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年次大会
大会報告:第47回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会2)

 テーマ部会2 「質的調査法」-質的調査研究における「確からしさ」
 6/12 14:00〜17:15 [119教室]

司会者:有末 賢 (慶應義塾大学)  野口 裕二 (東京学芸大学)
討論者:浅野 智彦 (東京学芸大学)  北澤 毅(立教大学)

部会趣旨 有末 賢 (慶應義塾大学)
第1報告: 「質的」の語のなかの混乱と危険性をこえて 佐藤 健二 (東京大学)
第2報告: ライフヒストリー研究と「確からしさ」
―「個人的経験のナラティヴ」からの視点―
小林 多寿子 (日本女子大学)
第3報告: 病いの経験の語りと聴き取り 江口 重幸 (東京武蔵野病院)

報告概要 野口 裕二 (東京学芸大学)
部会趣旨

有末 賢 (慶應義塾大学)

 昨年の「質的調査法部会」では、「言説分析の方法と実践」と題して、質的データとしての言説の相対性、恣意性、局所性などについて考察し、さらに言説分析を行う研究者の側にも同様の相対性、恣意性、現実構成性、権力性がつきまとっている点を確認してきた。 今年は昨年の「言説分析」を踏まえた上で、質的調査研究におけるデータ、調査者−被調査者関係(調査行為)、そして会話、対話、インタヴューなどを経て再構成されるライフストーリーやライフヒストリーについても考察していきたいと考えている。質的調査研究の場合、言語を媒介にするにせよ、シンボルや行為、表現などを媒介にするにせよ、データの収集とデータの解釈という調査行為が分かち難く結び付いていて、調査者は被調査者との関係性を含めて、常に「調査研究における確からしさ」に苦慮し、ある場合には、「不安」を抱えながら研究を続けていくことになる。特に質的データが「書かれたテクスト」ではなく、ナラティヴなインタヴューや、ライフストーリー、ライフヒストリーの場合には、データの生成の場面に聞き手(インタヴュア)として係わるためにデータへの介入を余儀なくされ、調査者の「主観」だけに依拠してしまっているのではないかという自己反省を常に迫られることにもなる。しかし、質的調査法としての方法論の議論は、このような調査研究における信頼性や確実性(あるいは確率性)、妥当性などをどのように確保していけば良いのであろうか。

 これらの問題は、単なるインタヴューの技法論だけではなく、調査行為を通しての調査者と被調査者との関係性や、プライヴァシーの問題、調査の倫理的問題、また差別や偏見などの調査上のバイアスの問題とも深く結び付いている。ライフヒストリーやライフストーリーの社会学が、セクシュアリティ、クィア、フェミニズム、エスニック・マイノリティなどの諸領域において、調査の主要な方法になってきたのは、それなりの理由があるものと考えられる。またこれらの問題は、方法と実践の問題にもかかわっている。オーラル・ヒストリー(口述史)やストーリーの社会学は、ある面ではナラティヴ・セラピーなどの臨床の場面にも通じる側面を持っている。クライアントの「主訴」から、背景となっているケース・ヒストリー(ライフヒストリー)だけを取り出していた従来の精神分析的な臨床から一歩外へ出て、クライアントの紡ぎ出すナラティヴ・ストーリーにセラピーとしての価値を見いだしていこうとする実践は、質的調査研究の方法論においても示唆に富むものと考えられる。

 今回は報告者として、社会調査総体における「方法意識」を常に問題としてきた佐藤健二氏、自らの日系移民のライフヒストリー調査や自分史研究から、ケン・プラマーの「ストーリーの社会学」へも共感を示している小林多寿子氏、そして臨床医の立場から医療人類学や「病いの語り」に注目している江口重幸氏の3名の方にお願いした。そして、討論者としては、自己論や物語論に関心を持つ浅野智彦氏と教育社会学の立場から質的調査研究を志向している北澤毅氏にコメントをお願いしている。

第1報告

「質的」の語のなかの混乱と危険性をこえて

佐藤 健二 (東京大学)

 報告では「質的」という言葉の位相を問題にしたい。主張は単純で、これまで発表した関連論考(たとえば「量的/質的方法の対立的理解について:「質的デ―タ」から「データの質」へ」日本年社会学会年報第14号、1996年6月など)の延長線上にある。

 1950年代に確立され1980年代までを支配した「量的=統計的調査法」対「質的=事例的調査法」という方法意識の〈冷戦体制〉は、まことに不毛なシステムであった。「量」対「質」の二項対立の萌芽は、もちろん1920年代のアメリカ社会調査の黄金期からなかったわけではない。しかし、これを戦後社会学の方法意識を二分する巨大な対立へと押し上げたのは、アプローチの違いの説明のためにイメージ的に社会調査論に導入された、さまざまな二項対立概念であった。統計/事例、フォーマル/インフォーマル、多数/少数、エクステンシブ/インテンシブ、法則定立的/個性記述的、客観的/主観的、代表的/典型的、要素還元的/全体連関的、仮説検証/問題発見、変数限定的/多変量、一回的/対話的、測定的/対話的、選択肢/自由回答、連続的/カテゴリカル、科学的/文学的、科学的/職人(名人)芸的 etc...。われわれはこのような微妙な対立を、あまりにも不用意にレトリカルなまま使いまわしてきてしまったのではないか。これらの二項は、冷静にその意味を測定するならば、それぞれが対立している水準も適用できる範囲も有効性もかなり異なっていることがわかる。しかしながら、社会調査(方法)論のなかでは、ただ重なり合う対立のイメージだけが動員され、「量」対「質」の冷戦ともいうべき意識が作られていった。それは社会学の方法論の構築が、けっきょくのところ、それぞれに優れた研究の具体的な達成を支えた方法はいったい何であったのか、その実践を解読するという、反省的な作業なしに行われることが多かったからではないか。「質的調査研究における『確からしさ』」という主題の設定が、こうした対立の深い幻の亀裂を、どこまで自覚的に対象化し無害化しているかは、もういちど検討されなければならない。

第2報告

ライフヒストリー研究と「確からしさ」
―「個人的経験のナラティヴ」からの視点―

小林 多寿子 (日本女子大学)

 ライフヒストリー研究における「確からしさ」の問題は、おもに二つの次元で考えるべきことが示唆されている。ひとつは「データの収集とデータの解釈という調査行為」(有末)の次元であり、いまひとつは「研究成果」の呈示の次元の問題である(池岡)。前者は、インタビュー場面における語り手と聞き手との関係性や共同制作としてのライフヒストリーという認識、あるいは自伝的テクストの書かれ方の問題とかかわるものであり、後者は、テーマとする社会事象を論じる際に個人のライフヒストリーをどう位置づけ、呈示するのか、またそれがどのように読まれるのかという問題にかかわっている。

 報告者は、1987年以来、トロントで日系カナダ人を対象とするライフヒストリー・インタビューを実践するなかで、インタビューにおける相互作用と語られる内容の関係性や経験の再構成としてのライフヒストリーの問題に直面してきた。そしてその都度、自分のおこなったライフヒストリー・インタビューを俎上に乗せて、「<親密さ>と<深さ>―コミュニケーション論からみたライフヒストリー」(1992)、あるいは「インタビューからライフヒストリーへ―語られた「人生」と構成された「人生」」(1995)として論じ、個人的経験をライフヒストリーとして語ることをめぐる問題について模索を続けてきた。しかし、ここでライフヒストリー研究を質的調査法として位置づけ、その「確からしさ」を問う議論は、自らのとってきた方法論や認識をあらためて自己反省的に再考することを迫っているようにおもう。本報告では、おもに報告者自身の研究でのライフヒストリーのとらえ方や分析方法、記述や呈示のしかた等でとった手法を再検討し、関連の議論もふまえて、他者/読者/研究者に対して「個人的経験のナラティヴ」を「確か」なものとして了解されるように成果を呈示する「努力」あるいは「戦略」を「確からしさ」の観点から考察していきたい。

第3報告

病いの経験の語りと聴き取り

江口 重幸 (東京武蔵野病院)

 「存在とは人が信じるものであるが、出来事は人が語るものであり、出来事は語られるが存在するものではない」(Janet,P.)

(1) なぜ臨床研究や医療場面で民族誌やナラティヴが注目されるようになったのか。
70年代以降:病いの経験の再発見,「疾患カテゴリーから文化的文脈へ」(Littlewood)。
特に慢性的な病い,末期の患者,曖昧な心身医学的障害等の語りへの注目

(2) 臨床的リアリティの物語的構成と「物語的推論(narrative reasoning)」(Mattingly)。
「病いは物語的構造をもち…複数のストーリーの集積から構成されたものである」。
精神医学的なパラダイムの変化:力動精神医学的解釈からDSMV以降の分類へ。
精神病理学における「現象学的記述」,精神分析学における「心的現実」と科学性
→過去の不確定性と再現=表象の信憑性を問題にされることはなかった。
フロイト典型事例の「実像」の発掘(historical vs. narrative truth)
菅原の描くアフリカの「ズワズラ」:幾重にも重なった迂回を通して部分的に感知される「狂気」を精神医学はどれほど越えて理解しているのか。

(3) 精神病や重症慢性疾患はなぜ強烈な経験となって人の人生を変えうるのか。
病識(病いへの構え),回心:これまでのライフ・ヒストリーへの親和性と異所性。
ストーリーの改変を伴うものとしての「経験」とその「事後性」:「出来事性」。

(4) 臨床場面における「語り」の源流
ライフヒストリーを語ることのもつ治癒力:「自分の閲歴(histoire)を物語ると、その心理状態は変化し,もはや以前の自分ではなくなる。」(Janet)
1880年代に確立された「催眠=暗示=精神療法」と「心的装置」にいかに科学性を与えるかが力動精神医学の課題だった,Freud「言葉の魔力」。精神医学的な治癒とは何か。

(5) 臨床場面における「確からしさ」:事後的にしか問題にならない
例えば「evidence-based」な研究と「美学的(aesthetic)」な距離(Good,B.):
後者は聴き取る側の経験枠を直接の契機にして,信憑性の密度としてのみ交換される。
科学性と対抗する「信念」としてとらえていいか:例,憑依,呪術等の「伝統的病因論」
相互的に還流する視点:個別性と普遍性,個別性の部分としての普遍性
Goodの,変化をもたらす「物語化」への助力,Mattinglyの「欲望」への焦点化,
ナラティヴ・アプローチの問題点:"pentimento"の受容と心理学的物語化への抵抗
聴き手の受容と批判的な言及について(インタヴューにおける「逆転移」の問題)

報告概要

野口 裕二 (東京学芸大学)

 今回の部会のねらいは二つあった。ひとつは、新聞や雑誌等の書かれたテクストではなく、研究者と対象者の共同作業によって構成される対話型のテクストの研究方法について論ずること、もうひとつは、二年間の議論のしめくくりとして、質的研究の「確からしさ」がどのように保証されるのかについてあらためて問い直すことだった。

 第1報告の佐藤健二氏は、「質的−量的」というおなじみの二分法が成立した過程と、それがもたらした「不毛な冷戦体制」を知識社会学的に論じ、そもそも調査データとは「社会関係の所産」であり、したがって「優れた研究の具体的な達成を支えた方法」を解読することが重要であると指摘した。

 第2報告の小林多寿子氏は、「確からしさ」の問題を「データの収集と解釈」と「研究成果の呈示」という二つの次元に分け、それぞれの次元において、自らのライフヒストリー研究において工夫し採用した「確からしさへのストラテジー」を紹介した。

 第3報告の江口重幸氏は、精神科医の立場から、自らの臨床経験と臨床人類学の成果に基づき、「臨床民族誌」の方法による患者理解と援助実践について紹介し、とりわけ、「歴史的真実」と区別される「物語的真実」を聴くことの重要性を示唆した。

 討論者の浅野智彦氏からは、専門家の語りと日常生活の語りの本来的な等価性を認めた上でなおかつ専門家に固有の語りはいかにして成り立つのかといった問題提起がなされた。また、北澤毅氏からは、データは社会関係の所産であると同時に研究者が立てる問いの所産でもあるのではないかといったコメントが寄せられた。

 多様な論点が噴出するなかでひとつ明らかになったと思われるのは、われわれはつねになんらかの「確からしさ」を求めて研究をおこなわざるをえないこと、にもかかわらず、その「確からしさ」を保証してくれる既成のフォーマットが存在するわけではないこと、したがって、「社会関係の所産」としての個々のデータの性質をよりよく理解し伝えるために、その都度、固有のストラテジーを工夫せざるをえないということである。「妥当性」や「信頼性」ではなく、「確からしさ」という曖昧な表現を選ばざるをえなかったのも、こうした事情を反映しているのかもしれない。

 なお、当日は150名を越える参加者があり、このテーマへの関心の高さをうかがわせた。この多くの関心に応えて今後さらに議論が深まることを期待したい。

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