第8部会:感情・身体  6/19 10:00〜12:30 [5号館・1階 5125教室]

司会:崎山 治男 (立命館大学)
1. 生活保護ケースワーカーと感情労働 小村 由香 (早稲田大学)
2. 「人類への警告」──
70年代先天性四肢障害児父母の会原因究明活動の軌跡──
堀 智久 (筑波大学)
3. 社交する身体
──〈原身体〉像へ(W)──
松尾 信明
4. 心的現象の知 江川 茂 (茨城県立あすなろの郷)

報告概要 崎山 治男 (立命館大学)
第1報告

生活保護ケースワーカーと感情労働

小村 由香 (早稲田大学)

 生活保護ケースワーカーの職務は、クライアントのニーズを正確に把握し、適切な支援を行うことである。そのためにはクライアントとの信頼関係を築くことが重要である。生活保護ケースワーカーの仕事は日々の職務のなかで、クライアントへの共感、同情、苛立ち、怒り、悲しみ、喜びなど、多様な感情を経験する。彼らは職務を遂行するために、自己およびクライアントの感情を適切に管理し職務を遂行していかねばならないが、そのなかで幾つかの困難に直面している。

 まず、一方でクライアントを受容し共感することを求めながら、他方で「巻き込まれ」や「のめりこみ」を回避し、適切な関係を維持することを求められるように、職務規範そのものが矛盾を内包しているために、ケースワーカーに葛藤を引き起こすことである。またクライアントへの過剰なコミットメントを避けるためには、やりすぎは禁物である。クライアントのために、何とかしてあげたい気持ちを抑えねばならないことから無力感、やり残し感をもたらす。法・制度と現状とのギャップ、組織とクライアントとの間で板挟みになって苦悩しているケースワーカーの姿もあった。さらにクライアントとの相互行為には、職務と自己とを明確に分離できないような要素が残ってしまうため、その両者のバランスをとることは難しく、燃えつきや心身の不調を訴える人も多く、「福祉事務所は一番行きたくない職場」とも言われている。

第2報告

「人類への警告」
── 70年代先天性四肢障害児父母の会原因究明活動の軌跡──

堀 智久 (筑波大学)

 本報告の目的は、「障害児の親」が、いかにして社会的エージェント役割からの離脱が可能か、いかにしてよりよき解放的な感情管理が可能になるのかを探ることである。対象となるのは、70年代「先天性四肢障害児父母の会」の原因究明活動であり、この展開を感情社会学の立場から追うことによって論じる。この会は現在、出生前診断反対等の意見表明のみならず、「子どもの障害はあってもよい」という思想を全面的に打ち出す会として、多く知られている。

 70年代の父母の会の原因究明活動は、環境汚染・自然破壊を問題にする当時の市民運動と軌を一にすることによって、彼らの憤り・怒りと親たちの感情が渾然一体となることによって、連繋され達成されたものである。この「人類への警告」と題された集合的な運動によって、親たちは、自らに課された子どもの障害の責任を転嫁・無効にし、社会全体の水準にまで押し上げようとする。

 ところが80年代、とりわけ80年代後半に入ってから、この原因究明活動は、大きな転換・変貌を遂げるようになる。それは、子どもからのクレームをきっかけとする「子どもの障害はあってはならない」とする見方の反省からであり、その後父母の会の運動は、積極的に、「子どもの障害はあってもよい」という見方を打ち出すようになっていく。

 こうした各考察から、親たちはいつ、社会的エージェント役割から距離を取り始めたと言えるだろうか。80年代後半に入ってからであろうか。報告の際には、この点も含めて、議論したいと思う。

第3報告

社交する身体 ──〈原身体〉像へ(W)──

松尾 信明

 報告者はこれまで、現在の社会学理論において「不在」とされてしまいがちである身体へのアプローチとして、例外的に、生体/原身体性/内臓系(自律系)、といった概念に着目する現代の少数の社会学理論を評価・整理し、これらがデカルトの言う「原初的概念」(notion primitive)としての心身結合に相当しうると思われることを論じた。

 これらを報告者は〈原身体〉を捉える試みと整理し直すが、しかし、実体的、固定的なものとしては考えない。そうではなく、いわば像としてとらえられるような〈原身体〉、すなわち〈原身体〉像へと向かうアプローチを、「身体の社会学」を構想する際に決定的に重要だと考え、提出してきた。

 これは、社会構築主義でも本質主義でもない身体へのアプローチを意味する。デカルトにさかのぼるとされる、いわゆる心身問題をしっかりと把捉できていないことは、社会学に根深く内在する理論的問題である。

 報告者の試みは、身体というものを軸としたひとつの理論モデルを、社会学の理論更新の一環として、デカルト以来の思考の伝統に位置づけようとするものである。そしてこの作業は、身体のみにとどまらず、社会学理論における問題点を内在的に捉え直すための、ひとつの手がかりを提示することにつながりうる。

 以上の問題意識のもと、本報告ではシリング(Shilling, 2005)に依拠し、身体に関する考察を展開する。キィワードは、「食」である。

第4報告

心的現象の知

江川 茂 (茨城県立あすなろの郷)

 表象の仮面(ペルソナ)と深層の表情では異なるのである。その深層のどのような変容にこのような現象は起こるのであろうか。歴史的社会的な事象の中で表象が変容しても深層はそのままなのであろうか。人々は理解化する場合は心象でのみ理解してしまうのでよく人から俺の事・私の事分かってくれないという事が起こってしまうのではなかろうか。文化的なものとはどのような関係があるのであろうか。そのような変容とは性のフロイトではないが性と関係が存在するのであろうか。性と意識は一致しないというがそこには整合性が内在化されているのではないか。性は不規則性であるからそれは整合性があり規則的な法則が内在化しているのではなかろうか。高校時代・相沢とか大枝らとヤクザ映画を見た後、ヤクザの組事務所があったとされる冷水一家の近くの坂道に小鳥・小動物屋があった。その店の中を見ていると面白い現象を発見した。普通の人が見れば何とも無い事であるがリスが円い輪状をぐるぐる回っている。何の事はない運動していたのであった。しかしこれを別の視点から見ると物理的に永久運動の法則が確立出来るのではなかろうか。それはまさしくマツダのコスモエンジンのように永久回転するのである。理論的に可能であるが実際に説計画を作成し作って見ると果たして可能なのであろうか。夢想に過ぎないのであろうか。エネルギーを必要としない永久運動なのである。政治的にはトロッキーの永久革命が存在する。では物理的にも永久運動は可能なのではなかろうか。心的現象の知の永久運動は知的歴史的社会的状況の中で法則的に存在するのか。

報告概要

崎山 治男 (立命館大学)

 本部会では、1)「生活保護ワーカーと感情労働」(小村由香氏)、2)「人類への警告:70年代先天性四肢障害児父母の会原因究明活動の軌跡」(堀智久氏)、3)「社交する身体:<原身体>像へ(W)」(松尾信明氏)、4)「心的現象の知」(江川茂氏)の4つの報告があった。

 第一報告は、生活保護にたずさわるケースワーカーの職務を感情労働と捉え直し、その困難をクライエントとの距離や職務領域の曖昧さや複雑さから分析したものであった。これに対しフロアからは、主にケースワーカー間での職務へのとらえ方の個人差・歴史的な差により異なった結論が導かれうるのではないかという指摘があった。

 第二報告は、障害児の親による異議申し立て活動の変遷を、親の側の愛情規範の相対化と「怒り」の感情の積極的な表出・保持という観点から捉え直したものであった。これに対しフロアからは、社会運動全体の文脈の中での意義付けや、「怒り」といった感情を対象とする積極的な意味が曖昧であるといった指摘があった。

 第三報告は、身体論を社交という概念から捉え直し、その原理を食という観点から、その共同性・消費のあり方の変容について、学説史に即して再構成したものであった。これに対し、フロアからは逆に社交という概念が弱められてしまうのではないか、といった指摘や、身体と言語との関連についての疑問が示された。

 第四報告は、身体や心という概念を、無意識といった概念や民族性から捉え直したものであった。これに対し、無意識という概念をどう捉えるか、といった指摘がなされた。

 第一・第二報告は、感情社会学・感情労働論を様々な事象に応用させていく可能性を感じさせたが、一方でその歴史的・社会構造的な背景の扱い方が問題として残されていることを改めて考えさせるものであった。第三・第四報告は身体論を具体化する切り口を感じさせたが、一方でそのことにより身体という概念が弱められたり、構成論との距離が問題となったりすることを改めて考えさせるものであった。