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年次大会
大会報告:第54回大会 (報告要旨・報告概要:自由報告 第1部会)


第1部会:理論(1)  6/17 10:30〜13:00 [西校舎・1階 512教室]

司会:馬場 靖雄 (大東文化大学)
1. 緊張関係のダイナミズム(1)
―― 可能なる批判的社会理論に向けて 喚起の地平としての「サードオーダーの観察」
  [PP使用]
堀内 進之介 (首都大学東京)
2. 緊張関係のダイナミズム(2)
―― 教育社会学における「サードオーダーの観察」の必要性
  [PP使用]
鈴木 弘輝 (首都大学東京)
3. 緊張関係のダイナミズム(3)
―― 労働倫理観と教育理論における「サードオーダーの観察」
  [PP使用]
菅原 亮 (首都大学東京)
4. 代替社会構想と信頼性 小林 幹生 (首都大学東京)
高橋 和宏 (首都大学東京)

報告概要 馬場 靖雄 (大東文化大学)
第1報告

緊張関係のダイナミズム(1)
―― 可能なる批判的社会理論に向けて 喚起の地平としての「サードオーダーの観察」

堀内 進之介 (首都大学東京)

 本発表は、批判的社会理論の抱える難題(社会評価の準拠点はどのように正当/正統化し得るか)に関して、「サードオーダーの観察」を起点にしてこうした難題そのものの脱構築を視野にいれた批判の可能性について論ずることを試みる。こうした試みの先駆的研究としてフランクフルト学派第三世代に当るアクセル・ホネットの議論を参照しつつ、批判的社会理論をむしろ特殊な社会理論的な思想として捉え返す、理論的実践の試みを検討したい。かかる試みを検討するに当り、第一歩として、その論理的な構成を社会システム理論の観察の概念によって記述しようと思う。またそうした記述によって論理的な構成を明らかにする過程で、逆説的にも社会システム理論の観察の概念自体が抱える問題を、いくつかの政治思想の中に見出そうと思う。社会システム理論の視座を導入する理由は、ニクラス・ルーマンとユルゲン・ハーバーマスとの間で交わされた論争の結果、批判的社会理論にはシステム理論の視座が、システム理論には批判的社会理論の視座が組み込まれたことによって、彼らの理論を受け継ぐそれぞれの理論的な系譜において、ある種の共鳴関係が見出されるようになったと思われるからである。先にも述べたように本発表では、とりわけ倫理的相対主義としてのポストモダンの思想的な状況下において、社会の現行のあり方を批判的に記述することを目的とした理論的営為(=セカンドオーダー)としての批判的社会理論が、先の難題を抱えるが故に、却ってそうした批判的な記述によって新たな問題を生み出していることを指摘しつつ、それ自体をも記述し尚且つ克服することを目的とした理論的営為として「サードオーダーの観察」が、可能なる批判的社会理論にとって欠かせないものであるとの意を論じることを試みたい。

第2報告

緊張関係のダイナミズム(2)
―― 教育社会学における「サードオーダーの観察」の必要性

鈴木 弘輝 (首都大学東京)

 本報告は、最近の教育社会学(特に〈「学校教育」をめぐる議論〉)を、「サードオーダーの観察」を起点として論ずることを試みる。そして、そのような理論的営為を通じて目指すのは、最近の〈「学校教育」をめぐる議論〉が内包している「現行の社会を特定の有り様に統合する」という側面を批判し、「現行の社会とは別の有り様の可能性を披く」ような方向へと〈「学校教育」をめぐる議論〉を展開しようとすることである。そのための第一歩として手がけるのが、「人間として望ましい生き方を(当人の意向を無視して直に)押しつけてくる」という「パターナリズム」を日本の学校教育の特徴と捉え、それに対して批判を加えることである。日本では「子どものためを思って…」という「親心」が頻繁に見出されるほど「パターナリズム」が浸透しており、それに「親(や先生)のためにがんばる」と返答する「子心」もまた頻繁に見出される。また、この「パターナリズム」が明治時代以降における急激な近代化の前提になったのも事実である。しかし、N・ボルツが論ずる「現在」において、言い換えれば〈もはや「価値のコルセットをつけて生きること」も「大きな理念や制度の型にはまって生きる」こともできず、「人は自分が何であるかを自分で決めなければならず、意味はますます私的な事柄になっていく」ような時代〉において、まだ「パターナリズム」を「学校教育」におけるコミュニケーション原理と見なし続けることは、ボルツが「現在」に見ている状況よりもさらに深刻な事態を日本社会にもたらすとは考えられないだろうか。そして、このような疑問を社会学的言説として積極的に語るためには、〈「現行の学校教育のあり方」を記述する〉ことを目的とした理論的営為(=「セカンド・オーダーの観察」)だけではなく、さらに〈「現行の学校教育のあり方」そのものを相対化する〉ことを目的とした理論的営為(=「サードオーダーの観察」)が必要とされると考えられるのである。

第3報告

緊張関係のダイナミズム(3)
―― 労働倫理観と教育理論における「サードオーダーの観察」

菅原 亮 (首都大学東京)

 本発表は、戦後の日本社会における労働倫理観の変遷を系譜学的に追い、社会の底が抜けた状況としてのポストモダンにおける労働の倫理、さらにはそれを涵養した教育理論を描き出すものである。戦後の日本社会には、大きく分けて二つのターニングポイントがある。一つは、学生運動が盛んである一方で、「自分よりも会社が大事」な「モーレツ社員」を大量に生み出した1960年代であり、もう一つは、グローバリゼーションが進行する中、「フリーター」という現在それなくしては社会が回らなくなるほどの役割を占めるに至った存在が登場した1980年代後半である。この二つの時代において労働の意味論が大きく変化したことが、日本社会における労働倫理観の変質をもたらした。それは、N・ボルツが『意味に飢える社会』において「労働における倫理の意味」と「倫理における労働の意味」を論じたことにも通ずる根本的な転換点であると言えよう。ハーバーマスが「労働社会の終焉」を論じてから20余年になるが、現代の日本では「ニート」論が強い関心を得たり、「フリーター」はもはや問題とは見なされなくなりつつあるなど、労働倫理観と教育理論を巡る議論は衰えを見せることがない。〈「労働倫理観と教育理論」を批判的に記述する〉ことを目的とした理論的営為(=「セカンドオーダーの観察」)にとどまらず、その批判的な記述すらも相対化する理論的営為(=「サードオーダーの観察」)を導入することで、労働倫理観と教育理論における様々な緊張関係が浮かび上がってくるのである。

第4報告

代替社会構想と信頼性

小林 幹生 (首都大学東京)
高橋 和宏 (首都大学東京)

 今回の報告では、社会問題に対する人々の認識と対策をテーマとしたい。現代における齟齬と対立の社会問題に直面して、人々は単一の対処行動すら挫折してしまう傾向にある。そこで、単一の対処活動ではなく、「緩慢合意と複合協働」という両輪からの対処の場合に焦点を当てたい。錯綜とした社会問題と人々が対決するとき、いかにして、緩慢合意と複合協働は進められていくか。

 このとき、人々が世間の信頼性感覚―世間の他の人々は一般的な信頼感覚を持っている、あるいは持っていない、と思う感覚―をどのように保有しているか(同じサークルやネットワークで活動をしている者どうしの信頼感覚とは別のもの)が、「緩慢合意と複合協働」が展開するための媒介要因だと考えたい。

 そもそも、社会問題が新たなる社会問題を生んだり、ある原因を複数の問題が共有していたりと、とりわけ、複合的に絡まっているという意味で社会問題は複雑である。それゆえ、複合的な対策のほうが活動しやすくなるのではないか。しかも、統一合意のもとで強力に実行されていくよりも、緩慢合意によって試行錯誤・実践されていくほうが、同様によいだろう。また、ここでいう緩慢合意とは、(概念ネットワーク上)齟齬・対立の認識フレームが相互に了解可能になることに限定しており、意見や態度の収斂ではない。

 そのような活動が進展すれば、社会の部分的な修正にも、革命にも到達するとは思われない。一種の代替社会構想へと向かうだろう。したがって、代替社会構想のもとでの「緩慢合意と複合協働」と信頼性との関係について論じ、データ分析することになる。

報告概要

馬場 靖雄 (大東文化大学)

 本部会は、共通の枠組を前提とする報告が三本に独立した報告一本という、やや変則的な構成となった。第一〜第三報告では、ノルベルト・ボルツらに依拠しつつ、事態をあるがままに観察していると(例えば、これこれの規範は普遍的に妥当するはずだと)信じるファーストオーダーの観察と、それを批判し相対化するセカンドオーダーの観察に対して、両者を往還するサード・オーダーの観察の意義が強調する議論が提起された。第一報告では理論的枠組が提示され、第二報告が教育を、第三報告が労働問題を題材として議論を具体的に展開した。その後以上三報告に関する包括的質疑の時間が設けられ、この構想の有効性と政治的含意をめぐってフロアとの間で活発な討論がくり広げられた。第四報告では、齟齬・対立の認識フレームの了解可能化という意味での「緩慢合意」が社会問題を論じ処理する際にもつ意義が強調され、実際になされた議論に概念ネットワーク分析を施すことを通して、緩慢合意形成のプロセスと問題点について論じられた。その後、分析の際に個々の概念の文脈依存性をどう扱うか、時間軸を議論に組み込みうるかなどの論点をめぐる討論が行われた。

 司会者の不手際のため、第一〜第三報告と第四報告の間での対話を十分に行えなかったのは心残りであるが、各報告とも明確な問題意識と方法論に裏打ちされた、質の高いものであったと言える。

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