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年次大会
大会報告:第46回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会3)

 テーマ部会3 「質的調査法」---言説分析の方法と実践  6/14 14:00〜17:15 [4号館421教室]

司会者:池岡 義孝 (早稲田大学)  北澤 毅 (立教大学)
討論者:西阪 仰 (明治学院大学)  中河 伸俊 (富山大学)

部会趣旨 池岡 義孝 (早稲田大学)
第1報告: 教育言説におけるカテゴリー化のポリティクス 伊藤 茂樹 (駒沢大学)
第2報告: 「夫婦別姓」の言説分析をめぐって 草柳 千早 (大妻女子大学)
第3報告: 言説分析のゆくえ
――ナラティヴ・セラピーからの示唆――
野口 裕二 (東京学芸大学)

報告概要 池岡 義孝 (早稲田大学)
部会趣旨

池岡 義孝 (早稲田大学)

 「質的」という名辞で一括することのできる調査研究の方法が関心を集めている。「量的対質的」という対立図式は、それ自体、再検討すべき多くの問題点を内包しているにしても(佐藤健二、1996)、「質的」な調査法への関心や期待は、「量的」な調査法の限界への一定の認識を前提としていることは、たしかだろう。構造―機能主義理論と数量的な統計調査手法に代表される実証主義的な研究に対する多様な理論的挑戦が一定の成果をあげたあと、それら多様な理論にもとづく経験的研究の実践が注目されている。本部会の趣旨は、それを確固としたものとして定着させていくために、それら質的調査法のもつ問題点や困難性を含めた方法論的検討のハ―ドルを設定することにある。本部会では、質的調査法として、これまでも一貫して成果をあげてきた生活史研究や伝統的に人類学の調査手法であるエスノグラフィーから、エスノメソドロジー、社会構築主義、グランディッド・セオリー、さらにはそれらを活用して新たな研究視角を拡張しつつある教育社会学、都市社会学、家族社会学、ジェンダー研究など、多様な方法と領域を、その視野におさめている。

 今回の大会では、それらの多くがデータとして共有している「言説」をめぐってテーマ設定を行った。報告者の方々には、対象とする言説の配置されている領域ごとに、それぞれ教育言説、家族言説、セラピー場面の言説をデータとした言説分析の方法論的検討を、それらの具体的な分析実践をふまえて報告していただく。そしてお二人のコメンテーターからは、議論の論点整理が、構築主義およびエスノメソドロジーの観点から、それぞれ提示されることになろう。部会の中心的な課題は、言説分析の実践の「対象」や「結果」の議論にあるのではなく、その「方法」の醍醐味や困難性を議論するところにある。そうした議論を通じて、「言説と実在」といった対立軸について生産的な成果が上がることを期待している。

第1報告

教育言説におけるカテゴリー化のポリティクス

伊藤 茂樹 (駒沢大学)

 教育言説という、我々にとって馴染み深くありながら、ある意味で特異な言説のジャンルがある。これは単純には「教育に関わる言説」を意味するが、森(1994)によれば、・教育なる対象を種別化し、・教育を語る/書く主体を人びとの内部に析出し、・教育とこれをめぐる諸概念に自明性を与え、・教育に関するまとまった語り/書きを、けっして全体集合の外に自らを置きえないものへと回帰させるものである。このような視点に立ってアプローチする教育言説研究が目立ってきている。しかしそこでとりあげられることが多いのは、マスメディアや教育政策のアリーナ、教育研究など、いわゆるマクロな場で生産される書記言説である(今津・樋田編1997など)。

 本報告ではこれらとは異なり、教育について口頭で語り合う場として、あるシンポジウムをとりあげる。そこでは、参加者は種々の決まり文句や「子どもの権利条約」といった表象をリソースとして用いながら、教育に関わる自身(ら)をはじめとして、いくつかのカテゴリー化を実践している。と同時に、教育に関する自明な、しかし特殊な前提や命題が確認、正当化される。そうするなかで、参加者間の葛藤や差異の顕在化は巧みに回避され、すべてが合意へと回収される。しかしこのことは、こうした合意の基盤が実は脆弱であり、このように言説によって確認されなければすぐさま危機に瀕してしまうようなものであることを示しているように思われる。当日はこのような分析を試みる一方、これが別のレベルの言説、実践−例えば、教室などの「教育現場」における相互作用−へのアプローチとどのように関わるのかについても検討したい。

第2報告

「夫婦別姓」の言説分析をめぐって

草柳 千早 (大妻女子大学)

 報告者は、1988年より、「夫婦別姓運動」を行なう団体に関わりはじめ、以後、「夫婦別姓」という「社会問題」もしくは「クレイム申し立て活動」をめぐって、いわゆる「調査」的な営為をいくつか経験してきた。それらは、まず、・運動団体の活動に参加し、「夫婦別姓」という「クレイム申し立て活動」の実践の場に身を置く、いわゆる「フィールド」経験。この経験は、以後のこのテーマに関する調査研究の方向づけに影響を与えるものであったと認識している。さらに、・運動に関わる人々への質問紙調査(運動団体のなかで調査チームを組み、その活動の一環という位置づけで実施)(1993)、・夫婦別姓実践者へのインタビューを含む「社会問題構築過程の相互行為論的研究」(1994)、・反夫婦別姓言説に照準したカウンタークレイムのレトリック分析(1996)、といったものである。

 この、形式的には、フィールドから言説へ、という進み行きの過程はまた、「夫婦別姓」という「社会問題」に対していかにアプローチするのか、という方法論模索の過程でもある。簡潔に言えば、報告者は、当時「目のあたりにしていた」「過程」を記述するための方法論を必要とし、中河が推進しつつあった社会問題の構築主義アプローチに引き付けられていったのである。ところが、構築主義アプローチはそれ自体、方法論上の混迷の渦の中で進み行くべき方向を模索し続けている、という状況にある他ならなかった。

 本報告では、「夫婦別姓」をめぐる上記のような調査研究過程を通して、「社会問題」としての「夫婦別姓」言説の分析をめぐって、報告者が遭遇したいくつかの問題を取り上げ、その方法論上の含意を考えて行くものとしたい。

第3報告

言説分析のゆくえ
――ナラティヴ・セラピーからの示唆――

野口 裕二 (東京学芸大学)

 社会構成主義(social constructionism)は「言説が現実を構成する」という前提から出発する。この前提に立つ限り、言説についての言説(言説分析)もまたなんらかの現実を構成することに変わりなく、したがって言説を分析する言説はなんら特権的なものではありえない。

 このように考えるならば、社会問題論の領域で論争となった例の「存在論における恣意的線引き問題」は、言説を分析する言説がいかにして特権的(客観的)たりうるかに関する議論だったことになり、問題設定自体が社会構成主義の前提と矛盾するものだったといえる。言説に関する言説も必ずなんらかの現実を構成し、なんらかの権力作用を帯び、また、それがひとつの言説である限りいつ言説分析の対象にされてもおかしくないと考えるべきであろう。

 それでは言説分析の意義はどのように確保されるのか、これが本報告で検討したい問題である。この問題を考えるうえでひとつのヒントを与えてくれるのが、臨床領域における社会構成主義の実践(=ナラティヴ・セラピー)である。そこでは言説のもつ現実構成性や権力性という作用を前提にして、セラピストとクライエントが新たな現実を共同で構成していく方法が模索されている。

 ここで明らかになってくるのは、従来の言説分析が暗黙に想定してきたひとつの構図である。それは、当の言説を発する人々が言説のもつ現実構成性や権力性について意識的でないという想定、つまり、社会構成主義を知らない人々によって発せられた言説であるがゆえに、それを知っている研究者が分析できるという構図であったと言える。

報告概要

池岡 義孝 (早稲田大学)

 今期から新たにスタートした本テーマ部会は、社会学研究のなかで多領域にわたって広範な関心を集めている質的調査研究や質的データの方法論的検討を課題として設定された。本部会が検討の対象として射程に入れている質的研究の方法は多岐にわたるが、今回の大会では、それらの多くがデータとして共有している「言説」に注目し、言説分析の実践と、その中から立ち上がってくる方法論的な問題点の検討をともに行う企画とした。

 教育言説をデータとした伊藤報告では、口頭で語り合うシンポジウムといういわばミクロな相互作用場面での教育言説をデータとして、それに参加するもののカテゴリー化の実践を考察し、その上で、言説の相対性と恣意性を共有している点では発話者の言説もそれを分析する者の言説も等価であるという言説の重要性にまで踏み込んでいくアプローチの試みが紹介された。草柳報告では、一貫して取り組んでいる「夫婦別姓問題」研究の端緒からの方法論的模索の過程が克明に紹介された。それは社会問題の構築主義アプローチが辿った道筋に即応するもので、今ある到達点で直面する問題として、人びとの「問題」経験のリアリティに、より微妙で曖昧な「問題」を語る「言説」から接近する方法を、それを主題化し同定する研究の位置の検討を含めて行うことだとされた。野口報告がまず取り上げたのは、いわゆる「存在論における恣意的線引き問題」であった。報告では、この問題を、言説を分析する言説もまた何らかの言説を構成する特権的ではありえないものだと退け、その上で言説分析の意義の確保を、言説のもつ現実構成性や権力性を前提としてセラピストとクライアントが新たな現実を共同で構成していく臨床領域の社会構成主義の実践(ナラティヴ・セラピー)に求める試みが紹介された。コメンテーターの西阪氏からはエスノメソドロジカルな相互行為分析の視点から、研究者の言説の現実構成性を意識した上で「局所」にとどまるというかたちでの言説分析の方向性が提示された。また中河氏は、社会問題の構築主義の立場から、それに寄せられた批判への対応に汲々とするのではなく、キツセらの提案の原点に立ち戻り、そこで提案された研究者の新しいゲームの可能性を追求することこそが生産的であるとコメントされた。

 当日は150名をこえる参加者があった。これは、このテーマについての関心の高さを如実に物語るもので、企画者にとって望外の喜びであったが、一方で、おそらくさまざまなレベルでの多様な関心を抱いて参加した方々のニーズをみたすようなフロアを含めた論議を構築することができなかった。この点を反省し、研究会の持ち方も含めて次回以降の課題としたい。

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