第1部会:理論(1)  6/18 14:00〜17:30 [5号館・1階 5124教室]

司会:上野 千鶴子 (東京大学)
1. 責任と社会構造  [PP使用] 種村 剛 (中央大学・関東学院大学
・小山工業高等専門学校)
2. ギデンスとアーチャーにおける時間概念の違い 野口 雅史(法政大学)
3. 社会問題の構築、自明性/没問題性の構築 草柳 千早 (大妻女子大学)
4. ラディカルな社会構築主義と臨床社会学の新地平 古谷 公彦((財)政治経済研究所)
5. 存在論的構築と自己組織化
──〈反法則科学〉の視点──
吉田 民人

報告概要 上野 千鶴子 (東京大学)

第1報告

責任と社会構造

種村 剛
(中央大学・関東学院大学・小山工業高等専門学校)

 本報告は、責任と社会構造の関係を説明するモデルを、責任概念のレビューを下敷きにしながら示すことを目的とする。

 「責任」は多義的な概念である。ここでは「責任」を、response to とあらわすことができる「〜に対する責任」あるいは「〜の前での責任」を指すものとして、限定的に扱う。

 「社会構造」を、支配とその正統性に着目して操作的に区分し、つぎのようにラベルする。(1)支配の正統性が「神聖性」を通じて担保されている時代(「古代」)、(2)支配の正統性が「世俗的正統性」を通じて担保されている時代(「中世-近世」)、(3)支配の正統性が「自由な個人の合意」を通じて担保されている時代(「近代」)。

 責任概念のレビューから、「責任」と「社会構造」の対応関係を示す。すなわち(1)「古代」における「神に対する責任」、(2)「中世-近世」における「上位権力者に対する責任」、(3)「近代」における「個人に対する責任」である。

 これらの責任の異同を明らかにするために、〈現前するものに対する責任-現前しないものに対する責任〉、〈垂直関係としてあらわせる責任-水平関係としてあらわせる責任〉の二軸をもちいて説明モデルを立てる。

 説明モデルの御利益を示すために、応用問題として(1)「無責任の体系」はなぜ生じたのか、(2)未来の人への責任を負うことと社会構造の関係について、報告する。

第2報告

ギデンスとアーチャーにおける時間概念の違い

野口 雅史(法政大学)

 本報告では、ギデンスとアーチャーの理論の違いを、エージェントの時間概念の違いから検討することを目的とする。具体的には、アダムがアーチャーのモーフォジェネシスにおける時間概念は、ギデンスの時間概念に吸収されると述べていることから、ギデンスとアーチャーのエージェントの行為の概念に含まれている時間を検討する。

 アダム(Adam1990=1997)のギデンスとアーチャーへの批判は以下の3つに絞られる。(1)習慣や反復の絶えざる循環に焦点をしぼり変形を強調する理論であり、真の創造性や新しい社会的実践と制度の現出を説明する基盤にはならない。(2)没時間と考えられる概念は、たいてい観察者の準拠枠の変化よりもはるかにゆったりとした変化ペースである。そのため、内容と形式の二元性(duality)に基づいて概念化されやすい。(3)アーチャーによるギデンス批判はアーチャー自身にもあてはまる。その理由はアーチャーの理論が反復と変形の二元論(The dualism of repetition and transformation)であるからだ。変形と反復は切り離せないというという考え方は、ギデンスが克服をしようとした問題だからである。

 上記に見るようなアダムの批判が正しいものかどうかを検討することを通じて、ギデンスとアーチャーとの間にある理論的な違いを明確にすることができる。このように、ギデンスとアーチャーとの時間概念の違いを考慮することにより、両者のエージェントの概念が明らかなる。

第3報告

社会問題の構築、自明性/没問題性の構築

草柳 千早(大妻女子大学)

 本報告は、日常的な現実の自明性/没問題性を、社会問題研究における構築主義の視点から問題化することを試みる。

 社会問題研究における構築主義は、社会問題が人々の営みを通じて構築される過程に焦点を当てた。このアプローチの関心は、あくまで社会問題にあったと言えるが、他方で、その視点は、没問題的な日常の自明性に対して同様の認識をもたらし、自明なもの、没問題的であるものの構築を経験的に問うことを可能にする。可能にする、というよりも、あらためてそれについて問うことを論理的に促す、とも言いうる。というのも、問題の構築は、没問題性の否定という契機を含む、つまり両者は表裏の関係にあるからである。

 報告では、「あらゆる語りはクレイムとして読むことができる」、という見解を、構築主義的な社会問題研究から取り出し、そのことが日常的現実の自明性/没問題性に対して持つ含意を考察する。上の見解は、日常の自明性とは誰にとっての自明性か、という問いを顕在化させ、自明なものそれ自体を、人々による不断の産物としてあらためて問題化する。以上の点に加え、報告ではさらに、上のような視点の取り方が社会問題研究に対して持つ含意についても考察する。

第4報告

ラディカルな社会構築主義と臨床社会学の新地平

古谷 公彦((財)政治経済研究所)

社会の実在する状態を想定した上で人々のクレイム申し立て活動が社会問題を定義する過程で社会問題自体が構築される、といった「穏健な」立場の社会構築主義に対して、ウルガーとポーラッチが「オントロジカル・ゲリマンダリング(存在論上の境界線の恣意的設定)」で可能性を示したようなラディカルな社会構築主義の立場もある。存在論的と言うよりは認識論的に、言語を介しての社会的構築を受けていない物事は存在し得ないというこの立場は、ケネス・ガーゲンによっても提示されている。この立場は相対主義的な価値観を取らざるを得ないため、道徳や責任の概念について批判を受けてきたが、ガーゲンが示す「対話の持つ可能性」や「他者の肯定」の問題を手がかりに、真木悠介が提示した「「性善説と性悪説」は欲求の社会関係が「相乗的」か「相剋的」かによって規定される」という論点につなげていくことが可能である。その論点の検討を深めていくことにより、ナラティブ・セラピー的なミクロ状況における「治療実践」だけでなく、社会問題の「より建設的な解決」や社会運動の創造的展開の可能性を扱う「社会問題の臨床社会学」を提起することができる。さらにマクロなレベルにおける的な実践を視野に収めることで、フェミニズム、クィア・スタディーズ、権力分析、ポストコロニアリズム等を貫く問題提起を、それぞれの固有な問題相互の関係を明らかにしながら、相剋性の磁場から相乗性の磁場への転換、支配の欲求を解放し出会いの欲求へと転化していく問題へと捉え返していくことで、社会関係=対他−対自関係の根底的転換を目指す臨床社会学の新地平を展望する。

第5報告

存在論的構築と自己組織化――〈反法則科学〉の視点――

吉田 民人

 この報告では「存在論的構築」と「自己組織化」という物質層には妥当しない、生物層と人間層に固有の二つの理論枠組みの関連を明らかにしたい。どちらの枠組みもそれぞれ遺伝的プログラムに代表されるSN(シグナル)型と言語的プログラムに代表されるSB (シンボル) 型に分かれるという意味では、20世紀学術の専門分化の負の側面、とりわけ文理の乖離を克服する文理横断性を備えている。ただ自己組織理論については「自己組織化の法則」(散逸構造ほか)という前提に立つプリゴジン型と、汎ダーウィン則(変異と選択)に基づいて形成・維持・変容・消滅する「自己組織化のプログラム」を前提にする私の持論とを混同しないでほしい。何らかの進化段階の記号を必要とする「構築」は前者とは無縁である。ところでSN型・SB型の「構築」は、一体として把握された「システムと環境」のどちらの項にも関わる。「システムのプログラム」とその作動の条件/手段としての「環境のアフォーダンス」は相補的であるが、環境アフォーダンスは物理科学法則か、内在または埋め込まれたSN型・SB型のプログラムによる。非物理科学法則的なアフォーダンスはじつはSN型・SB型の「構築」の産物にほかならない。つまり、構築は「システム自体の構築」とそれと相補的な「環境アフォーダンスの構築」に二分される。プログラム型自己組織化は一体化された「システムと環境」のシステム構築に視点を据える枠組である。

報告概要

上野 千鶴子 (東京大学)

 自由報告部会、理論(1)は、60名程度の参加者を迎えて、5名の報告者の報告をもとに活発な討論が持たれた。種村剛(中央大学)さんの「責任と社会構造」は、古代から近代までの責任の概念の類型学をもとに、後期近代においてはじめて「現前しない個人に対する責任」の概念が登場したことを示した。野口雅史(法政大学)さんの「ギデンスとアーチャーにおける時間概念の違い」は、ギデンスの時間概念が「新しい社会的実践と制度の現出を説明できない」とするアダムの批判を受けて、アーチャーの「反復と変形の二元論」が新しい形態変容ともたらす可能性を示唆する。古谷公彦(政治経済研究所)さんの「ラディカルな構築主義と臨床社会学の新地平」は、近年臨床社会学で注目されているガーゲンを通じて、真木悠介と広松渉のふたりをラディカルな社会構築主義として再解釈する試みである。草柳千早(大妻女子大)さんの「社会問題の構築、自明性/没問題性の構築」は、社会問題のクレイム申し立てを抑制する抵抗の諸力について論理的かつ繊細な手つきで論じ、社会問題の構築主義の図と地を反転させてみせた。最後に学会の長老である吉田民人(無所属)さんが、「存在論的構築と自己組織化――<反法則科学>の視点」で、構築主義が認識論にのみ狭く限定されていることを問題視し、価値論と実践論へまで拡張する日頃のメタ科学論を主張し、吉田節を聞きに集まった聴衆を、私自身をも含めて堪能させていただいた。