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年次大会
大会報告:第46回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会2)

 テーマ部会2 「ジェンダーとナショナリズム」  6/13 14:00〜17:15 [4号館432教室]

司会者:直井 道子 (東京学芸大学)  庄司 興吉 (東京大学)

部会趣旨 直井 道子 (東京学芸大学)
第1報告: フランス共和国とマグレブ系移民の娘たち
――文化的な「境界標識」、もしくは表象負担をめぐって――
伊藤 るり (立教大学)
第2報告: 東アジアにおけるジェンダーとナショナリズム 瀬地山 角 (東京大学)
第3報告: 周縁社会の女性に言葉は与えられるのか
――ポストモダン状況におけるフィリピン研究の視座――
成家 克徳 (東京外国語大学)

報告概要 直井 道子 (東京学芸大学)
部会趣旨

直井 道子 (東京学芸大学)

 この部会は、これまで関東社会学会が取り組んできたジェンダー部会とエスニシティ部会の接点をテーマにしてみようと今年度に発足しました。先日の研究会では、ネーション形成やネーション統合というマクロな問題を扱いながら、その具体的な境界を婚姻や家族、ジェンダー関係というよりミクロな要因のうちにみていく発表があいつぎ、活発な討論が展開されました。その際に、国や文化によって家族やジェンダー関係が異なると同時にナショナリズムのありかたも異なることが浮き彫りになりました。例えば、いろいろな歴史的事情によってその文化の伝統を否定しながらネーション形成をする場合と、むしろそれに依拠してネーション形成をする場合があるといえるでしょう。そこで、大会のテーマ部会では、国や文化によるナショナリズムのありかたの差異、それとジェンダー関係との関連を追究することを目的として、文化間比較が可能なような構成を考えました。まず、フランスについて詳しい伊藤るり氏からは、マグレブ移民の統合の例を話していただきます。 ついで東アジアの韓国、中国、日本の比較について瀬地山角氏、フィリピンのナショナリズムに関する言説を中心に成家克徳氏にお話いただきます。あえて討論者をたてませんでしたので、フロアからの活発な議論への参加を期待しております。

第1報告

フランス共和国とマグレブ系移民の娘たち
――文化的な「境界標識」、もしくは表象負担をめぐって――

伊藤 るり (立教大学)

 革命以来、フランスは、一民族一国家を原理とする国民国家を、「自由・平等・友愛」の共和国的理念のもとに追求し、市民的ナショナリズム(civic nationalism)の一つの形を示してきた。それは、一部の地域的な例外(アルザスにおけるユダヤ共同体やコルスの特別地位など)を許容するものの、個人と国家の直接的な結合を原則とし、両者に介在するようなエスノ=カルチュラルな紐帯を排するものであった。このような市民的ナショナリズムの原則は、今日、マグレブ地域出身移民の統合においてう新しい課題に直面している。

 マグレブ系移民の統合において浮上する文化的特殊性の問題は、従来、政教分離という共和国の価値とこれに背反的とされる「イスラム」の関係で把握されてきたが、これと並行して争点化してきたのは移民家族のジェンダー規範である。移民家族の「伝統文化」とされる「男性中心主義」や「女性隔離」を、共和国の「男女平等」理念と対置させる言説は、ジェンダー規範をめぐる問題が、市民的ナショナリズムに即した移民統合において一つの戦略的な地点、回路となりつつあることを暗示している。なかでも注目されるのは、移民の娘たちが、共和国と移民家族の間の文化的な「境界標識」として特異な位置づけを受けている点である。移民の娘たちは、「イスラム原理主義の手先」と指弾される一方で、移民統合の促進者としての役割を期待されるというように、相矛盾するイメージをフランス社会からあてがわれている。また、移民家族の内部では、フランス社会への参入回路を切り開く有望な担い手であると同時に、固有文化の再生産の担い手として二重の期待をかけられている。

 この報告では、フランス共和国と移民家族のはざまで移民の娘たちに課せられる表象負担(burden of representation)の問題を通じて、ナショナリズムにおけるジェンダ― 規範の働きを問うことにしたい。

第2報告

東アジアにおけるジェンダーとナショナリズム

瀬地山 角 (東京大学)

 東アジアにおける近代社会の構築は、英米・フランスなどのように、個人を単位としたものと言うよりは、家族を一つのセットとして捉えたものであった。親との同居規範が強い東アジアでは、結婚に際して親の側の発言権が強いために、近代家族の発生期に自由恋愛が必ずしも普及しないという共通項を持っている。核家族ではなく、家系が保護されるべき対象だったのだ。そして家族は、文化の基層をなす分だけナショナリズムの核とされやすい。

 こうした状況の中で、女子教育を通じた女性の国民化のプロジェクトが進められていく。一般に近代女子教育とは、「良質の次世代の国民を作り出すためには、母親が教育を受けている必要がある」と考えるところにスタートするのであるが、東アジアにおいてこの役割を果たしたのは、日本生まれの良妻賢母主義であった。日本は、「教育する母」という近代的な母親イメージを、伝統規範の読み替えを通じて果たしていくのである。これは「家」制度の「近代性」と同じ構図である。しかし東アジアにおける、家族や女性を巡る近代と伝統のせめぎ合いの構図は実は一様ではない。五・四運動を通じて、自ら自分の伝統を否定することのできた中国に対して、朝鮮半島はすでに日本によって植民地化されていたために、「近代=日本」とならざるを得ず、抵抗の核が伝統にならざるを得なかった。大韓民国が戦後長い間、同本同姓不婚といった前近代的な婚姻制度を残すことになった要因は、伝統vs近代と家族を巡る特殊な関係が、存在するのである。こうした議論は、他の社会でのナショナリズムと家族のあり方についても一定の示唆を与えるはずである。

第3報告

周縁社会の女性に言葉は与えられるのか
――ポストモダン状況におけるフィリピン研究の視座――

成家 克徳 (東京外国語大学)

 今では、私たちの周りのいたるところで、途上国からの外国人労働者を見つけ出すことができる。町でとくに目立つのは、フィリピン人女性だ。しかし、だれが彼女らの言葉に耳を傾けるだろうか。多くの日本人にとって、彼女らに関心を持つか持たないかは、まったくどうでもよいことなのだ。いや、社会学者・人類学者にとっても、あまり事情は変わらない。というのは、フィリピンは産業化していないし、ユニークな文化も持っていないからである。

 しかし、私は,逆に次のように設問を置いてみたい。世界システムの周縁部に属する人々が、政治経済的あるいは文化的にハイアラーキカルな構造に抵抗する試みが可能であろうか。どうしたら彼(女)らが、自らの言葉を持って発話する可能性があるだろうか。

 本報告においては、まず、フィリピンのナショナリスト知識人たちが、欧米に流行する最新理論や潮流を再解釈することによって、周縁からの批判的発言を試みたこと、そして、グローバルに一定レベルの共感を得ることに成功したことを説明しよう。

 ついで、ナショナリスト知識人たちが、欧米発の理論言語を用いて、グローバルなメッセージを発する、というスタイルにつきまとう問題点を明らかにしてみたい。言い換えれば、英語の周縁文化圏に属する社会において、周縁部の知的エリート階層が、中央部にむけて、「合理的な言説」を発するというスタイルがいかなる限界をもっているのかを述べておく。また、フィリピンにおけるナショナリズム言説の持っている限界を明らかにしよう。(たとえば、フィリピン社会に蔓延する強制結婚やレイプの問題を、従来の言説戦略ではどのように扱っていたか)。

 結論的には、旧来のナショナリストのスタイルの限界を超えて、貧困層と(貧困)女性のエンパワーメントの可能性を論じる予定である。そして、私たち(私)の語り方と知のスタイルについて、考察を加えたい。

報告概要

直井 道子 (東京学芸大学)

 今回の部会では、ネーションの形成・統合というマクロな問題の具体的な境界を、ジェンダー関係の諸要因のうちにみていくにあたって、「ナショナリズムのありかたの差異」に着目して文化間比較を試みた。まず、フランスについて伊藤るり氏からは、マグレブ移民の統合の例が話された。フランスのナショナリズムは、政治的価値の共有のもとに、個人と国家が直接的に結合する政治的な共同体としての国家が想定される市民的ナショナリズムであり、移民の統合に際して、文化的アイデンティティは私的空間の中に押し込める移民管理がなされた。その結果、家族内ジェンダーが文化的アイデンティティの核となり、娘たちが移民家族のアイデンティティをうけついでいく表象として位置づけられる。 娘たちは共和国からも移民統合の成否を占う存在として位置づけられ、二重の圧力を担うとして「表象負担」という概念が紹介された。

 ついで瀬地山角氏からは、「近代」が導入されるときのナショナリズムのありかたと「伝統」との関連という視点から東アジアの韓国、中国、日本が比較された。 中国では伝統を否定した近代化路線がとられたのに対して、韓国では横暴な近代的植民者日本に対する抵抗の核として伝統が執着された。いずれの場合にも、家族やジェンダー関係は「伝統」の核となっている。 この分析から、瀬地山氏は男女の特性主義と平等主義、ナショナリズムと非ナショナリズムという二つの軸による国民化のパタンの分析枠組みを提案した。

 最後に成家克徳氏はフィリピンのナショナリズムが欧米発の理論言語を用いたエリートによって世界的に発信され、それに対してNGO的視点からナショナリズムに入り込まない女性のエンパワーメントの可能性を論じた。 フロアからの論議を聞いて感じたのは、「ジェンダー関係の状況」という日常的、具体的なものと、「ナショナリズムのありかた」という大枠でしかとらえがたいものとを結び付けることの困難さであった。今後は、より具体的な問題(例、「ジェンダーがナショナリズムの構築にどう利用されたか」)をたてて、文化間比較を行うという方向が示唆された。

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