「コロナと境界」
美馬 達哉(立命館大学)
本報告では、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックをめぐる諸問題を、「境界(border)」のあり方―空間の分割と隣接であると同時に、異質な空間の接触面であり、緊張とコンフリクトに満ちた横断と妨害の諸相(Mezzadra and Neilson 2013)―の変容として考察する。 社会距離(social distancing)という感染予防戦略の登場は、境界の分割と拡大としてみることができ、社会のデジタル化による計算可能性の増大と関連している。また、救急現場でのトリアージ(患者の選別)は医療施設と一般社会の間の境界の上昇と合理化の象徴的な事例とみなすことができる。さらに、2021-2年に広く国際的に議論された「ワクチンパス」は、従来の国境での移動のコントロールを、個人の生物医学的な免疫状態に結びつけると同時に、トランスナショナルに統一化する試みであった点で、「国境化(bordering)」(Longo 2018=2020)の一事例とみることができる。 これらのどの場合も、生物医学的な知識体系と生権力(biopower)が生活世界に対する実質的支配を強化した帰結であることでは共通している。これらを、生きること・死ぬこと・看取ることを含めた生活世界という生の形式(bios)に対して、生物医学的なリスクという「剥き出しの生」(zoe)が優越する西洋近代の傾向性と捉えた上で、その二つの間でのコンフリクトに着目して議論したい。
「コロナ禍における社会学的災害復興研究の視角と論点」
大矢根 淳(専修大学)
報告タイトルを記しながらも心情としては今一歩踏み込んでみて、「コロナ禍に対峙する災害復興論の研究実践」として論じてみたい。 四半世紀前、『年報社会学論集』(No.5, 1994)に載せていただいた拙著論文「被災生活の連続性と災害文化の具現化」は、P.A.ソローキン(「被災生活の連続性」の箇所)とレジリエンス(「災害文化の具現化」)が下敷きになっていた(当時、両タームは未上梓)。ソローキンは、『災害における人と社会』(1943刊・1999翻訳出版)で、戦争・革命→飢餓・疫病の壮大な連鎖、それによる生活世界の撹拌・社会変動の履歴を膨大な文献史資料を繙きつつ論じたが、そこではdisasterではなくcalamityが用いられて、翻訳作業当初は「惨禍」と訳されていた。 翻って今、私たちの対峙する災害復興現場を多角的に注視してみると、そこで「復興災害」が発生し、ならばそれを被災前から考えておこうという「事前復興」の実践過程で、そこに乗り切れない層が「事前復興災害」を体感していることが捉えられている。事前復興災害はコロナ禍のニューノーマルでも既発だろう。
コロナ禍ゆえ(調査が難しい!?)可視化されづらい(例えば東日本大震災の)災害復興現場では、しかしながらそこに何とかアクセスしてみれば、レジリエンスが発動して被災者のエンパワーメントとともに新しい社会関係が生み出されつつある諸事例に出会うこととなる。災害復興論の研究実践を振り返りながら、コロナ禍の社会学的視角と営みを考えてみたい。
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