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年次大会
大会報告:第56回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第8部会)


第8部会:文化・社会意識(2)  6/22 10:00〜12:30 〔1号館1階103教室〕

司会:祐成 保志(信州大学)
1. 観光化する複製身体――ロンドン、マダム・タッソー蝋人形館を事例として 妙木 忍(東京大学)
2. 非場所としてのマクドナルド 本柳 亨(早稲田大学)
3. 「家族旅行」の発見―― 高度経済成長期における「家族」と余暇の接合 和泉 広恵(日本女子大学)
4. 「禁止」と「消費」
−−1960年代韓国における「日本大衆文化禁止」と「日本商品不買運動」
金 成(東京大学)
5. ボランティアの・ささやかな・誕生
――戦前期日本における〈贈与のパラドックス〉解決の諸形式
仁平 典宏(日本学術振興会)
第1報告

観光化する複製身体――ロンドン、マダム・タッソー蝋人形館を事例として

妙木 忍(東京大学)

 本発表では、迫真性の高い身体が模造・収集・展示され、人びとがそこを訪れる現象(「複製身体の観光化」と呼ぶ)に着目し、「複製身体が観光の対象となるのはなぜか」という問いを提起しつつ、この娯楽様式に人びとが求めているものを考察する。長い歴史を有し、今日もなお大衆娯楽として人気のある、ロンドンのマダム・タッソー蝋人形館を分析対象とする。蝋人形館には不在のオリジナルの存在に着目しつつ、まなざす者の身体(観客)と展示される身体(蝋人形)との関係を分析する。蝋人形は、同時代/非同時代、有名/無名の組み合わせによって4分類できる。各類型を検討した上で、特に「同時代・有名人」の類型に着目する。映画や写真等の複製技術の発達によって有名になりえた「有名人」は、観客が会いたいと思うほどに有名であるため、蝋人形においては限りなく本物に近いことが求められる。しかし本物ではないという意味において一回性の欠如が生じる。この意味においてのアウラの消滅は、しかしながら、価値を減ずるのではなく新たな娯楽的要素を観客にもたらしている。それは、アウラの消滅と引き換えに、有名人が表象されている世界に参入できるという楽しみと自由度である。主体にも客体にも自己同一化できる往還の自由度が観客に与えられる。複製技術の発達以降、それが生み出した「有名人」と、その蝋人形における一回性の欠如を巧みに利用した余暇空間が観光客に提供されている。

第2報告

非場所としてのマクドナルド

本柳 亨(早稲田大学)

 今日は、マクドナルドに代表されるように、非場所・非モノ・非ヒト・非サービスを中心に消費空間が構成されている。G・リッツアの言葉を借りれば、「無のグローバル化」が進展しているといえよう。画一化で均一化な空間である「非場所」を生み出す「無のグローバル化」は、人間と場所の結びつきを断絶し、われわれのアイデンティティ形成に大きな弊害をもたらしている。それにもかかわらず、われわれは引き寄せられるように「非場所」へ集い、消費を享受する。
 本報告では、マクドナルドを事例として取り上げながら、マクドナルドが提供する「非場所」の役割と意義について考察する。「無の空間」であるはずの「非場所」が、われわれを惹きつける理由とは何か。
 マクドナルドの「非場所」を考察するにあたり参考にするのが、R・オルデンバーグの「サードプレイス」という概念である。「サードプレイス」とは、家庭(ファーストプレイス)や学校・職場(セカンドプレイス)とは異なる、交換不可能な「居心地のよい空間」を意味する。
 このオルデンバーグが想定した「サードプレイス」と、マクドナルドの「非場所」との共通点・相違点を指摘しながら、マクドナルドが「サードプレイス」として機能していることを明らかにする。マクドナルドが提供する「無」と、マクドナルドに引き寄せられる人々が抱える「無」の共振は、人々の不安を掻き立てる一方で、「サードプレイス」としての心地よさを生み出す要因にもなっているのである。

第3報告

「家族旅行」の発見
―― 高度経済成長期における「家族」と余暇の接合

和泉 広恵(日本女子大学)

 今日私たちにとって、家族旅行は「家族である」ことを確認しあう重要なイベントのひとつとなっている。特に、子育て中の親にとって、家族旅行は子どもに対するサービスとして提供されるべきものとさえ、考えられている。
 もちろん、親子や夫婦で旅行(移動)するという行為は、近代以前から行われてきたものである。しかし、現代の家族にこれほど定着している家族旅行は、必ずしも歴史的に家族のアイデンティティを高める上で重要な位置を占めてきたわけではない。日本で家族単位の移動が「家族旅行」として「発見」され、普及したのは、高度経済成長期である。その背景には、所得の増大と休日の増加だけでなく、国民休暇村に代表される余暇施設の整備などにみられる余暇活動の管理と促進があり、また、子ども中心主義の家族生活の実践という家族の変容がある。
 本報告では、家族旅行が一般に普及する時期と考えられる昭和30年代に着目し、その前後の時期に家族旅行がどのように捉えられていたのかを、雑誌「旅」、新聞、白書、調査報告書等の記述を分析することによって検討する。この分析を通して、日本における家族旅行の構築過程を明らかにするとともに、家族生活の変容および余暇をとおした社会と家族の関係について論じる。

第4報告

「禁止」と「消費」
−−1960年代韓国における「日本大衆文化禁止」と「日本商品不買運動」

金 成(東京大学)

 この研究は、1960年代韓国で起きた「日本商品不買運動」をめぐる制度・実践・言説を追究することによって、韓国社会における「日本大衆文化禁止」の性格をより明らかにすることを目的とする。戦後50年間以上にわたってつづいた「日本大衆文化禁止」は,その命令を下す権力が曖昧である中でその影響を及ぼし,さらにそれを強制する「スタッフ」が存在しない中で遵守されていた,「慣例」によって保証された「禁止」であり、決して「反日ナショナリズム」という動機だけでは説明できない重層的な意味を持つ複雑な現象であった。周知のように、「禁止」が維持されている間、日本大衆文化は、きわめて活発に「消費」されていたのである。1960年韓国における代表的な「反日運動」として知られている「日本商品不買運動」は、実は、当時日本商品がどれほど「消費」されていたのかを逆説的に示してる現象でもあり、この研究はまさにその「逆説」に注目しているのである。
 とくに1960年代韓国の政治的・経済的・社会的文脈の中で、実際誰が、どのように日本商品を消費し、また誰が、どのようにそれを拒否・否定していたのか、そしてそれらをめぐる言説はどのように作動していたのかという問いに答えをだすこと、つまり「禁止」と「消費」の主体を追究することは、「日本大衆文化禁止」の性格をより明らかにすることにおいてきわめて重要な意味をもつといえるであろう。

第5報告

ボランティアの・ささやかな・誕生
――戦前期日本における〈贈与のパラドックス〉解決の諸形式

仁平 典宏(日本学術振興会)

 〈贈与〉をめぐるコミュニケーションにおいては、〈贈与〉と表象された瞬間、そこに反贈与性を読み込まれてしまうという〈贈与のパラドックス〉という機制を備えている。現在の「ボランティア」言説は、「奉仕」「奉公」といった過去の言表群に比べ、このパラドックスをより上首尾に解決しているという点で、絶えざる自己肯定を生み出す形式を備えている。
 しかし、そこで仮定されている「昔」の言表群は、実際にはいかなる意味論を備えていたのだろうか。明治後半から第二次世界大戦にかけての「慈善」「奉仕」「奉公」といった諸言表を追尾することを通して検討する。
 明治後期までは、〈純粋贈与〉への接近をめざす「慈善」の意味論が一般的だった。しかし、大正期の〈社会〉概念の導入によって、〈社会〉を媒介に〈交換〉の方向で解決する「奉仕」の意味論が成立する。また同時に、社交=ミクロな相互行為の領野において、「自分の成長」「対象者との相互授受関係」などの効用を強調する言説も成立してくる。これらは神や〈社会〉などを迂回せず、より直接的な相互行為を源泉として〈交換〉表象を成り立たせるという言説系である。「ボランティア」の最初の言表は、その意味論の中で登場している。しかしそれらは戦時期における、一者的なものへの〈奉公〉の意味論の中へと回収されていった。
 本報告では、以上の検討を通して、現在のボランティア言説における特権化された〈贈与のパラドックス〉解決の形式を相対化し、その陥穽に関する含意について検討したい。

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