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年次大会
大会報告:第56回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第2部会)


第2部会:理論(1)  6/21 14:00〜16:30 〔1号館1階102教室〕

司会:葛山 泰央(筑波大学)
1. 真なるものと作られたものとは置き換えられる(1) 越境可能性への関心
○山本 祥弘(首都大学東京)
堀内 進之介(首都大学東京)
2. 真なるものと作られたものとは置き換えられる(2) 抑圧と解放の統治論的解消
○渡邊 悠介(首都大学東京)
稲葉 年計(首都大学東京)
3. 真なるものと作られたものとは置き換えられる(3) 自己の活用
大河原 麻衣(首都大学東京)
4. バトラーにおける「物質化」と「主体化」の関係をめぐって 長野 慎一(慶應義塾大学)
第1報告

真なるものと作られたものとは置き換えられる(1) 越境可能性への関心

○山本 祥弘(首都大学東京)
堀内 進之介(首都大学東京)

 本報告を含む三つの報告は、「真なるものと作られたものとは置き換えられる」という、ジャンバティスタ・ヴィーコの原則の世俗的諸帰結を見据えて、今日なおも、社会的現実の側に無罪の挙証責任を負わせることのできるような、何らかの法廷は存在するのか否かを検討しようとするものである。3つの報告は相互に関連しているが、それぞれ独立したものになっている。第一報告に当たる本報告では、批判という営みの今日的意義について述べる。すなわち、何かしらの真理を参照点として現実に異議申し立てをしてきた批判の営みは、真理の可謬性が意識されるにつれ、いまや真理それ自体の正統化に取り組まざるを得なくなっている。こうした規整的原則に基づく道具的批判に替えて、異化的原則に基づく実践的・生成的批判の意義を「越境可能性への関心」として示す。
 これを受けて第二報告では、「労働における倫理の意味」と「倫理における労働の意味」の変遷を歴史的な文脈において検討する。労働への疎外と労働からの解放の間の矛盾を解消すべく、労働の人間化や労働における自己実現が目指されてきたが、それらは結果的には、規整的な批判の失効と更なる管理体制の強化を齎すものであったことが報告される。
 続く第三報告では、ニコラス・ローズを踏まえて、選択の自由が主体性の復権というイメージを齎しており、心理学的なテクノロジーが、アジェンダ・セッティングパワーを免責する役割を果たしながら、選択肢自体の創造の可能性を侵食していることが指摘される。こうした指摘を通じて、意味のある政治的目標とは、既存の政治が何をしてくれるかと問うことではなく、既存の政治を試練にかけることにあることを論じる。

第2報告

真なるものと作られたものとは置き換えられる(2) 抑圧と解放の統治論的解消

○渡邊 悠介(首都大学東京)
稲葉 年計(首都大学東京)

 本報告は、1960年代以降の日本の社会的現実を、統治性の観点から考察するものである。
初期の管理社会論は、企業による労働者の組織化に着目した。そこでは、抑圧者と被抑圧者のイメージが比較的明確であった。
 それゆえ、抑圧的な社会からの解放の機運は、労働者の自主的な管理を促し、かつまた住民運動や労働組合運動等の社会運動においては、「参加」の標語によってその地平を押し広げた。ところが、社会運動は、「住民参加が体のいい住民管理」になったといわれるように、統治側の論理に組み込まれるようになる。同時に、企業の経営の合理化は、むしろ「労働の人間化」を意味し始める。こうした背景には、社会的現実の急速な消費社会化がある。
 「労働の倫理から消費の美学へ」と時代の趨勢が移り変わっていくなかで、管理社会論が批判の対象としていた一元的な支配のイメージは、労務管理技術の普及と発達にともなって、その説得力を失っていく。これらは、管理社会そのものの衰退というよりは、むしろその進展を傍証している。企業の労働者にたいする求心性が低下するにつれ、企業は労働者の労働に対する自発的な意欲を涵養せねばならなくなり、自発性を強制した企業の経営者は、今では従業員に対して労働を通じた自己実現を促す人物になっているのである。
 以上を要するに、抑圧的な社会からの解放の機運は、社会運動を促すものの、そのような動きさえも自発性と自己実現の名の下に組み込む、初期の管理社会論の範疇を超えたさらなる管理体制の登場を皮肉にも招く結果となった。

第3報告

真なるものと作られたものとは置き換えられる(3) 自己の活用

大河原 麻衣(首都大学東京)

 自己の統治の現代的問題を論じているニコラス・ローズは、現代の社会的要請が、"psy"のテクノロジーを中継装置として、自己の統治と結びつき、支配の関係を成立させることを指摘し批判している。たとえば具体的には、労働において、労働者の自己実現要求と統治側による個人の興味に対する自助努力を促すかたちでの方向付けとが、このテクノロジーによって結びつけられる事態などがあげられる。
 だが、ローズは自己の統治のすべてを否定しているわけではない。ローズにとって批判されるべきは、非可逆的で非対称的な状況が固定される場合、支配状態が成立する場合だけである。ローズが擁護する自己の統治は、managing our selvesという言葉であらわされる。感情や私的自己をも作られたものとして論じるローズにとって、重要なのは我々が我々自身との間に取り結ぶ「実験的態度」を喚起すること、それも倫理的な地平から既存の政治を問題化するような態度を惹起することである。言い換えれば、既存の政治が何をしてくれるのかを問うことではなく、既存の政治を試練にかけることであり、選択肢を選ぶ自由から選択肢を作り出す自由への可能性を切り開くことなのである。本報告は、このローズのmanaging our selvesの意味内容を具体的な議論の中で明らかにすることを通じて、ひとつの生成としての批判の可能性を示そうとするものである。

第4報告

バトラーにおける「物質化」と「主体化」の関係をめぐって

長野 慎一(慶應義塾大学)

 ジュディス・バトラーは、言語に外在する物質としてセックスを素朴に肯定する立場に懐疑を抱きながらも、ジェンダー化されたカテゴリーとしてのセックスが、物質なるものの形成に関与する仕方には関心を寄せる。物質なるものの形成過程と権力関係の間に相関関係を見るその理論は、ある物質化の過程の成功が他の物質化の可能性を排除していく様態、同時に、この過程が、ある種の主体を理解可能なものにする基盤として作用する一方で、別の主体を理解不可能なものにする基盤になっていく様態に焦点を定める。
 本報告では、上記の物質化と主体化の関係に関するバトラーの理論を主に次の2つの観点から検討する。第1に、言語、物質、主体についてのルイ・アルチュセールの理論との関係はいかなるものか、第2に、「女性的なもの」についてのリュス・イリガライの理論との関係はいかなるものか。アルチュセールは現実的な存在諸条件に対する想像的関係であるイデオロギーにおいて、個人は自発的に現実における従属を受け入れていく主体になると述べる。バトラーもこうした彼の理論を部分的に取り込んでいるものの、排除されるものの位置づけに関して、両者の間には決定的な相違が存在する。この相違を知るためには、2つ目の観点から眺められたバトラー理論の理解が不可欠である。バトラーは排除される物質化、主体化の可能性を論じるにあたり、イリガライの議論をたたき台にしているのである。これらの検討を通して、バトラーのジェンダー理論の特徴を明らかにしたい。

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