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年次大会
大会報告:第55回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第5部会)


第5部会:社会運動  6/16 14:00〜16:30 〔1B棟・3階 1B302講義室〕

司会:伊豫谷 登士翁(一橋大学)
1. 次善としてのナショナル・アイデンティティ
――北海道と東京の保守的市民団体の調査から
見上 公宏(北海道大学)
2. 「文化交流という入口」から
――「アイヌ文化振興法」成立以降の運動を中心に

伊藤 奈緒(東京大学)
3. 戦後日本における<市民であること>の変容とボランティアの「終焉」 仁平 典宏(日本学術振興会)
4. 「教会アジール」――ドイツにおける市民の難民保護運動 昔農 英明(慶應義塾大学)
5. 二十世紀イギリスにおける性愛と法
――同性間の親密な関係を事例として
野田 恵子(東京大学)

報告概要 伊豫谷 登士翁(一橋大学)
第1報告

次善としてのナショナル・アイデンティティ
――北海道と東京の保守的市民団体の調査から

見上 公宏(北海道大学)

 本報告は、保守的市民団体の調査に基づき、草の根といえる次元でナショナリズムを支える人間の特徴に関する報告である。報告の目的は、現代社会の状況とこうした運動との関連を明らかにすることである。「社会運動」を研究する上で重要なことは、当該社会運動の名目、全体社会内での運動の位置づけを無批判に研究の前提としないことである。当該の集団・運動が、自らにとっての目的や活動として関連させているものが、一義的に集団の内部や外部にとって死活的なものである事を意味しない。運動の意味を明らかにするためには、外形的特徴(主張や活動)だけでなく、運動内部の成員の特性も把握する必要がある。

 本報告の調査は、参与観察、インタヴューと質問紙を使用して、2004年8月から2006年末の期間に行われた。対象は北海道の市民団体(R会)と東京を活動の中心とする市民団体(V会)である。R会の目的は「日本という国の悠久の歴史を敬愛する観点からの住民の啓蒙」で、主な活動は、講演会・勉強会の主催、護国神社参拝である。成員は13名、年齢は20代後半から30代後半である。V会は2006年に、インターネット上で声をかけて、「皇室典範改正の阻止」を目的として設立された。成員は、20名以上で成員の居住地や年齢も広範囲に渡っている。活動は勉強会が中心である。

 調査を通じて明確になった成員の特徴は以下のものである(結論は当日に発表する)。政治的志向は存在するが、多くの場合、抵抗されている。大部分の者にとって、活動は政治活動とは方向性の異なったものである。右翼の流れを受ける者を除き、成員に共通している点は、既存の権威・価値体系への強力な疑い、あくまで比較優位としての保守的価値の支持、自発性(自らの行為によって目的が達成できるとの感覚)の欠如、職業・地域・性差といった拠るべきアイデンティティの基盤の揺らぎ、評価の忌避などであった。あえて否定的なアイデンティティ(自らが馬鹿にする右翼的なそれ)に一体化しようとする者も多く見られた。

第2報告

「文化交流という入口」から
――「アイヌ文化振興法」成立以降の運動を中心に

伊藤 奈緒(東京大学)

 1997年に制定された「アイヌ文化振興法」は、参政権、民族自立化基金の創設などの権利や、アイヌ民族に対する差別や収奪の歴史の記述を抜きにして成立した。この法改正と呼応するように、その後活発化したアイヌ民族との文化交流や啓発活動もまた、歴史や不平等の問題を語らずに一面化されたアイヌ民族のイメージだけを流布し、多数派日本人の願望を反映したアイヌ民族像を構築してきたという指摘は多くなされている。

 しかし、「アイヌ文化振興法」の問題性は前提であっても、アイヌ民族との文化交流自体とアイヌ民族の権利獲得運動と相対する両極のものとして捉えることは当然のことながらできない。アイヌ民族にとって文化を通した活動が抵抗の手段ともなりえたように、アイヌ民族の文化に触れた多数派日本人がそれをきっかけに歴史や不平等の問題を自分と関係しているものとして捉えられるかどうかが問われるべき論点ではないか。

 したがって本報告では、これまで批判的に分析されることが多かった文化交流という活動をアイヌ民族の権利運動と独立したものとして対比させるのではなく、むしろ両者を連続させていく試みに着眼したい。具体的には「文化振興法が良かった悪かったではなくて」という支援者としての運動参加者の見方が何を意味するのか、かれら自身が「入口」という「アイヌ文化振興法」成立以降の活動であるからこそ、どのような可能性が見出せるのか、北海道の事例から検討してみたい。

第3報告

戦後日本における<市民であること>の変容とボランティアの「終焉」

仁平 典宏(日本学術振興会)

 現在、ボランティアの隆盛がおこっているが、その陰で静かに進行しているのがボランティアの「終焉」というべき事態である。例えば、2000年以降、長い間ボランティア活動の普及に努めてきた諸団体が、相次いで「ボランティア」という語から距離を取り始めるなど、この事態は徴候的な形で様々に見出すことができる。これは一体何を意味しているのだろうか。

 本報告では、この現象の意味を的確に捉えるため、戦後の日本における「市民」をめぐる意味論の中で「ボランティア」という語の位置の変化について考察していく。終戦から20年の間は、ほとんどその場所を見出すことができなかった「ボランティア」の語は、特に1970年代以降、「市民活動」の典型的な一つとして、様々な行為に適用可能な思想財として用いられるようになっていく。それは、「運動か動員か」という既存の二値コードから逸脱する領域を一般化していくとともに、様々な「活動」の可能性をその領域の中へと縮減し、それを通して「国家/市民社会」という問題設定をも規定してきた。それは「市民であること」をめぐる問題系を、「政治」から「贈与-交換」の意味論の中へと転位させていくものだったと言えるだろう。これに対し、現在の「ボランティア」の語をめぐって生じている変化は、上記のような形で過去20年にわたって構成されてきた「市民」をめぐる意味論の、新たな変化を示しているように思われる。

 この点を確認していくために、戦後から現在に至る「市民」及び「ボランティア」に関するドキュメント資料とインタビューデータの分析を行い、「市民」をめぐる意味論の中での「ボランティア」の位置価の変容とその意味について検討していく。

第4報告

「教会アジール」――ドイツにおける市民の難民保護運動

昔農 英明(慶應義塾大学)

 今日ヨーロッパではフランスの「サンパピエ問題」に見られるように、非正規滞在者・不法移民に関する問題が移民研究の中心的課題の1つになっている。ドイツでも1993年に難民の庇護(Asyl)を定めた基本法(憲法)庇護権規定が改正されて、これまで以上に難民認定が厳格に行われるようになると、庇護申請を却下された人々や不法移民など法的地位の不安定な外国人が増えるようになった。こうしたなか、キリスト教会の人々などが、中世の時代に存在していた「教会アジール(Kirchenasyl)」という教会の「伝統」を盾にして、難民を保護する運動をここ20数年活発に行うようになっている。そこで本報告では、現代ドイツが抱える移民問題の一端を明らかにするために「教会アジール」を事例として検討したい。「教会アジール」とは、キリスト教会が組織的・統制的に行う難民保護でも、また個人の保護でもなく、「ゲマインデ(Gemeinde)」という教会コミュニティの保護運動である。こうした運動は、教会アジールの事例検討からもわかるように、国家の難民政策の不備を補う「補完的人権保護」であることが浮かび上がってくる。しかしながら、教会アジールをめぐってはこうした運動を「市民的不服従」として捉え、プロテスト運動として発展させるのか、あくまで「キリスト教徒としての責務」による難民保護とするのか議論となっており、当事者のあいだでは教会アジール運動の方向性が明確ではないことが報告では明らかにされる。

第5報告

二十世紀イギリスにおける性愛と法
――同性間の親密な関係を事例として

野田 恵子(東京大学)

 本稿は、1885年の刑法改正法の成立以後、イギリスにおいて犯罪化されていた男同士の親密な関係が、二十世紀後半に成立した性犯罪法において脱犯罪化された経緯を検証することによって、「同性愛」の脱犯罪化が可能になった社会的・歴史的背景、およびその含意を再考することを目的としている。2005年12月、イギリスにおいて、市民パートナーシップ法が施行され、「同性愛」のカップルに「異性愛」の婚姻関係とほぼ同様の権利と義務が付与された。しかし「同性婚」という「同性愛者」の積極的な権利の獲得が実現される以前のイギリスにおいては、あらゆる形態の男同士の「同性愛」が犯罪化されており、その消極的な権利の獲得、つまり「同性愛」の脱犯罪化すら達成されていなかったということは、市民パートナーシップ法の成立の背景を考察する際にも看過することのできない重要な事実であろう。本報告では、性犯罪法を、市民パートナーシップ法の成立へと至る、「同性愛」をめぐるアイデンティティ・ポリティクスを可能にした端緒と捉えることによって、「同性愛」の脱犯罪化を、性に対するリベラリズムの生成やそれに付随する人々の性に対する態度の変容という観点のみには還元できない位相において考察する。その際に注目するのは、同性間の親密な関係に対する人々の認識形態の変容である。というのも同性間の親密な関係自体はどの時代にも存在していたはずであり、そのような関係の犯罪化/脱犯罪化という出来事の背景には、社会がそれを把握する認識形態やそれに伴った態度の変容が見出せるはずであるからである。

報告概要

伊豫谷 登士翁(一橋大学)

 民営化や規制緩和に象徴される新自由主義国家体制のもとで、新保守主義の台頭に対して、社会運動は大きな困難に陥っている。第5部会は、こうした状況において、さまざまな社会運動のあり方を分析し、問い直そうとするものであった。見上報告「次善としてのナショナル・アイデンティティ」は、社会的な下層に位置づけられる保守的右翼運動の構成員に焦点をあて、かれらがもつアイデンティティの揺らぎを論じた。伊藤報告「『文化交流という入り口』から」は、アイヌ文化振興法以降の運動を、これまでの肯定/否定という面ではなく、文化と言われるものの運動の可能性という点から評価する。二平報告「戦後日本における<市民であること>の変容とボランティアの『終焉』」は、「市民」論におけるボランティア論の展開を丹念に位置づけ、動員型に対して参加型市民社会の変化を追跡しようとしたものである。昔農報告「教会アジール」は、ドイツの難民政策に対峙するものとして、中世の教義を拠とする教会による難民保護の運動を取り上げ、難民問題の一側面を明らかにした。

 多元化する時代にあって運動の共通した課題を挙げることは不可能であるが、あえて時代に通底するテーマを挙げるとすれば、次のようになるであろう。各報告は、1)グローバリゼーションと言われる新しい時代の運動の方向性を模索しようしており、2)既存の理論的枠組みには必ずしも拘泥せず、しかしながら3)運動が直面する厳しい現実に直面して、緩やかな変革を志向しているように思われる。限られた時間での報告であり十分な議論が尽くされたわけではないが、討論では、次のような論点が指摘された。第一に、議論を展開する際の概念の曖昧性あるいは時期区分の指標の不明確さなど理論的な荒さである。第二に、さまざまな社会運動が分節化するなかで、他の社会運動との連関への目配りが希薄なように感じられる。第三には、権力やナショナリズムに対する行為主体のポジションに配慮しながらも、自らの位置については無自覚である。

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