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年次大会
大会報告:第58回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)


第1報告

「比較」という統治技術――植民地台湾の内地観光事業を事例として

阿部 純一郎(中京大学/愛知県立大学)

 B・アンダーソンは『比較の亡霊』(1998=2005)のなかで、ナショナリズムの発生・存続基盤には「比較」の契機があると主張している。この主張は、「国民は限られたものlimitedとして想像される」とする《国民》の想像様式に関する理解と、植民地帝国内における植民地インテリゲンチャの制限された「巡礼=旅journey」を通じてその後の反植民地主義ナショナリズムの基盤が生みだされたとする『想像の共同体』の議論を背景にもつ。アンダーソンはこうして、グローバルに展開する「人の移動」やそこで喚起される(諸社会の)「比較」の只中から、ナショナリズムがいかに分岐してくるかという問題系を切り開いた。ただし彼の議論の焦点は、植民地帝国がその統治体制内部に引き起こした「矛盾」に置かれており、こうした「帝国の緊張」(Stoler and Cooper 1997)に対して行政側がいかに応対しようとしたかは充分考察されていない。

 本報告ではこの問題を、帝国期日本の台湾に対する植民地政策を事例に考察する。特に注目したいのは、当時台湾島民に対して日本社会への「移動」を促し、そこで喚起される「比較」の視野を、日本の帝国建設を支えるべく制度的に水路づけようとしていた事業の存在である。それは「内地観光」事業であり、本報告では、領台直後から終戦間際まで実施された「台湾原住民」に対する内地観光の事業経過を、《比較の空間管理》・《比較の距離調整》等の分析概念をもちいて考察する。そのことを通じて、「移動」や「比較」といった視点から、帝国期日本のネイション形成を「支えた」政策ベクトルの一端を浮き彫りする。

第2報告

戦争の記憶とナショナル・アイデンティティ――アメリカ領グアムの戦後補償要求

長島 怜央(法政大学)

戦争、虐殺、植民地化などの歴史は、少なくともそれが起こった時点での分裂状況を意味するが、その社会における国民意識の形成を必ずしも妨げるものではなかった。B・アンダーソンがE・ルナンに言及して指摘するように、国民意識の形成は不断の記憶/忘却を必要としてきた。たとえば、フランスにおける「サン・バルテルミー」「南フランスの虐殺」やアメリカ合衆国における「市民戦争」は、安心できる兄弟殺しの戦争として記憶/忘却されてきた。しかし当然のことながら、G・ハージがオーストラリアにおける先住民と植民者とのあいだの記憶とアイデンティティの分裂から論じるように、被植民者側にとっては兄弟殺しの安心は容易に持ちうるものではない。ハージはアンダーソンの議論を感情的な記憶と「中立的」な記憶の区別としてとらえ、オーストラリアは前者の段階にあるとする。その一方でやはり、「中立的」な記憶のベクトルは植民者側にだけでなく、被植民者側にもあり、そのことを念頭に置きながら矛盾する記憶がいかに処理されてきたかを検討する必要があるだろう。本報告の目的は、アメリカ海外領土グアムの戦後補償問題を対象とし、被植民者のナショナル・アイデンティティの形成と記憶の関係性を考察することにある。

第3報告

空襲の犠牲者・死者が想起される場所――「仮埋葬地」という写真実践を通して[PP]

木村 豊(慶應義塾大学)

本報告は、東京空襲の犠牲者・死者が一時的に埋葬された場所=「仮埋葬地」の現在を撮影する写真家の活動を取り上げ、その写真家とのインタビュー記録をもとに、東京空襲の犠牲者・死者が想起される場所について検討する。 第二次世界大戦中、日本は、米軍による空襲によって甚大な被害を受けたが、そのなかでも、東京は、1945年3月10日の大空襲を中心として、100回を超える空襲を受け、10万人以上の死者を出したとされている。

そうした空襲の後、都内の至る所に累々と横たわっていた大量の遺体は、混乱の中で、都内各所(公園、社寺境内、空地など)に一時的に埋葬された。そうして「仮埋葬」された大量の遺体は、終戦後1948年から1951年にかけて発掘・火葬され、その遺骨は横網町公園内の東京都慰霊堂に納められた。

当時「仮埋葬地」となっていた場所に、現在、そのことを示すものは存在しない。それでも、そうした「仮埋葬地」の現在を撮影する写真家がいる。その写真家は、そうした「仮埋葬」の痕跡が残されていない〈ふつうの〉場所にこそ、東京空襲の犠牲者・死者を想起する回路があるという。

本報告では、そうした「仮埋葬地」の現在を撮影する写真家とのインタビュー記録をもとに、その写真家が、「仮埋葬地」という写真実践を通して、東京空襲の犠牲者・死者を、いかに想起しているのか、また、その写真を通して、誰に、何を、伝えようとしているのか、について検討したい。また同時に、東京空襲の犠牲者・死者が想起される場所について考察したい。

第4報告

「戦艦大和」のイメージ変容と戦後日本の戦争"感" ――-大和・ヤマト・YAMATO――[PP]

塚田 修一(慶應義塾大学)

本報告が扱うのは「戦艦大和」のイメージ/表象である。周知のように「戦艦大和」は、その巨大な体躯と有していた高い性能、また悲劇的な最期ゆえに、〈物語〉を喚起し、現在に至るまで数多のイメージ/表象文化を産出し続けている。だがそうしたイメージ/表象の"過剰さ"とは相反して、「戦艦大和」を対象とした社会学的研究はほぼ皆無である。恐らくは、従来の戦争に関する社会学的研究からは零れ落ちてしまうような場所に「戦艦大和」のイメージ/表象は棲息しているのである。本報告ではこの「戦艦大和」のイメージ/表象の勾配及び変容を歴史的に追尾し、それらと戦後日本の社会意識との相関関係を描出する。その際に、副題にある三つの「大和」表記―これはそれぞれに代表的な「戦艦大和」の表象文化に拠っている―に対応した時代区分を補助線として導入する。すなわち、吉田満『戦艦大和ノ最期』に始まる「大和」の時代:1952〜60年代、次いで松本零士『宇宙戦艦ヤマト』に代表される「ヤマト」の時代:1970〜90年代、そして映画『男たちの大和/YAMATO』に因る「YAMATO」の時代:2000年代、である。戦争あるいは戦争体験に関する社会意識を論じた従来の歴史社会学的研究(例えば吉田裕『日本人の戦争観』など)によって、戦後日本社会の戦争"観"が明らかにされてきたとすれば、本報告によって試みられるのは、「戦艦大和」というユニークな光源でもって戦後日本社会の戦争"感"を照らし出すことである。