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年次大会
大会報告:第57回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)


第1報告

中国残留孤児を育てた中国養父母――ライフストーリー調査をもとに

張 嵐(千葉大学)

 NHKドラマ「大地の子」を見て感動の涙を流した日本人は少なくない。そして、NHKスペシャル「大地の子を育てて―日中友好楼の日々」が今なお記憶に新しい人もいるだろう。ところが、筆者の調査によれば、1972年から2008年までの『朝日新聞』における養父母・中国に関する記事件数の少なさに驚かされる(「中国残留孤児」に関する新聞記事の内容分析―『朝日新聞』(1972〜2008)を中心に―、2008)。養父母・中国に関する記事は全体の4.05%にしか満たず、さらに、1980年代に留まったと言わざるを得ない。中国残留孤児を育てた養父母の数すら不明だが、概算で6000〜10000人と推定されている(浅野、2006)。 現在の日本人にとって、終戦時、敵国日本の子どもを引き取り、戦後の貧しい生活と文化大革命の恐怖に耐えながら、残留孤児を育てた中国養父母たちはどのように生活し、どのような思いで日々暮らしているかについてはほとんど知るすべがない。養父母のことは置き忘れられてしまった感は拭い去ることができない。 本報告は中国残留孤児を育てた中国養父母に焦点を当てたライフストーリー聞き取り調査をもとに、中国養父母が残留孤児を引き取った動機と経緯、心境および現在の生活実態、さらに、養父母の願いを明らかにする。筆者が日本国内の三世代の中国残留孤児に対する調査を行った上で、2008年に数回中国に渡り、遼寧省社会科学院、吉林省長春市「日中友好楼」と黒竜江省ハルビン赤十字・養父母連絡会の協力をもらい、中国にいる残留孤児の養父母にインタビューすることに成功し、今までほとんどなかった貴重な資料をもとに報告する。

第2報告

アイデンティティとコミュニティの「幸福な」邂逅 ――「カミングアウト」はゲイコミュニティ論に何をもたらしたか

森山 至貴(東京大学)

 ゲイ・スタディーズおよびクィア・スタディーズの領域では、カミングアウトの意義についてさまざまな議論がなされてきた。90年代にはカミングアウトが既存の異性愛主義を打ち砕いていく契機として肯定的な評価を与えられたが、2000年代に入って、異性愛主義を打ち砕くためにはカミングアウト以外の戦略も存在する、と指摘し、カミングアウトの肯定的評価に異議を唱える研究も産出されるようになった。  このどちらの側の研究も、カミングアウトを、ゲイ男性以外の人・社会に対するとして捉え、評価を加える点においては共通している。しかしカミングアウト論には、「一般的な」意味としての「他者へ自己に関する重要な情報を開示する」という意味とその効果に関する記述とは別に、ゲイ男性のアイデンティティとゲイコミュニティの関係性に関する記述が常に付随している。そこで本報告では、この関係性に関する記述を重点的に扱い、カミングアウトがアイデンティティとコミュニティの関係性に与えたインパクトについて考察する。  具体的には、カミングアウトに関して90年代から2000年代に書かれた文章を分析する。それらの文章においては、アイデンティティとコミュニティはカミングアウトという要素によって矛盾なく接続されるように描かれているが、論理的にも実践的にもこの接続は無矛盾なものではありえない。この論述上の不備にこそ、現在においてゲイコミュニティとアイデンティティについて問われるべき問いが隠されているということを主張する。

第3報告

"闘病記なるもの"の検討 闘病記の定義化へむけて

野口 由里子(法政大学)

 近年、健康情報棚プロジェクトが行っている公立図書館や病院図書館に闘病記を集めた棚を設置する闘病記設置運動などに代表されるように、闘病記に対する注目が集まっている。しかし、一般に闘病記といわれているものは、『広辞苑』には載っておらず、どのようなものが闘病記であるかある程度イメージできるものの、明確には定義なされていない。  そこで本報告では、健康情報棚プロジェクトが現在すでにリスト化している約2000冊の闘病記から、どのようなものが闘病記とされているのかを外観し、病跡学など病を書き記す人々へのまなざしをもつ他分野を視野に入れながら、"闘病記なるもの"の定義化を仮説的に行うことを目的とする。

第4報告

トランスジェンダーと自己アイデンティティ――当事者の語りからみるジェンダー規範

石井 由香理(法政大学)

 本報告では、いわゆるトランスジェンダーと呼ばれる人たちの自己物語・アイデンティティとジェンダー規範の関係性についての考察を行う。今回取り上げるのは、出生時の身体的特徴を元に与えられた性別は男性であるが、性自認が女性(MTFとカテゴライズされる)であるAさんと、与えたれた性別は女性であるが男性としての性自認をもつ(FTM)Bさんのインタビュー時の語りである。Aさんの場合、彼女の自己物語では、性別を越境するという行為や、「女装者」、「ニューハーフ」、「オカマ」といったカテゴリーと自分のアイデンティティが同一視され、周囲に「疑惑」が浮上しないようにいかにパッシングするかが意識されていたことが語られた。逆に、Bさんの場合、女性に対する恋愛感情を隠していたこと(同性愛)や、身体の女性的な特性をカバーリングし、またその工夫を悟られないようするといったことに関心を払っていたことが語られるが、90年代後半に「性同一性障害」という言葉を知るまで、性別越境を指すカテゴリーは、ライフストーリーに登場しない。 二人の語りは異なる形で生まれつきの性別に留まり続けさせる規範のあり方を示唆している。性別越境のアイデンティティモデルは存在するが、同時にモデルにスティグマが付与されているために選択できない状態と、モデル自体が存在せず、与えられた性別から出られない状態である。「性同一性障害」の概念の登場は、後者の人たちに性別越境のモデルを与え、また、両者の人たちが利用できる形で、性別越境の正当性を証明する手立てになったと考えられる。

第5報告

相互行為によるナショナリズムの可能性――シンガポールを事例に

斎藤 真由子(日本女子大学)

 グローバリゼーションやトランスナショナリズムといった現象が盛んに論じられている現代社会において、ナショナリズムという現象もまたフォーカスされている。E.ホブズボームは、ナショナリズムは衰退するだろうと予見した。しかし、現実はB.アンダーソンが述べるように「かくも長きにわたって予言されてきたあの『ナショナリズムの時代の終焉』は地平のかなたにすら現れてはいない」。というのも、伊豫谷登士翁によると、グローバリゼーションが国民国家体制にとって代わるわけではなく、その領域性は揺らぎながらも、国民国家そのものは今後も長期にわたって残ると考えられるからである。ある場合には、国民国家はむしろ強化されてきている。国民国家の多様性や多元性、国民国家が内包する異質性はグローバリゼーションにとって不可欠である。 このように、いまだ議論の余地の多いナショナリズム研究は、G.デランティによるとこれまで「文化的アプローチ」から述べられることが多かった。しかし、伊豫谷が述べる、国民国家の多様性を把握するためには「文化的アプローチ」だけでは捉えることは困難となってきているのではないか。例えば、マレー世界のなかで中国系をマジョリティに持ち、さらにマレー系やインド系など多民族によって構成されるシンガポールはその一例として考えることが出来る。 本報告では、従来のナショナリズム研究だけでは捉えることが難しいシンポールのナショナリズムについて、特に「文化的アプローチ」以外の観点によるナショナリズムの可能性について、4名のインタビュー結果を資料として考察してみたい。

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