにしても批判に答える糸口を含んでいる。イデオロギーをどのように見るのか。そしてそこから唯物論をどう解釈すべきか。本報告は、これらの課題に対する一試論である。

第5報告

パレート残基理論のハビトゥス論的読解

小堺 裕一 (東京都立大学)

 V.パレートの「残基」を中心概念とした行為理論と「周流」の理論を, P.ブルデューの提起したハビトゥスの理論と重ねあわせて再解釈する。二人のあいだには,おそらく直接の影響関係がないのにもかかわらず,彼らの制度と行為の動態的再生産にかんする概念化とそのための理論枠組に注目するならば,いくらかの有意な符合を見出すことができる。パレートの理論は,もっぱら本能論に依拠した行為理論,システム理論として解釈され,社会理論としての内的統合の欠陥を指摘されたこともあるけれども,その「本能」の抽象たる残基の意味内容は,文字通りの本能に還元されない不定さをもっている。残基のこの不定的な領域を,パーソンズは社会的規範によって充足しようと意図した。異なる潮流で独自に行為の理論を立てたブルデューは,意図せざるかたちで,パレートの残基概念の不定さを解決させる可能性を「ハビトゥス」の概念に集約している。ハビトゥスが個別の社会環境に対応して構成される行為原理としての性向を指すならば,ハビトゥスの理論は,残基の項目に記述された諸性向の異質な多様性を,パレートに代わって統合的に説明する理論となろう。階層的に差別化する性向を前提にして,パレートの周流の理論は社会システムの再生産を動態的に説明している。残基もハビトゥスも,客観化された社会制度と主観化された社会たる人間身体という二つの位相を,社会という同じ一つの運動に結びつけて理解するための操作的な概念だろう。

報告概要

宇都宮 京子 (東洋大学)

 5人の方々から、社会学理論をめぐる斬新な解釈が提出された。

 藤谷忠昭氏(東京都立大学)による第1報告、「リアリティの多元化について-個別性として(純粋経験)-」においては、W.ジェ−ムズのテキストを中心に据えて、「ひと」についてのステレオタイプについての検討が行われた。ここでは、他者を捉える際のステレオタイプは、回避が困難であることや、他者認識には必要な過程であることが、概念としての「純粋経験」との関係で論じられた。

 伊藤賢一氏(信州大学)による第2報告、「H.Arendtにおける権力概念」においては、Arendtの権力概念が、政治を「集団の共通目的の実現」と捉える「アイディアリズム」の立場と関連づけて論じられた。ここでは、Arendtが、複数の個人の間に存在して、彼らを協力関係に導く人間属性として「権力」を捉え、公的領域を「現れの空間」と見なしていることなどを出発点として論旨が展開された。

 平林創太氏(武蔵大学)による第3報告、「マックス・ヴェ−バ−における『伝統的行為』の概念」においては、従来のヴェ−バ−の行為論研究において、「伝統的行為」についての検討が十分に行われてはこなかったという認識に基づいて、主観的意味が伴っていない行為と有意味的行為との関係が、「図と地」の関係と関連づけられて論じられた。

 袰岩晶氏(早稲田大学)による第4報告、「批判理論における『イデオロギ−』概念―ホルクハイマ−のマンハイム批判―」においては、ホルクハイマ−のマンハイム批判が概観され、また、ホルクハイマ−においては、心理、実践、理論、存在被拘束性の間には、ある相互関係が成り立っていること、および、物象化につながる観念こそがイデオロギ−と呼ばれうるものであることが示された。

 小堺裕一氏(東京都立大学)による第5報告、「パレ−ト残基論のハビトゥス論的読解」においては、身体的なものを行為原理として取り上げている社会学的行為理論について、P.ブルデュ−とV.パレ−トの場合を例にとって、その共通性と差違性とが比較されつつ、論じられた。

▲このページのトップへ