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年次大会
大会報告:第53回大会 (報告要旨・報告概要:テーマ部会C)


テーマ部会C 「社会学のアイデンティティ」  
6/19 14:10〜17:25 [5号館・1階 5123教室]

司会者: 山田 真茂留 (早稲田大学) 数土 直紀 (学習院大学)
討論者: 野口 裕二 (東京学芸大学)

部会趣旨 数土 直紀(学習院大学)
1. わたくしの社会学的アイデンティティー
──「産業社会学35年」をふりかえって──
稲上 毅(法政大学)
2. 写真と社会学
──“社会学する”ということ──
安川 一 (一橋大学)

報告概要 矢野 善郎 (中央大学)
部会趣旨

部会担当: 数土 直紀(学習院大学)

 近年、社会学に対する世間の関心が高まり、社会学者の発言が社会的に注目されることも少なくなくなった。また、規模の点だけで考えれば、社会学は着実に成長しているとも言える。しかしその一方で、社会学の研究対象が拡散し、「社会学とは何であるのか」という基本的な問いに答えることがいよいよ困難になっている。こうした状況を省みて、本部会では例会において『社会学のアイデンティティ』をテーマに、「社会学理論の混迷」「社会・行動諸科学の溶解」「社会学は生き残れるか」といった問題をとりあげ、議論してきた。

 本シンポジウムでは、このような問題意識を広く共有することを目指し、これまで日本の社会学を引っ張ってきた第一線の研究者である稲上毅氏と安川一氏に『社会学のアイデンティティ』をテーマに報告をお願いし、各分野での個人的な体験をもとに提言を行っていただくことを考えている。その際とくに、それぞれの関心および研究手法に特化した形での個別研究や、逆に他領域との学際的研究が隆盛するなか、我々が社会学としてのアイデンティティをどのようにすれば保持できるのか、あるいは保持すべきなのかという点に焦点があてられるかもしれない。

 またこれに加えて、ナラティブ・アプローチの第一人者である野口裕二氏にコメンテータをお願いし、社会学を一つの「物語」として捉える視点から、本部会の問題設定自体の妥当性を問うてもらった上で、必要に応じて報告者の提言に言及していただくことを考えている。

 部会担当委員は、報告者、コメンテータ、およびフロアを交えた対話が、自身の姿を見失いつつあるかのような社会学という「物語」を、パフォーマティブに書き換えていく過程になることを目指している。

第1報告

わたくしの社会学的アイデンティティー
──「産業社会学35年」をふりかえって――

稲上 毅(法政大学)

 理論と方法と素材さらにはイデオロギーという3次元あるいは4次元に沿った現代社会学の社会分化がおのずから社会統合を伴うのであれば、社会学のアイデンティティについて問う必要はない。しかし、スペンサー的予定調和は成り立っていないようにみえる。

 けれども、こうした日本に限ったことではない、そして病理ばかりが蔓延しているともいえない現状に対する処方箋を書く勇気と能力をわたくしはもちあわせていない。できることといえば、わたくしのささやかな研究史をふりかえりながら、わたくしの社会学的アイデンティティについて語ることであり、社会学というかぎり、こうしたことが大切なのではないかと考えてきたことについて、いくつかの素材を提供することである。

 思いつくままにそれらを列挙すれば、第1に、多くの学際研究を通じて社会学とはなにか、社会学になにができるのかを自問させられたこと、第2に、その社会学の真骨頂は社会関係の質を問うことであり、もっと煮詰めていえば、コミュニティーの所在と成立要件、その働きについて考えてみる点にあること(方法としての社会学、社会関係の学としての社会学)、第3に、巨大理論・中範囲の理論・小範囲の理論の価値はこれらの逆順と考えること、第4に、理論あるいはアプローチの相互補完性を重視すること、第5に、マクロミクロ・リンクを大切にすること(「産業社会」学と「産業」社会学)、第6に、制度的慣行のもつディレンマ、アイロニー、パラドックスなど「隠された次元」への関心をもつこと、第7に、それら制度的慣行のもつ歴史性を意識すること(社会知の歴史性)、第8に、国際比較して日本の個性を理解すること、第9に、テーマの選択にあたっては社会政策への関心を失わないこと、第10に、なによりも、関心ある現場に立ち入って、思いがけない新鮮な事実発見をできれば丹念なモノグラフとして書き留めること──、およそ、こうしたことを大切にしてきたように思う。

第2報告

写真と社会学 ──“社会学する”ということ──

安川 一(一橋大学)

 “社会学のアイデンティティ”――この問に答える作業は、それほど難しいことではないのかもしれない。アイデンティティが特定の関係性を前提にした位置表象だとすれば、まずは“社会学”のそれ――諸科学、諸表象、諸実践、等々の幾重もの関係性における位置表象――に視線を送ればいい。前提となる諸関係性を設えて、そこから外発的・外在的に“社会学”のいかにもそれらしい姿を探せばいい。

 見える象は多重像だろう。学的対象にフォーカスしても理論/方法にフォーカスしても像はけっしてひとつには(数個程度にも)ならない。研究のタコ壷化、ミニ・パラダイムの乱立、個別経験的研究の増殖、等々と言われてきた数々も、アイデンティティが多義性・多面性を含むものであるかぎり、ごく自然な事柄だろう。たとえ、カルト集団的なノイズが紛れ込んで多重像がしばしばさらに乱れるとしてもだ。

 ただしこれら多重像は、“社会学”の輪郭が不鮮明なので、そもそもそのようにみなせるものか否か――“何か”の多義性・多面性と捉えうるか否か――判断の難しいところでもある。制度化された“社会学”の姿は、制度化の外装を外して“それ本来の形”のようなものを見て取ろうなどとした途端、ボケてしまう。むしろいかにも中空に見える。

 位置表象に視線を送るとして、ではどこに送ればいいかをハッキリさせておきたい。冒頭の問は、便宜的にこう変えておきたい。ある学的営みを外発的・外在的に“社会学”と名指すことを助けてきたアイデンティティ・ペグはどんなものか(・・・もしくはあるか?)。

 この先は、選択の問題だと思う。私はこの機会にそれを、ハワード・ベッカーの論文「写真と社会学」を起点に、視覚社会学の営みを紹介、論評しながら考えてみたい。ルイ・ダゲールが銀板写真法を公開実験した1839年にオーギュスト・コントの『実証哲学講義』が刊行中だったことはただの偶然としても、自分“たち”が何をしているか、それがどう見えているか、ということへの視界を整備した点で写真は“社会学”に通じる(ような気がする)。そして、こうした視界において私“たち”自身の様々な営みの再帰的なありようにフォーカスし続けるということが、“社会学”という位置表象のペグのひとつだったように思う。そうしたペグとしての“社会学する”営みを視覚社会学に跡づけたい。

報告概要

矢野 善郎 (中央大学)

 理論部会では「社会学のアイデンティティ」と題しながらも、あえて理論・学説的な報告ではなく、産業社会学の稲上毅氏(法政大学)、ミクロ社会学の安川一氏(一橋大学)という確固たるフィールドをお持ちのお二人に、自らの社会学体験を通じて「社会学のアイデンティティ」を語っていただくという試みをした。

 稲上報告は、自らのライフヒストリーを修業時代の話やギデンズ、ゴールドソープとの対話など興味深いエピソードを多数交えつつ語りながらも、ディシプリンとして社会学の抱える問題点にまで踏み込むものであった。氏は、若い頃から労働調査の現場に立ちつつ、労働法学者や労働経済学者と共同研究する場に出たことで、社会学を他専攻と差別化する意識が培われたと回顧する。そして現在の社会学の抱える問題として特に「ピア・グループ化」をあげ、アドバイスとして「すぐれたモノグラフ」を熟読する必要性、複数個の理論・国際比較への関心、マクロ社会学的な問題意識の必要性などを述べていた。

 次の安川氏は、いわゆるミニ・パラダイムが林立しだした頃に修業時代を迎えた世代で、自らの理論的葛藤を回顧しつつ、氏が現在取り組んでおられる「写真」というテーマを素材にし「社会学」を考えるという報告を行った。PowerPointを駆使しながらの洗練されたプレゼンテーションを通して、例えば初期のアメリカ社会学と「写真」との関係や、「写真」を通して「自分は何を観ているかという」ことをも主題化させる「社会学」の特徴など、多くの論点を考える試みとなっていた。

 コメンテーターの野口裕二氏(東京学芸大学)からは、報告者の二人は若い研究者の抱えがちな不安やアイデンティの葛藤とは無縁な学者人生を送っており、その意味で企画者側は人選に失敗したのではないかというユーモラスなコメントを頂いた。そして現在修行中の世代は、何が「オーソドクス」であるのか見えてこないやり辛さがあること等を指摘していた。

 会場には、最終的には50人ほどの聴衆が集まっていたが、それぞれの参加者が自らの社会学についてのアイデンティを振り返る上で、実りの多い部会になったものと思われる。質疑応答では、稲上氏が自らの大学行政経験に基づき「今後ディシプリンのない学問は、イシュー・オリエンティッド、とりわけビジネス・オリエンティッドに再編されていくことになる」と淡々とした口調ながらも、鋭い警鐘を鳴らしていたが、「社会学者が身の回りで起きていることへの嗅覚を失っていない」か、個人的にも反省させられる部会となった 。

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