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年次大会
大会報告:第59回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第1部会)


第1部会:都市と文化

司会:若林 幹夫(早稲田大学)
1. モダン都市東京の盛り場と噴水の想像力 楠田 恵美(筑波大学)
2. ポスト成長期の盛り場――歌舞伎町キャッチのエスノグラフィー[PP] 開沼 博(東京大学)
3. ライブ・シーンと発表会文化[PP] 宮入 恭平(東京経済大学)
4. 電子楽器の受容のありようにおける「純粋音楽」概念の現在 石川 千穂(筑波大学)
第1報告

モダン都市東京の盛り場と噴水の想像力

楠田 恵美(筑波大学)

モダン都市東京では1903年頃を境にして噴水の想像力が花開いた。その様は、日比谷公園につくられた屋外の噴水をはじめとして、百貨店の中庭、そしてパーラーやホールと呼ばれる屋内空間に見出すことができる。従来、街路や庭園に設えられていた噴水が屋内に招き入れられると、それは、一瞬にして消え去る儚い時間を意識させるようになった。こうした噴水をめぐる都市の空間と時間意識の変容とそれを体現するモダン都市東京の感性について本報告では検討する(屋内の噴水がなぜ夢をさそうのか、考えねばならない[ベンヤミンL1,1:49])。

ヴァルター・ベンヤミンが指摘しているように、街路と室内の歩み寄りがパサージュを生成させているのだとすれば、屋内に噴水をもつ「噴水のあるホール」もまた、パサージュを体現するものの一つに数えられる(「パサージュを噴水のあるホールと考えること[ベンヤミンL2,6:58])。屋内の噴水は、ゆったりとした流れと、急速な流れとをつくりだす装置として成立する。そのため、「噴水のあるホール」(例えばソーダ・ファウンテンやホール、パーラー)の展開を追えば、豪華さと軽微とを併せ持つサロン型街路が生成されていく。

こうした噴水のある屋内の生成とその具体的なありよう、そしてその展開について描写しながら、モダン都市東京そのものが体現する両義的な感性を噴水の空間的(屋内と屋外)・時間的(永遠と儚さ)両義性から捉えることによって、モダン都市東京においていかに噴水の想像力が萌芽し、その波及が現代に届けられているのかが明らかとなるだろう。

第2報告

ポスト成長期の盛り場――歌舞伎町キャッチのエスノグラフィー

開沼 博(東京大学)

改めて指摘するまでもなく、これまで都市に関する研究は膨大な蓄積を生み出してきた。しかし、その多くがこれから"盛り"に入る「成長する都市」のあり様を題材にしたものだった。「成長する都市」ではない都市を描くことは可能なのか。そして、それにいかなる意義があるのか。本報告では、現代日本をポスト成長期にあるものと位置付け、そこにおける都市がいかなる状況にあるのか解き明かすことを目的とする。

本報告が対象とする都市は、新宿・歌舞伎町だ。現代の歌舞伎町には2つの側面が内包される。すなわち、歌舞伎町が、一方で「アジア最大の繁華街」と、他方で「歌舞伎町浄化作戦」や「規制強化」と表象される両義性だ。前者は繁栄の象徴であり、後者は衰退の象徴であるとも換言できる。

歌舞伎町はこれまでの研究でもしばしば取上げられてきたし、研究対象を離れた一般的な関心も高い都市だと言える。それは、歌舞伎町が他の都市以上に犯罪組織や外国人という周縁的なアクター、あるいはしばしばカネ・暴力・性・酒・麻薬などの表象を通して描かれるような生々しい欲望と結びつきながら、都市としての超越性を獲得しているが故のことに他ならない。

 本報告では歌舞伎町で活動する一つのキャッチ(客引き)グループへの参与観察によって歌舞伎町の状況を検討していく。キャッチを、歌舞伎町の持つ超越性とそこに近づこうとする人々とのメディエーターと捉えた時に、超越性への接近、統制の力学、あるいはその失効の様相が浮かび上がる。それはポスト成長期としての現代社会の様相を浮かび上がらせることにつながっていくだろう。

第3報告

ライブ・シーンと発表会文化

宮入 恭平(東京経済大学)

 CD市場が低迷を続ける音楽産業では、ライブの可能性への期待が高まっている。1998年にピークを迎えたCDの売り上げは、ゼロ年代をとおして現在も減少を続けている。その一方で、ライブ・エンターテインメント市場では、ゼロ年代後半以降、継続的に観客動員数の増加が見られる。

ライブという言葉は、必ずしも音楽の文脈で独占的に用いられるわけではないが、一般的に音楽―とくにポピュラー音楽―との関連性から語られる傾向にある。しかし、ライブの概念が時代とともに変わりつつあるという事実は、意外にも知られてはいない。そもそも、ライブの概念に関する議論は、これまで積極的におこなわれてこなかったように思われる。

ポピュラー音楽の文脈で語られるライブには、さまざまなシーンが含まれている。音楽産業が可能性を期待するライブは、ライブ・エンターテインメント・シーンと位置づけることができる。しかし、それだけでライブ・シーン全体の可能性を語ることはできないだろう。ライブ・エンターテインメント・シーンが示唆するのは、ビジネスとして成立するライブ・シーンなのだ。

本報告では、ライブの可能性に含まれることのないライブ・シーンに注目する。そこでは、パフォーマーが投資するという、ライブ・エンターテインメント・シーンとは異なる状況が見られる。その背景には、日本の伝統芸能や音楽教室によって培われてきた、発表会文化の影響を読み取ることができるのだ。

第4報告

電子楽器の受容のありようにおける「純粋音楽」概念の現在

石川 千穂(筑波大学)

報告者はこれまで、音や音楽を、その言語活動から捉えるという視角で研究を進めてきた。その目的は、 作者や聴衆を主体とした営みとして音楽を捉えるのではなく、「音」や「音楽」という言葉が喚起するイメージや、それがもたらす人々の営みが、歴史的にどのように変容してきたのかを捉えることにある。

「作品そのもの」「音そのもの」への「専心」、音楽との無媒介的な受容という「純粋音楽」概念を擁する「近代的聴取[渡辺裕]」態度が19世紀半ば以降支配的となったことは、新人文主義の芸術受容の思想と、それを教養として受容した市民の営みの帰結であるという[宮本直美]。

一方で音楽家の1940年代末にミュージック・コンクレートを創始したフランスの音楽家ピエール・シェッフェルが、録音技術によって創作された音楽の特性を、響きをもたらす原因への関心から解放された、響き以外のなにものにも汚染されない「響きの現前性」を「オブジェ・ソノール」(=音そのもの)との対峙と説いたように、昨今のデジタル・オーディオ・テクノロジーは、作品としての単位性、作曲の創造性、またそもそも音と音楽の差異までをも、物理的に無規定にする、いわゆる「ポストモダン」な音楽実践を可能にするものとしてしばしば語られてきた。

本報告では、電子楽器の黎明期の受容のありようの変遷に着目することで、電子楽器に投企された意味の変遷から、技術史では決して明らかにされない、現在の電子楽器帯の「無色性」が歴史的に構築されるさまを描くことを目的とする。